五六、告白
「なにを、言っている?」
一瞬、息を飲んだような沈黙がその場に落ちた後、そんな低く冷たい声を陛下が静かに発した。
私をもう一度アブレンに。
そう願い出た私を、陛下は鋭く睨みつけながら緩慢とした動きでソファから立ち上がって見下ろしてくる。
その声に、視線になんだか底冷えのするような恐怖を感じて、私はゴクリと一つ唾を呑みこんだ。
どうやら、私は陛下を今までにないほどに怒らせてしまったらしい。
けれど、それに怯んで負けるわけにはいかない私は、何かよくない方向に勘違いをしてしまったらしい陛下に対して慌てて言い繕う。
「ち、違うのよ」
目を逸らしちゃいけない。私は恐怖で竦みそうになる足にぐっと力をこめて、少しでも陛下の放つ威圧感に負けないように同じように立ち上がり出来る限り彼と目線を近づけ対等に張り合う努力をする。
「信じてって言ったでしょう? 私もね、この国を救いたいの。この国のためになることをしたいのよ。決してレストアを裏切るつもりなんてない。それにそもそも私はこの国にとって不利益になる情報なんてなにも知らされてないはずだわ。だって、私を敵だと怪しんでいたのなら貴方たちもそれに注意して私と接してきたんでしょう? 知っているはずがないわ。だから、大丈夫だからアブレンに行くために力を貸してほしいの」
「そんなこと許せるか」
切り捨てるようにそれだけ言って私から視線を逸らした陛下の腕を私はとっさに掴む。顔だけこちらに向けた陛下と睨みあい、そして私は真剣に問うた。
「私を信じてはくれないの?」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題?」
苛立たしげにため息を吐き出す陛下に私はそう訊ねる。陛下はそれに答えることなく無言で私を見詰め、そして改まるように再び私と体ごと向き合った。
「エリカ」
「何よ」
「前がどうだったとしても今のお前はエリカだ。この件でエリカに出来ることなど何もない。バカなことを考えるな。お前にアブレンのことを気にするなとは言わない。だが、これは俺たちの問題だ。お前は大人しくしていろ」
まるで言い聞かせるような陛下のその言葉に私は首を横に振るう。
そんなわけにはいかない。だって、陛下たちに任せておいたらそこで待つのはアブレンとの戦のみ。
そんなの嫌だから私はアブレンに行きたいと言っているのに。
それに、
「私にだって、出来ることはあるわ」
「何があると言うんだ」
「私、兄上に会うの。ランベール様が言っていた抜け穴を使ってアブレンに入ることさえできれば、それはとても簡単なことだから」
「簡単なものか。相手はアブレンの城の中だ。そしてこっちはここ数年、正式に遣わした者たち全てが城どころか国境で門前払いを喰らっている状態だ。こそこそとアブレンに入って、それで昔とは姿も何もかも違うお前が城に招き入れられるはずがない。なのにどうやって会うと言うんだ。会ってどうする以前の問題だ」
「いいえ。簡単なことよ。そんなこと。私を誰だと思っているの? 私はアブレンの王女だったのよ?」
「それがどうした。さっき言っただろう。それは今は何の意味もなさない」
「そんなことないわ」
私は陛下の否定をぴしゃりと退ける。
確かに陛下の言うとおり、エリカはティアと似ても似つかない。けれど、そんなことは関係ない。重要なのは、私がティアの記憶を持っているということ。
それさえあれば充分なのだということを知らしめるために私は敢えて陛下に問う。
「ねえ、陛下。このお城にもあるでしょう? 王族のみが知る通路が。国にとって大切なのは城ではなくそれを統べる王族だから。一緒に戦ってくれる国民と、王族さえ残れば国は滅びないから、だからもしもの時に一時的に身を隠すため、お城から逃げ出すための通路があるはずよ」
始めは怪訝そうに眉をひそめていた陛下が、ハッと気が付いたように私を凝視する。
「私はアブレンのそれを知っているわ。王女だったころ一度だけね、こっそりとお城を抜け出したことがあったの。お城の中しか知らなかった私は子供向けの冒険記に憧れて、どうしても外の世界を見てみたくって。兄上に『お願い』って頼み込んだの。そのときに渋々ね、『今回だけだよ』って教えてくれた。此処から出るのが一番簡単で安全だからって暗い地下に続くその路を二人で歩いたわ。今でも私はそれがどこからどこに続いていたのかちゃんと覚えてる」
『街が見たい。海が見たい。外に行ったらね、』
そんな風にはしゃぎながら、苦笑する兄上と歩いた暗い地下通路。小さな明かりだけが頼りだったけれど、心浮き立っていた私にとってそこはこれっぽちも怖くなんかなかった。
その通路の続く先。秘密の通路であるその出口には、勿論見張りの人間なんて立っていなかった。私はこれで自由なのだと思わず歓声を上げたものだ。
つまり、見張りのいないそこから入り、逆に辿れば。
あの通路の入口であった父上の執務室を今は兄上が使っているはずだから。
だから。
けれど陛下は、そう断言した私にそれでもと否定するように首を左右に振った。
「無謀だ。それにもしその手段が有効だったとして、それでお前に何が出来る?」
「兄上を説得するのよ」
「まともに取り合われるものか。せいぜい不審人物と見なされ捕えられて終りだ。今のアブレン王がお前の知っている兄だと思うな。向こうは当然、お前を妹などと認識していない。馬鹿も休み休み言え」
頭ごなしに言う陛下の言っていることは分かる。
けれど、
「分かってる。それでも私は行きたいの。無謀でも、やってみなくちゃわからないじゃない。もしかしたら私の声が届くかもしれないじゃない。確かに私はもうティアではないけれど、それでもシーラ様が貴方にアリス様の言葉を伝えたように私も兄上に伝えたい。伝えたいことたくさんあるの。だから……。それに、私は兄上と陛下が争い合うのなんか嫌よ。それなら出来る限りのことをしたい。やっぱり祈っているだけじゃ何も届かなかったから。だからお願い、私をアブレンに行かせて。兄上と会わせて」
「駄目だ」
「何で? だって、もう私の疑いが晴れたのならいずれにせよ私はお払い箱でしょう? それなら私がどうしようが勝手じゃない。今まで私を騙してたお詫びにそれくらい協力してくれたっていいじゃない。陛下の不利益になることは何もしないって言っているのに何で駄目なの?」
「エリカ!」
私の言葉のどこか、気に障るところがあったのか陛下に厳しく荒げた声で名を叫ばれて私はぐっと唇を噛み締める。
なんでこんなに頼んでいるのに。そんな不満とやりきれなさが私を襲って、私はそれまで陛下に向けていた視線を絨毯敷の床に落とした。
「いいじゃない。少しくらい私の我が儘きいてくれても」
勢いをなくした私は苦情のようにそれをぽつりと零す。
少しくらい、いいじゃない。いつだって陛下は私のお願いなんてきいてくれないんだから役に立ちたいと言っているこんな時くらい。
それなのに、
「許せるわけがない。そんな危険でしかないこと」
苦々しく吐き捨てるようなその声に私は顔を上げる。
それは?
「それは……もしかして危険だから駄目だってこと?」
「他にどんな理由がある」
他にどんなと言われても、それは私にとっては思いもよらなかった理由で、瞳をパチパチと瞬かせる。
心配だから。
「……ありがとう」
そんなふうに思ってくれたのならその気持ちはただ、嬉しいと思う。
けれど。
その嬉しさを噛みしめながら瞳を伏せる。
アブレンに行きたいと訴えている私にとってみれば、そのせいで渋られているというのなら、その優しさは必要のないものだわ。
だから。
私は考えつく。
それならばいっそのこと陛下が私を切り捨ててくれればいいんじゃないだろうか、と。
そうだ。それがいい。
そしてほら、そんな風に仕向けるとっておきのものが私にはあるじゃない。
たった一言。
それを口にすれば陛下はきっと私の望む答えをくれるわ。
“勝手にしろ”って、面倒くさそうなうんざりしたような顔で私を突き放してくれる。
言えばいい。
“好きよ”と。
勇気を振り絞って、自分自身を押し殺して、
「ねえ、陛下」
そう呼びかけて、私は陛下に微笑みかける。
けれど、それを口にすればもう再びこの場所に戻ってくることが出来なくなる。例え、この国を救えてももう二度とこんな風に過ごすことが出来なくなる。その事実が私のその笑みをぎこちないものにした。
「私、ね」
言わなきゃいけない。
望む答えがあるから。
でも本当は望んでいないその答えを聞くことになるだろう瞬間を少しでも遅らせたくて、私はゆっくりと一音一音噛みしめるように言葉にする。
「私……」
でも、目前で結局言いたくない気持ちが勝ってしまって、言いかけの言葉は喉に詰まり、私はそのまま口を噤んで目線を下に落とした。
何をやっているんだろう。
まったく情けない。
無様に縋りついて一体なんになるというのか。むしろこれは自分の気持ちに踏ん切りをつけるいい機会だろうに。
どちらにしろ疑いの晴れた私がこれまでのような、ぬるま湯のように居心地のよかったこの関係を続けられるはずがないのだ。それならばいっそ。
私はもう一度、勇気を奮い立たせて恐る恐る顔を上げながら小さく息を吸いこむ。
折角だからちゃんと目を見て伝えよう。そんなふうに思って陛下にその視線を向ける。
すると私が次の言葉を発するよりも早く、すっと伸びてきた陛下の手が私の片頬を包み込んだ。
「エリカ」
絞り出すような声が私の名を呼ぶ。
見開いた私の瞳に映るのは切なげに歪んだ陛下の顔。
なんで彼がそんな表情をするのか分からず、私はただそんな陛下をじっと見つめた。
「頼むから、」
何を、だろうか。一度途切れたその言葉の続きを待っていると、私の頬を包む手に微かに力が込められて、もう片方の手が私のぶら下がった手の手首を掴む。逃げる気なんてないけれど、逃げられないなとぼんやり頭の片隅で思った。
陛下が、一度俯けた顔をもう一度上げる。
「頼むから、変なことを考えるな」
「でも、」
「愛してるんだ。
だから、何処にも行かずこのままずっと傍にいてくれ」
口にしようとした反論を遮られ、何故か懇願するように言われたのはそんな言葉。
どういう意味だろうか? 愛してる? 誰が誰を?
私が陛下を。うん。それはそうなのだけれど何故その言葉がそれを告げようとしていた私の口からではなく陛下から聞こえたのか理解できなくて硬い動きで首を傾げた。
「えっと……?」
訳が分からず呆然と陛下を仰ぎ見る。けれど、そんな私を見下ろす陛下の真剣な瞳と、その奥に揺れる熱に気が付いてしまった瞬間、私は焦りを覚えて慌てて私を捕えている陛下の手を振り払いその場で後ろを向いた。
「ちょ、ちょっと待ってっ」
まさか。そんなはずない。
両方のこめかみに軽く握った手を添えて混乱する頭をなんとか落ち着かせるように努力する。だってそんな事有り得ない。
そのはずなのに、そのとき不意に頭を掠めたのはいつかのオルスの謎かけとシーラ様の言葉。
『ちなみにその怯えの対象はお前だ』『アリスはずっと怯えていました。陛下の愛する女性が現れる日に』
アリス様が怯えていた存在。そしてアリス様は私に怯えていたのだとオルスは言った。
引っ掛かりを覚えなかったわけじゃない。ただそんなはずないと、オルスの思い違いだと気付かなかったことにしていただけだ。けど……。
「本当、に?」
ゆっくりと振り返りながら陛下に問いかける。全身の血液が顔に集まったかのように頬が火照る。その上、問いかけはしたもののまだ半信半疑な私はきっと今とても情けのない顔をしているのだろう。
そんな私に、陛下は少し不本意そうにぶすりと顔を歪める。
「俺もエリカに嘘を吐いたことはないはずだが」
「貴方の場合、本当のことさえちゃんと話してくれなかったじゃない」
言い返しながら、でもと思う。
そうかもしれない。
思い返してみれば、私は陛下から国王として、臣下にみせているような顔を向けられたことはない。疑われていたというけれど、情報を得るために脅されたこともなければ甘言を囁かれたこともない。
とても真摯だとは言えないながらもいつだって陛下は陛下だった。だから、私も陛下を信じられたし事の裏側を教えられても陛下への感情は何も変わらなかった。
陛下はそんな人だって私は知っているわ。
つまり、本当にこれは嘘なんかじゃない?
私はこめかみに添えていた両手を降ろして、意を決して一歩陛下の前へと歩み寄りこちらを見詰める陛下を見る。
「私もね、陛下のこと好きよ。愛してる」
さっきは詰まった言葉が、今度はすんなり口から出た。
その瞬間、私を引き寄せる力に身を委ねて、私も陛下の首に腕を伸ばして抱きつく。
未だに実感がわかず心が浮ついているけれど、きつく私を抱きしめる腕の力でこれは夢ではなく現実なのだと思い知らされて、受け入れられた喜びで胸が詰まりそうな幸せを感じる。
まさか、そんなふうに想って貰えているなんて想いもしなかった。
とても嬉しい。
このまま時が止まってしまえばいいとさえ思うけど、でも。
私は目と手に力をこめてぎゅっと閉じる。
「でも、ごめんなさい。私……」
「エリカ!」
叱責するような声と共に私の肩を掴んだ陛下は私を引きはがし睨みつけてくる。私は瞳を伏せることでその視線から逃れた。私だって、自分がいかに聞き分けがないかってことくらい分かってる。だけど、
「だって、ランベール様も言っていたじゃない。こっちの方が分が悪いって。私は終わりが近づいていると知りながら幸せになんか浸れない。私は、そんなの嫌なの。だから、私は行くわ。幸せになりたいから」
「……どうしても行くと言うのか」
「ええ。どうしても、貴方がなんと言おうと」
「結局馬に乗れなかったくせにか?」
「なんで知ってるのよ! そ、れは、どうにかしてみせるからいいのよ」
だから決して譲らないと、今度は陛下の視線を強く受け止める。
しばらくその場に沈黙が落ちた後、ついに陛下が深くため息を吐き出して私の手首を掴み再びソファに腰を落とした。引っ張られた私も陛下の隣にそのまま座らされる。
「もう勝手にしろ。好きに行ってきたらいい」
投げやりのように言った陛下の表情は俯いている上にもう片方の手で覆われていて見ることが出来ない。
「いいの?」
その陛下の言葉に驚いたというのもあるけれど、もしかしてこれは早速見限られたのだろうかという不安に焦りながら恐る恐る確認してみる。すると陛下は私から手を離して、先ほどまで顔を覆っていた手を肘掛けに立てて軽く頬杖をついて面倒くさそうに言った。
「いつか、お前がいなくなるような気はしてた」
「え?」
「それにどうせお前が一度言い出したら聞かないことくらい知っている」
「……マルコにも言われたわ」
「マルコ?」
「アブレンの馬丁をしていたお爺さん。そう言って、最期の日に兄上の馬に乗りたいって言った私の我が儘を聞いてくれたんだけど……」
申し訳なさと後ろめたさで視線を泳がせる私の言葉と態度から前に話したことをきちんとつなげてしまったらしい陛下の、私を見る目が痛い。
「お前は本当に反省してるのか?」
「してる、はず」
いまいち断言することの出来なかった私に陛下はこれ見よがしに呆れたようなため息を吐き出した。
「やっぱり行かせたくはないが、どうせ俺が許可しなかったところでお前がどんな行動をとるのかも熟知してるつもりだしな」
「どんな行動?」
「俺がダメならとこそこそアルフレッドに頼みに行くだろ」
「ああ! なるほど」
確かにそんな行動に出る気がすると納得していると、こちらに体を向けた陛下が私の髪に指を差し込んでそしてそのまま梳いていく。
「全てはあいつの狙い通りなんだろうな」
「何が?」
「別に」
緊張しながら問いかけた私に陛下はそう短く答え、「国のため、か」と小さく呟くように言って濃い青の瞳を軽く伏せた。それは諦めたように悲しげで私は自分がそんな顔をさせているのだと分かっていながらも彼を慰めたくてそっと陛下へと手を伸ばす。けれど、その手は陛下に触れる前に捉えられ引き寄せられた。それに呆気にとられていると唇に何かが触れた感覚がした。
瞳を見開けば間近には陛下の顔。
陛下が、彼もまた覚悟を決めたように強い瞳で私を見る。
「行ってこい、エリカ。だが、気を付けて」
「……ええ」
再び口づけが落とされる。それはとても寂しくて悲しくて、甘かった。




