五二、背中合わせ
ある、執務のひと段落した午後。
足を組んでソファに座り、その肘掛けに頬杖をついていたジェルベは小さく部屋に響いた物音に、伏せていた濃い青の瞳を開け徐に顔を上げた。
見れば案の定、先ほどまで席を外していたアルフレッドがこの部屋に戻ってきたようでこの執務室の扉を物音を立てないようにするためかゆっくりとした仕草で閉めている。
「戻ったか」
その後ろ姿に声をかけると、アルフレッドはジェルベの方へと振り返り、小さくその首を傾げた。
「おや、起こしてしまいましたか?」
「寝ていたわけじゃない。少し、……考え事をしていただけだ」
「そうですか」
そのままアルフレッドがジェルベの向かいへとやって来る。
「どうです? 最近は。少しは眠れるようになりましたか?」
「……いや」
ジェルベはアルフレッドの問いに、頭をゆるく左右に振る。
アリスに対する、消えることのない負い目はあるけれど、それでもずっと抱えていたわだかまりはほとんどなくなった。
もう、責めるようにアリスが現れることもない。
けれど、長いときを重ねて体に染みついている不眠がそうそう簡単に元に戻るはずもなく、再び昔のように眠りが訪れるようになるにはもう少しの時間が必要なようだった。それに。
それとは別の意味でも、とジェルベは思う。
「眠れるわけがない」
そう眠れるわけがないのだ。
「どうして、ですか?」
「……エリカがいる。寝首をかかれるわけにはいかないだろう?」
問いかけてきたアルフレッドに皮肉を込めて、その当然であるはずの理由を答える。エリカが敵である可能性がある以上、警戒しないわけにはいかない。そのはずだ。
それなのに、
「貴方は……」
ジェルベの答えに、アルフレッドは眉根を深く寄せ、何やら難しい顔で口を引き結んだ。
そして何故か落胆したような溜息を小さく吐き出す。
「それは素晴らしい心がけですがね」
ぽつりと零すように、アルフレッドの口から洩れたその言葉の中にどこか不満げな色を感じ取って、ジェルベはそれを鼻で嗤った。
確信が、更なる確信へと変わる。
「なあ、アルフレッド」
呼びかけると、アルフレッドは「なんです?」とジェルベに顔を向けた。
そんなアルフレッドに、ジェルベはわざと艶やかに、口元に弧を描いて見せる。決して言い逃れなどさせないようにじっとアルフレッドを見上げて。
「お前はもう掴んでいるんだろう? エリカは何者だった?」
アルフレッドは驚いたように微かに瞳を見開いた。
けれど、
「どうして分かっているのに言わない? 黙っている?」
続けて問いかけると、アルフレッドは少し考えるようにした後その口元に微笑みを取り戻し、憎たらしいほど落ち着いた様子で首を傾げてみせた。
「……何故、私が突き止めていると、そう思われるのです?」
まるで試すようにアルフレッドは問いかえしてくる。
そんなアルフレッドにジェルベは苛立つ心をぐっと抑え込み、きつくその瞳を睨みつけた。そして、努めて冷静にそれに答える。
「なんとなくお前の態度がエリカを探るものから確認するものに変わった気がする。それに加えて最近、故意に俺とエリカを近づけてるだろ。何を考えてる? 何が目的だ」
「目的……。そうですね。敢えて言うのならばあなた方にきちんと向き合っていただきたいだけです。そして……」
そこで一度言葉を切ったアルフレッドは、迷ったように地に視線を彷徨わせて、そして思い直したようにそれをジェルベのものと合わせた。
「それで? 私に訊ねる前にあなた自身は何をどこまで突き止められましたか? 少しくらい彼女が見えましたか? 真実に、近づけましたか?」
「……お前はそれに近づけたと言いたいわけか」
まるで、自分はエリカの全てを知っているとでも言いたげなその問いに苛立ち、ジェルベは苦々しく奥歯を噛み締めた。
分かるなら、こんなふうにアルフレッドにその答えを求めたりなどしない。出来ることならばジェルベも自分自身で突き止めたかった。
自分の手でエリカを捕まえたかった。
けれど、分からないのだ。ごく稀にエリカが落としていくその欠片を決して取りこぼさないように拾い集めているのに、どんなに組み合わせ並べ替えてみてもどうしても正解にたどり着けない。何かがおかしいのだ。何かが邪魔をしていて、なにをどうしてもそれが上手く嵌りきらない。
時間がない。
嫌な予感がする。早く突き止めなければ、そうでないと――。そんなあの時に感じた不安が今もなくならない。焦りばかりが募っていく。
アルフレッドは何も答えることなく、静かにジェルベを見つめたままだ。
取り敢えず、自分の考えを言ってみろということなのだろう。
ジェルベはそんなアルフレッドから視線を逸らし、深くソファに背を預けた。そして瞳を伏せながら今まで巡らせてきた様々な考えを出来る限り尤もらしく紡いでいく。
「一番単純でいて簡単な答えをあげるならば、あれがエリカ・チェスリーではない別人だといったところか。
エヴァンズが立てていたアリスとシーラの入れ替え計画のように。調査されても怪しまれないほどによく似た二人をすり替えてこちらに寄越したとすれば、明らかにあれが庶民ではない理由が解ける。
そうだろう? 作法もダンスも乗馬も、加えてレイカの味を知っていたことも、あれが17年間城下で貧しく暮らしたエリカ・チェスリーだという方が無理だ。あれはエリカ・チェスリーではない、エリカ・チェスリーにはいないはずの、何かの理由で毒物に体を慣らす必要のある“兄”をもつ別人だとした方がむしろ自然だ」
「それならば、彼女はいったい何者だと?」
「お前が最初に疑ったとおり間者か刺客、もしくは……」
「もしくは?」
「俺たちと同列の存在、か」
そう言って、アルフレッドを見上げて、その反応を伺う。けれど、厳しい顔つきのアルフレッドからそれの正否は読み取ることができない。
しかし、とジェルベは思う。
「どちらかといえば、俺は後者の方な気がする。今まで垣間見られたエリカの所作からも、王家の書物を知っていたことからも。毒物を菓子に混ぜて体に慣らすのなんて俺たちと同じだ。けれど、それならば何故そんな人間がわざわざ庶民のふりをしてこんなところにいるんだという話になる。それにアブレンの王家には現国王に四十年くらい前に死んだとされる妹がいた以外女はいないんだ。こちらに隠されていない限り王家に近しい家だって完全に男系で女はいない。かといって、やはり間者か刺客とするならばそれはそれでおかしい。エリカ自身に毒は慣らされてないようだし……」
「ちょっと待ってください! 貴方はアブレン王家のことについて調べられたのですか?」
話の途中で驚いたように口を挟み、そう問いかけてきたアルフレッドにジェルベは事もなげに首を傾げた。
「ああ。可能性があるならと思ったんだがな。けれど該当する人間がいない。ならばそれは間違っているんだろうな」
「いつの間に……」
「どんな理由があるかは知らないが分かっているはずのあれの正体を言わない、そんなお前を通さないほうがいいかと思ったんだ」
頼んだところで、敢えて正しい情報を寄越さない可能性もあるかと思ってそれを避けた。
結局そこから見出されたものは何もなかったわけだが。
ジェルベは視界にかかる前髪を掻き揚げて深く重い息を吐き出した。
「どちらにしろ、仮にその考えが当たっているとするならばあれはとんだ役者だと言って間違いない。エリカ・チェスリーに関する情報をすべて持ってる。さも自分のことのように完璧な演技で話すことが出来る。そのくせ驚くくらいに詰めが甘い。それを演じながらもなりきれていない。現にこうやってぽろぽろと欠片を落として、けれどそれを気にしている様子もない。積極的にそれを見せている気さえする。こちらがよほど甘く見られているのか、それとも……」
もとから隠す気などないのか。
そこで生じるのは矛盾。隠す気がないのならそもそも演じる必要などない。
「考えれば考えるほどに、全てががおかしく感じる。何かが違うんだ。きっとこれは正解じゃない」
けれど、それならばと考えたところで何も浮かばない。
「なあ、アルフレッド。あれはいったいどこから来て、何をしようとしているんだ?」
『どんなに遠くに行っても、いつまでもそのままで』
あれにそう言ったのは一体誰なのだろうか。何故、その人物は罰せられることとなったのだろうか。あれは何をした?
それに、
あの、幼いエリカが両親に発したという言葉も。それが本当のことだというのならば。
『あなたたち、誰?』
それは、どういう意味だ? 何があった? 何があって頭を混乱させ、何故そんな事を言ったというのだろうか?
何も、分からない。掴みとろうとしてそれに手を伸ばし強く握りしめても、まるで乾いた砂のようにさらさらと零れ落ちていく。
「正解はなんだ?」
その答えをすでに掴み取っているらしいアルフレッドに、再度それを訊ねる。
きっと、これ以上考えてみても堂々巡りだ。さらに大きな欠片をエリカが落とさない限り、悔しさはあるがそれを解くことはきっと出来ない。
そんな、苦悶に顔を歪めるジェルベにアルフレッドの静かな声がかかる。
「貴方は……、彼女のこと、愛してらっしゃるんですよね?」
「……そうだな」
否定したところでもう、アルフレッドはとっくに気付いているのだろう。そう思ったから敢えて誤魔化すこともせずにそれを素直に認めた。
ジェルベのその答えにアルフレッドは哀しげに微笑む。
「それなのに、彼女のことを信じずとも良いのですか? 何が待ち受けようとも、貴方はその先を恐れずに見ることが出来ますか?」
「そうだな。出来ることならこのまま信じていたいと思う。だが、そのための証拠を必死になって探しても、その怪しさを補うに足るものは何も見つからない。無視するわけにはいかないから嫌でも疑わなければならない。どんなにその先を恐れようとも、何もかもを捨てて愚かな王になるわけにはいかない」
もし本当にエリカが敵であったならば、それは確実に国に関わる。
それから目を逸らし続けることは、今まで愚行と言われ続けてきた、妃を拒むといったものとはわけが違う。それは、アルフレッドや、その姉の子のように他に王位を譲ることが出来る人間がいたからこそできていたことだ。
個人の問題ではない。この想いのために沢山の人間を犠牲にするわけにはいかない。
どんなに自分がエリカを欲しようとも、その想いのまま手を伸ばすことは決して許されない。
だから、どうか。
そう願って、答えを求めることしかジェルベには出来ない。
胸の内にある不安とは背中合わせのその想い。
アルフレッドはそんなジェルベに、一つ溜息を吐き出した。
「それは、私の望む模範的な解答ですが、それを本心で仰ってるのなら貴方はどこまでも生きにくい方ですね。とても可哀そうに思えます」
「仕方がないだろう? こんなふうにしか生きれない。王族として生まれた俺はこんな生き方しか知らないしできない」
「そうですね」
そう頷いて、アルフレッドはその海色の瞳を伏せる。
「そしてそれを見越して、そんな貴方がようやく見つけた大切な女性をこの国のために利用することしか考えられない私もまた、同じくらい哀れな人間なのでしょうね」
「それは、……どういう意味だ?」
ジェルベがそう問いかけたけれど、アルフレッドは首を左右に振るだけ。
そして、
「私が、疑いを確信に変えながらも貴方にそれをお伝えしなかったのは何も悪意があってのことではありません。ただ、それがとても信じがたいもので、人づてに教えられても意味のないものだと思ったからです」
「けれど、貴方はもう大丈夫そうですね」そう言ってアルフレッドは穏やかに一度頷く。
それから、真っ直ぐとジェルベを見据えてジェルベに問いかけてきた。
「今から、応接間にてエリカ嬢と父がお茶を共にするんです。貴方も一緒にご覧になりますか? 真実を」
真実――。
その言葉にジェルベが驚きつつも強く頷くとアルフレッドがにっこりと笑う。
「それでは、参りましょうか。決して邪魔をしないように応接間の隣室、別名“盗み聞きの間”へと」