五一、誘い
「さあ、エリカ様。遠慮などされず、どれでもお好きなものをお召し上がりくださいね。このお店のケーキもとっても美味しいとわたくしたちの間で評判なんですのよ」
そんなふうに色とりどりの、宝石の様に輝くケーキを満面の笑みで勧めてくるのは、建国記念パーティー以来度々私の部屋に姿を現しているキャロル。彼女の左右にいるセシリーとフローラも同じように私へと笑顔を向けてくる。
まったく、調子がよろしいこと。
いつもは嫌味ばかり言ってきていたくせに。見せかけの寵が私に戻った途端これだ。あからさまに媚を売ろうとしているのが見え見えな彼女たちのその態度に私は少々呆れかえりながらも促されるままケーキを選んで、それをマリアにお皿の上に載せてもらいフォークを突き刺し一口頬張った。
ケーキには何の罪もない。
瑞々しいフルーツの酸味と、クリームとスポンジの甘みが口の中で溶け合う。
うん、美味しい。
思わず口元が綻んでしまう。
こんなにケーキを美味しく食べることが出来たのはいつ以来だろうか。
ずっと、ずっと苦しかった。いつだって心に重しが乗っているようで、何を食べても味気なくて本音を言えば食べることすら億劫に感じていた。
けれど、シーラ様の一件から一週間。
少しずつ私の日常だったものが取り戻されてきて、心が軽く晴れやかなものに変わっていくのを感じる。
まだまだ城内は騒がしい。
陛下がこの機会にと言っていたとおり、エヴァンズ侯爵だけでなく、彼に取り入るためなのか元からなのか不正に手を染めていたらしい多くの貴族たちも粛清されていることがその原因だろう。
それでも、私の周りは平和そのもので、今日はいよいよ、私に毒入りクッキーを気付かず出してしまったことの処罰として実家のほうに帰されていたマリアも領地からたくさんのお土産を持って帰って来てくれた。
あの日あんなに落ち込んでいたマリアだったけれど、戻ってきて早々もう一度私に深々と頭を下げ謝罪してきた彼女はもうすっかり元通りでいつものように微笑んでいる。アルフレッドから一体どんなお叱りを受けたのか、ずっと気がかりだったけれど、どうやら陛下の言っていたとおり何も心配はいらなかったらしい。それでもちょっと気になって訊ねてみるとマリアは、「アル様は、本当に酷い方ですもの」と困ったような苦笑を漏らしただけで詳しいことは何も教えてくれなかった。
私は“酷い”というその言葉をどう捉えていいのか迷ってしまったけれど、まあ、マリアが元気になったのならきっと問題視するようなことは無かったのだろう。それに、なんだかそう言ったときのマリアがほんのちょっとだけ幸せそうにも見えたし。って、あれ? それってなにかがおかしい?
「それにしても、本当によかったですわね。どうやら実際のところ、陛下はあのシーラ様に心移りされたわけではなかったようですし、もうエリカ様のもとへ戻ってこられたのでしょう?」
黙々とケーキを口に運びながら、一人首を傾げていた私の耳に聞こえてきたのは、セシリーのそんな問いかけ。
顔を上げて、でも口の中にはまだケーキがあるから返事の言葉を口にする代わりに私はこくりと一つ頷く。
すると、セシリー達の「まぁ!」という歓声が上がった。
フローラが椅子から立ち上がり、私の方へ身を乗り出して「ねぇ、嬉しい?」と訊ねてくる。
あの日の翌日から再び私の部屋へ訪れるようになった陛下は今は忙しくて、やってくる時間は毎日随分と遅い。久しぶりのその時間にほんの少しだけ緊張もするし、なんだかちょっと気にかかっていることもある。
だけど、
「……うん。嬉しい」
やっぱり一緒にいれることはとても嬉しい。言いながらついつい笑みが零れてしまうくらいに。
そんな私を見たフローラたちがお互い顔を見合わせて、お上品に、だけど盛大に吹き出した。
「ほら見なさい。やっぱり今まで強がっていただけじゃない」
からかうようにそう言う彼女たちに、でも反論することが出来ない私がなんだか居た堪れなくなった、そんなときだった。
キャロルたちの笑い声が響く中、部屋の扉がノックも無しに突然開けられて、私たちは、はたとそちらの方へ視線を向けた。
しんと静まり返った室内に、扉の向こうから現れたのは、なぜか陛下。
「どうしたの!?」
私は急いで椅子から立ち上がってその傍へ駆け寄った。
陛下がそんな私を見て、小さく、ため息を一つ吐き出す。
「何かあったの?」
「いや。時間が空いたから来ただけだ。客が来ているならいい」
「そう……?」
時間が空いたからだなんてそんな今までの陛下からしたらあり得ない訪問理由に、なんだか納得できない私は眉根を寄せて首を傾げた。
本当に何もないのだろうか?
けれど陛下はもう用は終わったとばかりにさっさと去って行こうとする。けれどそんな陛下に後ろの方で、陛下が現れたと同時に椅子から立ち上がっていたキャロルが慌てたように声を上げた。
「わたくしたち、お邪魔をするわけにはいきませんしそろそろおいとまさせていただきますわ。ねえ、貴女たち?」
「ええ」
「また、日を改めてお邪魔させていただきますわ」
セシリーとフローラも後に続く。
そして彼女たちは引き留める間もなく素早く帰り支度を終えて部屋から出て行ってしまった。
勿論、出て行く際に「父が陛下によろしく申しておりました」と極上の笑みに乗せて言うことも忘れずに。うん、今回なかなか多くの貴族たちが失脚させられたようだし、重要なポストも空いたと聞いている。不興を買うわけにはいかないし、媚を売るなら今だものね。全く、抜け目がないわ。
「お気遣いいただけてありがたくはあるけど、本当、調子がいいんだから」
私はそんな彼女たちの後姿にぶすりと文句を言ながら陛下を部屋の中へと促した。
そして、相変わらずの定位置であるソファに向かう陛下について行く。
「気に入らないなら取り次がないように頼めばいい」
「まあそれもそうだけど。……でも、いいわ」
なんとなく、ソファに腰かけた陛下の正面の床にふわりとドレスの裾を膨らませて座り込みながら、私は少し考えて、そしてその提案を遠慮することにした。
確かに嫌味や媚ばかりで腹が立つ部分も多いけれど、にこやかな笑顔を張り付けて私の言うことに頷くだけの人間よりはキャロルたちくらいあからさまな方が何を考えているか分かりやすくていい。
それに。
いくらランベールから私を気に掛けるようにお願いされていたのだとしても、寵を失ったとされた私の元へ度々来てくれた彼女たちにこの数か月、救われた部分も少しくらいならあったような気がしないでもない。なかなかお節介な性分らしい彼女たちの優しさも偶になら感じ取ることが出来た。
だから、
「今日の手土産のケーキがとっても美味しかったし、また来てくれたら嬉しいわ」
「ふうん」
陛下はつまらなさそうに答えて、マリアに差し出されたお茶を口に運んだ。そして、マリアが気を利かせたのか、部屋から出て行ったのを確認してから私に問いかける。
「そのケーキの毒見はさせたんだろうな」
「うん。ちゃんと毒見役の人を通してきたみたい。お蔭で私のところに来たケーキ全部が少し欠けてて残念だったわ」
「仕方がないだろう」
「それはそうだけど」
もうあんなことはごめんだし、陛下の言うとおり身を守るためには仕方がないことだ。それは分かっている。
でも、
「いくらなんでも今、私に毒を盛るほどベネット伯爵たちもバカじゃないと思うわ」
過去、私を未調教の馬に乗せるという嫌がらせをしてくれたキャロルの父親であるベネット伯爵も今の大事な時期に、エヴァンズ侯爵を処刑にまで追い詰めることとなったそもそもの切っ掛けと同じ手を使うはずはないと思うのだけれど。
「念のためだ」
「わかってる。それに、見た目が少し損なわれたところで、城下で暮らしていた時の食事よりもずっと素敵なことには変わりないものね」
なにより食べるものにもう困ることがない。それだけで充分で、これくらいで文句を言ってはいけないだろう。
「なあ、エリカ」
陛下から声がかけられる。
「なに?」
「お前は父親と母親、どちらに似ている?」
自然な流れを装って、けれどじっと私を見つめながら切り出された陛下のその問いかけに、私は首を傾げてみせた。
まただ、と思いながら。
最近の陛下はいつもこうだ。
まるで、エリカという存在を一つ一つを確認していくように、こんな問いかけを私に寄越すことがある。
だけど、
陛下が求めているのは私の情報ではない。
彼の中で、私が答えるべき言葉はもうすでに決まっていて、その正解のみを望まれているということが陛下のその声音から、表情から感じ取ることが出来る。だから、私はそれにほんの少し緊張と不安を覚える。
なんで、そんなことを訊ねてくるの?
陛下は何を考え、何を求めようとしているの?
「……はっきりとどちらかに偏って似ているってことはないけど。どちらかというと顔の造りは母かしら。この曲者の髪は父だけど」
どうやらこの回答は正解らしい。陛下が少し安堵したように微かに表情を緩めた。
「それが、どうかしたの?」
「置いて行かれてそれきりだろ。お前が望むなら探し出してやるが会いたくはないか?」
「……別に、そんなことしなくていいわ」
「何故?」
何故って、こっちが何故って感じだ。何で急に。
「会いたくないから、いい」
「捨てられて恨んでるか?」
「別にそういうのじゃないけど……。今更だわ」
「それでも」
「いいのよ。本当に私が会いたくないだけだから」
「何故?」
ソファの肘掛けに頬杖をついた陛下の、先ほど緩んだはずの濃い青の瞳が再び探るように私をじっと見つめる。
言い逃れすることを許さないといったその強い視線に私は迷って、そして諦めのため息を小さく吐き出した。
「……負い目が、あるのよ。そももそ家族を壊したのは私が原因だと思うから、あの人たちが別の地で新しくやり直してるのならそれはそれでいいかなと思ってるの。余計な邪魔はしたくないわ」
「それはどういう意味だ?」
「どういうって、そのまま。私が幼いころはそれなりに仲がいい家族だったような気がしないでもないんだけどね」
『エリカ』と私に差し出される二人の優しい手。あの時までは幸せな家族だったのだと思う。
けれど、
「物心がつき始めたころにね、私、ちょっと頭を混乱させた時期があって、それで言うべきでないことを言ってしまったの。それからかな。少しずつ壊れて行ったの」
「何を言った?」
「……『あなたたち、誰?』って」
これは私の間違いの一つ。
当時三、四歳のエリカの意識が、徐々に蘇りだしたティアの記憶に勝てるはずもなく、かといって大人になりきれなかったエリカの精神は私にその言ってはいけない一言を言わせた。『こんなところは嫌!』。その言葉にショックを受けた父と母の顔が今も心に残っている。間違えたと思った時にはもう遅かった。
それから、父は賭け事に、母は散財に愉しみを見出して私から目を逸らした。両親のことを思えば取り戻すべきではなかったティアの記憶。それによって、きっと私が本当の意味で彼らを両親だと認めきれていないことを父と母は感じ取っていたのではないかと思う。
私たちは狭いボロ屋で身を寄せ合うようにして暮らしていても心はどこか離れていた。勿論、歩み寄る努力はしたけれど、一度付けた傷はどうしても塞がってはくれなくて。
だから、借金を残して置いて行かれても、どこかで納得していた。仕方がないと。
「だからお気遣いは無用よ。もう、いい?」
まだ何か問いた気にしている陛下に、拒絶の色を含ませた笑みを向ける。
「ねえねえ、私よりも陛下は? お父様? お母様? どちらに似てるの?」
陛下はそうやって話を無理に終わらせ逸らした私を、不満げに顔を歪めて見たけれど、それでも諦めたのかその後はしぶしぶといったように自分はお母様似なのだと教えてくれた。陛下だってこんなに綺麗なんだもの。きっと、それはそれは美しい王妃様だったのではないかと私はうっとりと思いを馳せた。
それからしばらく経ったある日のことだった。
「今から陛下とオルスが手合せするんです。エリカ嬢もご覧になりたくはありませんか?」
「え? 私も見に行っていいんですか?」
突然の、アルフレッドからのそんなお誘いに、勿論私が心惹かれないわけがない。
陛下が剣を振るう姿なんて花祭りの時に少し見ただけだもの。あの時もすごかったしもう一度見れるならば。
にっこりと笑って「いいですよ」と頷くアルフレッドに私は「行きます!」と勢いよく返事をして、私たち二人は早速彼らが手合せをするという訓練場へと向かうことになった。
「陛下やオルスには秘密ですからこっそりと見てくださいね。文句を言われてしまいますから」
にこやかにそう言うアルフレッドは二人が文句を言ったところで何も堪えなさそうに見えるのだけど。
大体、それならば何故誘ってくれたりしたのだろう。
なにか裏がありそうで、今更ながらなんだか怖くなってきた。
「あの、アルフレッド様は剣は握られないんですか?」
私は気を紛らわすためにも、なんとなく気になったそんな事をアルフレッドに訊ねてみることにした。
「そうですね。私はあまり剣は得意ではありませんから、そっちの方面はオルスに任せているんです。もし、戦になったときは私が陛下の代わりにこの城を守るためにここに残ることになりますしね」
私と並んで歩くアルフレッドがにこりと微笑みながらまるで私の様子を伺うようにこちらを見つめてくる。
戦になれば。アルフレッドが陛下の代わりに、ということは。それは――。
「それは、その時、陛下は?」
「……大きな戦であれば陛下もその指揮に出ないわけにはいかないでしょうね。そして、万が一それに負けるようなことがあれば陛下の命もない」
きっぱりと言い切られたその言葉に私は、ぎゅっとスカートを握りしめた。
分かっていたことだ。
だから、私はそれをどうにかして防がなければ。
決して、私にとって大切な二人が命を奪い合うようなことにならないように。
「おや。もう始まっていましたね」
もうそれ以上は何も話す気になれずそのまま無言で歩いていると、そんなアルフレッドの声と、何やら野太い男たちの歓声が私の耳に聞こえてきて、私は俯いていた顔を上げてみた。
いつも、オルスに護身術の稽古をつけてもらっている訓練場。
そこをたくさんの武官たちが観衆として取り囲んでいて、その中央で剣を合わせる陛下とオルス、二人の姿があった。
私たちはその場で足を止めてそれをアルフレッドと遠巻きに眺める。
遠くて見難い。
武術のことは詳しい方じゃない。
けれど、分かる。二人ともとても強い。
無駄な動きも、隙も一切ない。剣を手にした二人は的確に攻めて、防ぐ。
立場上、オルスが陛下に勝つわけにはいかない。だから、オルスが多少の手加減をしているのかもしれないけれど。
それでもほぼ互角の二人のその戦いについつい心を奪われる。
陛下もオルスもいつになく真剣な顔でとてもかっこいいわ。
「いかがですか? 我が国の剣技は。やはりアブレンのものとは違いますか?」
「……そう、ですね。こちらはまるで舞っているようでとても綺麗。アブレンのものはもう少し武骨な感じのする荒いものでしたもの。って、……え?」
この人は今、アブレンと言っただろうか?
驚きに目を見開きながら横に立つアルフレッドを見上げると、彼はにっこりと私に笑いかける。
「父が、」
父? ランベール?
「来週にでもお茶をご一緒したいと申していたのですが、エリカ嬢のご予定はいかがですか?」
あ。
私はその言葉に息をのんだ。
『何か話したいことがあったみたいだね。今度、時間を作るからゆっくりとお茶でもして語り合うとしよう』
建国記念パーティーの日、そう言った彼は、どうやらちゃんとそのことを覚えてくれていたらしい。
私は、そっと息を吐きだす。
そして、
「楽しみにしております、と公爵様にお伝えください」
私はアルフレッドへと微笑みを浮かべてそう答えた。
いよいよだ。
訊けば、ランベールはちゃんと教えてくれるだろうか? 彼の知っていることを。
そして、
私は、一体どんな真実を知ることになるのだろう。
浮かべた微笑みの裏に、そんな不安を押し隠して。