四六、策略と罠
――二週間ほど前。
レストアの首都・カリアの空から静かに、今冬最初の冷たい欠片が舞い落ちた夜。
エヴァンズ侯爵ことギルバート・エヴァンズは自身の屋敷の、二階中央に設けられた主の部屋で、壁に飾られたこの家の歴代当主の肖像画を見つめながら、娘からの報告に耳を傾けていた。
ギルバートにとって、この首都滞在用の屋敷で冬を過ごすのは実に八年ぶりだ。不本意ながら、ここ最近はずっと領地にある本邸の方に身を置いていたから。
やっと。やっとだ。
漸く、このカリアへ戻る好機を得てこの屋敷に帰ってきた。
明かりが多くは灯されていない、薄暗い部屋ではあるものの赤々と燃える暖炉の火がギルバートのその姿を照らし出す。
かつては、娘と同じく美しい銀であった髪。それは初老に差し掛かった今、白いものへと色を変え、もう輝きを放つことはなくなっていた。
それでも変わることがないのは、冷たい薄氷色をしたその瞳の、暗く欲深き輝き。
そんな彼に、娘がもたらしのは今日も変わり映えのしない、いつも通りの報告でギルバートは腹の底から湧き上がってくる相手への怒りに顔を歪め、声を荒げた。
「まったく、いつもいつも思い通りにならん忌々しい奴め!」
振り返って壁に背を向け、手に握っていた酒の入ったグラスを、感情に任せ力の限り床に叩きつける。
次の瞬間、細く鋭い音が部屋中に響いた。
入っていた酒の飛沫と、グラスの破片が絨毯の敷かれた床の上に広く散らばる。
粉々になったその姿に憎い相手の姿を重ね合わせて睨み付けていると、その場所へすかさず傍に控えていた使用人の女が一人歩み寄り、膝を折って静かに片付けをし始めた。ギルバートがコツリと足を踏み出して、女の横を通りつつさらにその破片をわざと踏み砕いて見せても、その女は苦情を言うでもなく黙々と片付けに勤しみ続ける。
ギルバートは少し離れたソファへと腰を降ろし、その光景を眺めながらニヤリと口角を上げた。
そうだ。そうやって、黙って跪いていればいい。皆は大人しく、この自分の言うことに従い頭を垂れていればいいのだ。
自分はそれだけの、誰よりも価値がある貴い人間なのだから。
それなのに、と一度消えたはずの苛立たしさが再び蘇ってくるのをギルバートは感じた。
それを理解していない愚かな王家の奴らには腹が立つ。
ただこの国の最初の王となった男の血を引いているだけのあいつらは、この自分よりもどこが秀でているというのだろう。
何故、屈辱に耐えながらこの自分が礼の形をとってやる必要があるのだろうか。
考えても納得など出来るはずがない。どう考えてもこの自分が奴らよりも劣っている点などあろうはずがないのだ。
それでも、と今更ながら思う。
それでも、先代の王の時代はまだ良かった。
王として、本心を言えばそれさえも不本意ではあったがそれでも奴を玉座にさえ座らせてさえおけば良かった。
傀儡と化したあの王の代わりに当時、宰相であった自分がこの国の実権を握ることが出来ていた。
全てはこの自分の思うまま。
実際、皆が王よりも自分にひれ伏していた。稀に、反抗的な態度をとる貴族どもがいないでもなかったがそんなものは適当に中央から切り離し、領地の方へと追いやりさえすれば解決した。
最初に狂いが生じたのは、いつだったか。
ああ、そうだ。
あの、大人しく傀儡となっていればよかった先代の王がこの自分に反抗的な態度をとったのがそもそもの始まりだった。
流行病など些細なものであろうに。足元にうじゃうじゃといる薄汚い庶民どもの数が少し減るだけ、たったそれだけのことで、何が心が痛むだ。馬鹿馬鹿しい。
慈悲深いだか、情け深いだか知らないがそのために、そのずっと前から心待ちにしていた時を無きことにされると思うと我慢ならなかった。
そして考えた。
要らないものは切り捨てればいい、と。
それは、庶民や反抗する貴族に限った話ではない。王であっても、構いはしない。
そう思って、決して証拠が残らぬよう細心の注意を払い裏で手を回した。
使ったのは、例の流行病で家族を失った青年。
全てを失くし、深い絶望に沈んだ彼の濁った瞳が気に入った。
もう自分には何もないのだと語る彼のその瞳は探していたから。縋るものを。成すべきことを。死に場所を。
だから、それを与えてやった。
彼の耳元で適当なことを囁いた。
それを求めていた青年は、素直に、愚かに、その作り話を信じ込み王を恨んで、そして後に待つ処刑を恐れることなどなく、自分に代わって望んだとおりに、
王を始末してくれた。
全ては計画した通りに。
面白いくらい思いどおりに人は動く。この世は自分を中心に回っている。
この世は全て自分のものだ。
そんな満足感に酔った。
そう。
そこまでは順調だったのだ。
それなのに、
あろうことかそれは先代の王の息子であり、次の王となった男によって全て狂わされた。
先代の王に良く似て、物静かで特に強い自己主張などしない、次なる傀儡にはぴったりの人間のはずだった次なる王。
それが、勝手に自分を宰相から外すことを決め、しかもいつも味方になるでも敵になるでもない良く分からない前王弟・オードラン公を上手く後ろ盾にして、自分の取り巻きたちの反発も意に介さずにそれを強行し、ギルバートの政治への発言権を絶たせたのだ。
気に食わない餓鬼め。
その時、覚えたのは激しい怒り。
だが、その時のギルバートにはまだ望みがあった。
それは、ギルバートが宰相から外される寸前に発表された、長年待ち望んでいた新国王と娘の正式な婚約。
それさえ上手くいけば。
不満ではあるが今は大人しく引き下がってやって、娘が子を産んだ後にこの気に食わぬ王もまた殺してしまえばいい。そうすればすぐに王の外祖父としてこれまで以上の力を握ることが出来るのだ。今だけだ。今だけの辛抱だ。そう思いなおすことが出来た。
それなのに、何を考えたのか、今度はその娘に裏切られた。従順で良い娘だと思っていたのに。
しかも、よりによってあんな場所で死んだりしおって。
そうして、全てを失い領地へと追いやられたのが八年前。
過去の回想に伏せていた瞳を開いたギルバートは、報告を終え静かに向かいのソファに座っていた、数か月前漸く見つけ出し養女として迎え入れた娘がじっと自分を見つめていることに気が付いてそちらに視線を向けた。
ギルバートが「なんだ」と問うと、娘は「いいえ、なにも」とまるでガラス玉のようなその瞳を静かに伏せる。
何を考えているのか分からないこの娘はなんだかとても気味が悪い。
大切な駒だからこそ、この屋敷にこうやって迎え入れてやったのだが。
共にいると、アリスが、あの愚かな娘が死んだのは自分のせいだと無言で責められているような、そんな気分にさせられ、居心地が悪い。この自分の意に背いて、勝手に死んだのはあの娘だ。それを何故、これに責められねばならぬのか。
ギルバートは、居心地の悪さを怒りに変えて目の前の娘へとそれをぶつけた。
「そのような目で儂を見るな! 大体、そもそもはお前のせいではないか。何故あれを頷かせることが出来ん」
「……申し訳ありません。おとうさま」
「いつまでこの儂を待たせるつもりだ。シーラ。早くあの男を落とせ。ここまで来たら簡単なことだろう」
どうやら自分を裏切った娘は、それでも上手いことあの王から特別な情を得ていたらしい。
今度こそは、とアリスと同じ顔のシーラを伴った建国記念パーティーのあの日以来、思惑通りに王はそれまで寵妃とされていた側妃から距離を置き始め、しばらくすると自分が差し向けたシーラを快く城に迎え入れた。
予想していた以上に、愉快なほどに全てが順調に進んでいた。
あとは結婚を正式に決めさせるだけ。
そう思っていたのに、何故か最後の一言が何日たっても引き出せない。
シーラに、自分によい顔をしながらも、かわされる。
あと一息のはずなのに。
何故、頷かない?
何が足りない――?
特別に急がなければならない訳ではない。じっくりでも上手くさえやれればいい。
だが、もう少しのところで焦らされるから腹立たしい。
日増しに苛立ちばかりが強くなる。
この自分が、手のひらで踊らされているような、そんな気分にされてさらに腹が立つ、焦り。
それからしばらくした頃、ギルバートの耳に一つの情報が飛び込んできた。
かつての腹心であり再びギルバートへの忠誠を誓ったファース伯爵。
大臣の一人として城に出入りしている彼は、未だ成果を上げられぬ娘に焦れて怒り狂うギルバートの元へとやって来て、今、王城で箝口令が敷かれているというその内容を顔を上気させて話してみせた。
先代の王の庶子だと主張する者が現れた、と。
王家はそれを否定しようとしているが、彼が父から渡されたという腕輪は間違いなくその昔、先代の王が持っていたもので、そして彼の話す内容は信憑性が高く疑いの余地がないようだ、と。
その青年の歳を聞いて男は心当たりを探す。
確かに、その頃先代の王は地方への視察を行ったことがあった。それから、何度か同じ地への視察を繰り返している。
まさか、その時の子がいたというのか。
前王妃は今の王を産んでからというもの体調を崩しがちで、そしてそれから長くはもたなかった。先代は何も自分に話して聞かせることをしなかったが、彼にそんな存在がいなかったとは言い切れないかもしれない。
ファース伯爵が言うにはその庶子だと名乗る者は、権力を望んでいるらしい。
自分を王位継承者として城に迎え入れろ、と言っていると。
ギルバートは考えた。
いつもいつも思い通りにならない忌々しいあの王よりも、もしかしたらこちらの方が使えるかもしれない。
ギルバートはニヤリと口角を上げ、ファース伯爵に命じた。
「すぐに、それを連れてこい」、と。
使えるものを使い、使えぬものは消せばいい。




