四五、訪問者
それは、オルスと話をした次の日の朝のことだった。
昨晩、遅くに部屋へと戻ったことで案の定ベティーから随分と長いお説教をくらってしまったもののどうにか外出禁止令を免れた私は、ここ最近いつもそうしているように朝早く起きて王城の裏手にある厩舎へと向かった。
「おや、チェスリー殿。おはようございます」
まだ日が昇り切っていなくて薄暗いにもかかわらず私が厩舎に顔を出すと、すでに馬の世話を始めていた馬丁頭のレナードが人の好い笑みで私を迎え入れてくれた。
「おはよう、レナード。今日もお邪魔していい?」
「勿論よろしいですよ。今日はどうされますか? いよいよ馬に乗られてみますか?」
「うーん、それはもうちょっと待って。取り敢えずいつも通りジェームズ号に牧草をあげてもいいかしら?」
「ええ、どうぞ。ジェームズ号も喜びます」
「それならいいのだけど」
レナードの了承の返事に私は有難く隣の、もう一つの厩舎の中へと足を踏み入れる。
そこには栗毛の牡馬ジェームズがいた。
馬に慣れたいからと、初めてここを訪れた私にレナードが紹介してくれた馬。それ以来ずっとこの子を中心に軽くお世話をさせてもらっている。まだたった数週間の付き合いだけれど顔馴染みだと言ってよい間柄のはずだ。
それなのに、
「おはよう、ジェームズ。今日も元気?」
私の呼びかけにジェームズは一瞬視線を寄越し、そしてまた面倒くさそうにそれを逸らす。
なんというか、この愛想のなさがなんとなく陛下にそっくりだ。
私はそのジェームズの態度に苦笑を漏らしながら脇に置かれている牧草を両手で掴み、柵越しの彼に差し出す。彼はそれにのそりと顔を寄せ、そしてもそもそと食べだした。
しばらく牧草を手にしたまま佇んでジェームズを眺める。
うん、大丈夫。黙々と草を食む彼のことはちゃんと可愛いと思うことが出来る。
最初の日こそ震えてしまったけれどそれでもすぐに、手を伸ばしてその体に触れて撫でることも出来るようになった。
順調だ。
けれど、
問題はやっぱりこの先。
馬に乗ろう、そう思うと二度経験したあの恐怖を思い出していつもいつも不安がこみ上げてくるからどうしようもない。
その不安に飲みこまれて今までずるずるずるずる決心を固められずにいる。そろそろ覚悟を決めなきゃいけないのに。
馬にくらい乗れなくちゃいけないのに。
遠い、ティアの故郷・アブレンを想う。
もし、もう一度私があの地を踏む必要が出てくるのなら馬に乗れないのじゃ話にならない。
今のままじゃ、私、この王城で全てを待ち受けることしか出来ない。
そんなの嫌だから、だから、備えておかなければならないと、そう思ってここへ通い詰めているというのに。
己の意思ではどうしようもない恐怖心に嫌気が射す。
私は力が欲しいのに。
そうでなければ――
そのとき、それまで牧草を食べていたジェームズがそれを中断して、私の頬へとグイッと顔を寄せてきた。
昔聞いた動物が人の感情に敏感だというのは、本当かもしれない。まるでそれは元気づけてくれているようで。
「ありがとう、ジェームズ。そうね、私は負けないわ。負けるわけにはいかないもの」
私はジェームズの首にぎゅっと抱きつく。
温かなその体温にすがると、ジェームズは唇を震わせただけでそのまま大人しく私を受け入れてくれた。
「やっぱり、あなたって陛下に似てるわ」
愛想はないけれど少しだけ優しいのもやっぱり陛下と同じだ。そう思うと思わずくすくすと笑みが漏れる。この温もりがなんだかとても嬉しくなって背伸びをして更に深くジェームズに腕を回そうとした。
けれど、
「それのどこが俺に似てるんだ」
突然、後ろの、厩舎の出入り口から聞こえてきたその声に私は「え?」と思わず声を漏らして、そのまま体を強張らせた。
よく知っている、でも久々に聞くその声は。
「エリカ」
いつもそうだったように不機嫌そうに名前を呼ばれて、私は一度大きく肩をびくつかせて恐る恐る後ろを振り返る。
そんなはず、ない。どうして。そんな思いで振り返って、でもやっぱり後ろにいたのは――
「陛、下?」
見間違うはずもない。この厩舎の入り口のところには陛下が立っていて何故かジッと私を見ていた。そして、見開いた私の瞳が自分に向いたことを認めた陛下は一つため息を吐き出して一歩一歩私の元へと歩み寄ってくる。
「本当にここに来ていたとはな」
少し呆れたような声で言われたその言葉に、私は混乱した頭で言葉を紡ぐ。
「なん、で?」
「何がだ」
「なんでここにいるの?」
「レナードからお前が毎朝ここにきていると聞いた」
「そうじゃなくて」
何をしに来たの?
そう問いかけて、やめた。
だって偶然に決まってるもの。私に用なんてあるはずがないし、ましてや会いに来たなんてことは有り得ない。きっとたまたま陛下がここに来たら私もいて、だから声をかけたとかそういうことだと思うから。
きっと、そこに深い意味なんてないのだろう。
出入り口からここまでの距離なんてそんなにない。
いよいよ目の前にやってきた陛下に私はどうしていいのか分からなくなる。
だって、これまでずっと避けてきた。
昨日だけじゃない。
その前からずっとだ。陛下が私の部屋に来ていたころからなるべく会話を避けて寝たふりに徹していたし、来なくなってからは顔を合わせることがないようにと彼の通りそうな場所すら避けて過ごしていた。
だから、
こうやって今、陛下が目の前にいることで感じるのは戸惑いと困惑。
本当は、また逃げ出したくなっている。これからは向き合おうと決めたはずなのに、足は勝手に後ろへ引こうとしていて、それを必死に宥める。
突然なんだもの。なにも心構えなんてしていなかったもの。
会えて嬉しくないわけではないのに、どういう顔を向けたらいいのかもよく分からない。
陛下は、というと傍まで来たのはいいもののなにも言ってくれないし、だから私は余計に頭をぐるぐるぐるぐる回してこの沈黙を破るための言葉を必死になって探す。
「あの、久しぶり、ね」
漸く絞り出せたのはそんなありきたりな言葉。
「ああ」
「えっと、……元気だった?」
「まあな」
そのわりにはなんだか疲れているように見えるのが少しだけ気にかかる。
執務が忙しいのかしら。
「エリカは?」
「うん、私も……元気よ」
躊躇うようにそう訊ねられて私も頷いた。
本当に元気だった、とは自信を持って言えるわけではなかったけれど。
元気じゃなかっただなんて言えるわけないし、私、決めたもの。これからは元気になってちゃんと笑うんだって。
どうしてなのかは分からないけれど、それが私の、陛下の為に出来ることだってオルスが言ったから。
そう思って、そこで思い出した、昨日のオルスとの約束。
陛下に近づくな、とオルスは言った。
そこにどんな理由があるのかは分からないけれど、それはとても重要なことの様だった。
だからやっぱり、これもまずいのよね?
折角の機会だとも思うけれど、仕方がない。
約束したから、オルスがもういいって言うまで待ってなきゃ、いけないんだ。
「えっと、じゃあ私、行くわ」
せめてと、出来る限りの微笑みを作って、横に一歩ずれて出口に向かって足を踏み出す。
うん、これでいい。そう思ったのだけれど、どういうわけか私の腕はすぐに陛下の手によって囚われてしまった。
次いで私に向けられたのは叱責するような、抑えられた声の問いかけ。
「何故そうやって逃げる」
逃げているわけではなかったのだけれど、自然に離れようとしたつもりだったけれど陛下はそうは捉えてくれなかったようだ。
私の腕を掴む手の力がぐっと強くなる。
私は痛みに顔を歪めて、なに、と陛下の顔を見上げた。
怒っている、のだろうか? 元から不機嫌そうか面倒くさそうな顔しか見せない人だからよく分からない。
「エリカ」
「そういうわけじゃないの」
促されるように厳しく名前を呼ばれて、その理由を答えかけて少し迷った。
もしかしてそれは今までのことも含めて言っていたりするのだろうか。
そんな考えが頭を過ったから。でも、
「オルスに、陛下に近づくなって言われたから」
不安だったからとか怖かったからだとか、そんなこと言えるはずもなく、私は今の理由でもあり、一番無難でもあるその答えを口にする。
すると陛下はその私の答えに少し苛立たしげに顔を歪めて、私はそんな彼に腕を強く引っ張られて体ごと陛下と向かい合わされた。
私を捕えるのは鋭い濃い青の瞳。それは問い詰めるように私を睨む。
「オルスとお前は何なんだ」
「何って何が?」
訊ねられているその意味が私には分からず、首を傾げて陛下を見つめ返してみたけれど、陛下は私が理解できなかったことが気に食わなかったようで少しその瞳を険しくした後、フイッと顔を逸らしてしまった。
「もういい」
次いで、少し乱暴に私の腕を放した陛下はそのまま私に背を向けて、先ほど私が目指そうとしていた出口の方へとすたすたと向かって行く。
なにが起こっているのか分からない。けれど、急に襲い掛かってくる不安。
「ちょっと待って」
咄嗟にその後姿に声をかけた。
振り返った陛下から、再び私に向けられるのは冷たい無表情。
心が折れそうになるのを励まして言葉を絞り出す。
「あの、ね、オルスが言ってたの」
「……何をだ」
確かめなければならないと思った。オルスの言っていたことは本当なのか。
本当ならば伝えなきゃいけない。待っていると。
こんな形で今別れるべきじゃない。
「私がね、陛下に近づかないで大人しくして待ってたら、また前みたいに貴方と一緒に過ごせるようになる日が来るって」
陛下の瞳が訝しむように細められたのが見えた。
「ねえ、私はそれを信じて待っててもいいの?」
信じたいと思っていた。けれど、オルスじゃなくて、陛下本人はどう思っているのだろう。一番重要なのはそれだ。
陛下のこれまでの様子から、どうやら何かをオルスと示し合わせている訳ではないようで。だから、そもそもなにがどこまで正しいのかが分からない。
だから私は陛下の顔を見て、その答えを待つ。
けれど彼は、私の問いかけに何かを見極めるようとするように目を細めたままこちらをジッと見つめてくるだけ。
陛下のその様子に、胸の中で不安が渦を巻く。
「……やっぱりそんなの嘘だった?」
やっぱりあれはオルスが私を宥めるためについた嘘だったのかもしれない。
やっぱり、そんな都合のいい話があるはずがないのだ。
ああ、そうかと私はなんだか居た堪れなくなってしまって、思わず顔を俯けた。しばらくそうしていると再び傍に戻って来たらしい陛下の探るような声が上から降ってきた。
「エリカ」
名前を呼ばれる。
「何?」
「それは、お前がそれを望んでいるように聞こえる」
え? と顔を上げると、そこには訳が分からないとばかりに眉間に皺を寄せた陛下。
何を言っているのだろうか。今更。
「だって望んでるもの。また一緒にいたいもの」
私が陛下を見上げてそう訴えると、彼は少し責めるような声で私の言葉を否定する。
「今まで、そんなふうには見えなかった」
陛下のその言葉を聞いて、そこで漸く気が付いた。
まさか、今までの私の態度は、私が陛下を嫌がっていたように見えていたりしたのだろうか。
違うのに。そんなつもりなかったのに。
なんで、そうなってるの?
私は慌てて激しく首を左右に振る。
「違うの! そうじゃない! ずっと態度が悪かったことは謝るわ。でも、そうじゃなくって、私はっ」
ただ怯えていただけだ。
私のそんな切羽詰まった態度と勢いに、最初、陛下はなんだか吃驚したようにしていたけれどそのあと瞳を伏せて大きくため息を吐きだした。
「そうか」
呟くように頷いたその言葉には、先ほど感じていた怒りのようなものは見えなくて、とても穏やかで。
そのあと、陛下は特に何も言わずに去って行ってしまった。
けれど、その穏やかな声に交じった安堵の色が陛下もそれを望んでいるように聞こえたから、私は勘違いでもいいからやっぱり信じてみようと思うことにした。
それから城内では陛下とシーラ様の婚約は秒読みだと言われ続けて、でも何一つ具体的に話が進まないままひと月が過ぎた。
エヴァンズ侯爵とシーラ様は、あの時すぐにでも、と言っていたのだ。と言うことは、それは陛下がいい返事をしていないからだということで、私はエヴァンズ侯爵がしびれを切らしているという噂を聞くたびに安心して、やっぱり信じていていいんだと思うことにして、そんな風にして日々が過ごしていた。
そのひと月で外にはいつの間にやら雪が降り積もり、辺り一面を銀世界へと変えていた。
このレストアの王城で迎える二度目の冬。
庶民の頃の雪に埋もれるような生活とは違って、ここにいると素直に雪を綺麗だなんて思うことが出来る。
だって、防寒に優れ、絶えず暖炉の火が灯されているお城の中はとても暖かいから。窓の外の雪景色なんてある意味他人事なのだ。
そして、ここもまた別世界。
「なんというか不思議な場所よね。ここ」
ガラス張りのその空間に生い茂るのは冬を思わせないくらい青々とした、世界各国の植物たち。
高くにある天井ももちろんガラスで、温かな日の光が燦々と降り注ぐ。
それに加えて池なんかも人工的に作られていて、その中には魚まで泳いでいて、広々としたそこはまるで公園か何かの様だ。
薬学の学者たちの研究所も兼ねているらしいこの温室は、研究室となっている部屋以外の立ち入りは比較的自由で、ついつい部屋に引きこもりがちになっている私たちは、気分転換もかねて今日はここでお茶を楽しむことになった。
「今日のお茶は何にされますか? エリカ様」
この温室に何故か備え付けられているテーブルセットで、マリアがカップを並べながらそう問いかけてくる。
「うーん、マリアに任せるわ。今日のお茶菓子は何?」
「クッキーですわ。確か昨日、今日はマドレーヌになさるってお菓子担当のダリウスさんから聞いていたのですけれど変更されたようで」
「ふーん。でもダリウスさんのクッキーは私、好きだから嬉しいわ」
「それもそうですわね」
まあ、ダリウスさんのお菓子はどれも美味しいのだけれど。
私もお菓子屋さんに勤めていたこともあったから少しくらいは作れるけれど、絶対彼には敵わないと思わされるほどの腕前だ。さすがお城の料理人。
そんなことを思いつつ、マリアが紅茶を入れる姿をなんとなく眺める。すると、私の視線に気が付いたらしいマリアがふと顔を上げて、そしてニコリと微笑んだ。
「すっかりお元気になられましたわね」
「え?」
「一時期、なんだか無理されているようでしたから。でも最近また自然に笑われるようになられたな、と思いまして」
「心配をかけてごめんなさい」
「いいえ。わたくしは何もお力になれませんでしたもの。さぁ、お茶が入りましたわ」
マリアの手によって紅茶と、クッキーの乗ったお皿が目の前に置かれた。
「ありがとう、マリア」
一人では味気ないからと、いつも一緒にお茶を飲んでもらっているマリアが私の向かいに座ったのを見て、私はカップを手にとってそれを口に運ぶ。
癖のない、優しい味が口内に温かく広がった。
次いで、お皿に乗っていたクッキーを一つ頬張る。
けれど、
何かがおかしい。いつものクッキーと味が違う。
そして昔、確かに感じたことのある独特の苦みが、私を青ざめさせた。
「マリア。このクッキー、変」
私は急いでハンカチを取り出して、それに口の中の物を吐き出した。
嫌だ。この覚えのある味。
これは危険なものなのだと、兄上は言っていた。とても強い毒だって。
「エリカ様!?」
なんだか息苦しくなってきた胸を抑える私の元へとマリアが駆け寄ってきた。
その時、
「いかがでしたか? わたしの手作りクッキーのお味は」
聞き覚えのある透き通った美しい声が聞こえる。
声のした方を見るてみると、すぐ近くの大きな木の陰から現れたのは、銀の髪の美しい人。
シーラ様は微笑みを浮かべながら私たちの方へと歩み寄ってくる。
どうして。どうしてシーラ様がここにいるのだろう。
それに手作りって……?
「以前、道案内をしていただいたお礼です。無事、口にしていただけて良かったですわ」
つまり、この人は初めから私にこの毒入りクッキーを食べさせようとしていたということ。
なんでシーラ様が私にこんなこと。そう聞きたいのに、もう限界が近い。
嫌だ。私、この人に殺されてしまう。そう感じた。
そんなの嫌なのに。
私は最後の力を振り絞ってマリアに訴える。
「マリア、解毒剤、急いで。カヤの、毒」
「はい! すぐに」
早くしないと間に合わなくなる。
上手く私の言葉を理解してくれたのか、マリアがこの温室内にある研究室へと駆けて行くのを見届けて、そして私は薄れゆく意識の中でなんとかシーラ様へと視線を戻す。
彼女は、やっぱりとても綺麗な笑顔をニコリと浮かべて椅子から崩れ落ちた私を満足げに見下ろしていた。