四三、望まぬ接触
勢い付いた心で、さあこれからどうしよう。そんなことを考えてみた。
よくよく考えれば陛下はシーラ様と関わるなと、もう私の部屋には来ないとあの時言ったけれど、それでも傍に来るなとか話しかけるなとは言わなかった。
つまり、多分、きっと、都合の良い解釈をさせてもらうならば、陛下はシーラ様を選んだだけで私は彼に顔も見たくないと思われるくらい嫌われているわけではないはずだ。
それならば、明日にでも陛下の執務室を訪ねてみるのもいいかもしれない。
頼めばお茶くらい一緒にしてくれるかもしれない。少しの時間くらい一緒にいることを許してくれるかもしれない。前みたいに面倒くさそうにしながらもちょっとくらいなら私のおしゃべりに付き合ってくれるんじゃないだろうか。駆け引きなんてよく分からないけれど、とりあえずそうやって始めてみよう。
それすらも嫌がられてしまうなら、その時はまた違う手だてを考えればいい。臆病になるのはもうやめてまずは行動してみよう。
それがいい。
私はそう決心する。
けれど、意気込む私の横から「でもさ」というオルスのなんだか慌てたような声が聞こえてきて私は「なに?」とオルスの方へと顔を向けた。
「頑張れとは言ったけどさ、まだ頑張るな」
「え?」
オルスがなにを言いたいのかさっぱりわからない。まだ? それはどういう意味だろうか。
眉間を寄せて首を傾げる私にオルスはなんだか困ったように唸りながら頭をがしがしと掻いた。
「うーん、なんていうかだな、お前がなんかお前らしくなったっていうのか? それはいいことだとは思うんだけどな、もう少しの間、大人しくしとけ。陛下にはまだ近づくな」
「え? だってそんなこと」
何でそんなことを言われるのかわからない。
だってそんな暇はないわ。大人しくなんてしてたらその間にシーラ様が陛下にもっと近づいてしまう。
うかうかなんかしてられない。代わりが代わりでなくなってしまったら、陛下がシーラ様自身を愛してしまったらもう手遅れだ。私の入る隙なんてなくなってしまう。
けれどオルスは難しい顔で横に首を振った。
「今はまだ駄目だ。大丈夫だから。そのうち、陛下、絶対お前のとこに戻ってくるからさ、それまで信じて待っててほしいんだ」
「信じるって、何を?」
「陛下を」
「何を言ってるの? だって陛下は、」
シーラ様を妃にしようとしているのに。陛下が戻ってくるって信じろ?
そんなわけあるはずないじゃない。
「いいから。とりあえず大人しくしとけ。な?」
「そんなの嫌よ」
折角、ちゃんと向き合おうって決めたのに出鼻をくじかないでほしい。この勢いを削がれてしまったら、私また逃げたくなってしまうかもしれない。
それなのに、
「エリカ! 言うことを聞け」
ハッキリと強い口調でそう命令されて、私は戸惑うことしか出来ない。
「なんでそんなことを言うの? さっき頑張れって言ってくれたじゃない。応援してくれるって言ったじゃない」
「それとこれじゃ話が違うんだ」
「何が違うって言うのよ?」
もう訳が分からなすぎてなんだか目頭が熱くなって鼻がツンとしてきた。それを押し殺してオルスを睨みつけてみたけれどオルスはとても強情で折れてはくれない。
それとこれってなに? 何が何なのかさっぱり分からないというのにオルスは説明すらしてくれない。
しばらく二人でに睨みあった。
でも、そのときふと冷静になって考えてみてなんでそんな事にオルスの許可が要るのだろうと思い当った。そんなもの要らないんじゃないだろうか。陛下自身に近寄るなっていわれるなら分かるけれど何故、それを事前にオルスに妨げられる必要がある?
なにかおかしいんじゃないだろうか? うん、そうだ。こんなの相手にしなければいいんだ。
そう思った。
けれど、まるで私の思考を読んだようにオルスが顔を顰める。そして、凄んだ声でこう言い放った。
「もし、今陛下に近寄ったらお前とオレのあの噂は事実だって陛下とアルに言うぞ」
は?
「ちょっと! あんなの嘘じゃない。もしかして、脅す気?」
「まあな」
まあなって……。
なんでそうまでするのだろう? もしかして裏に何か、どうしても陛下に近づいてはいけない理由がある? いや、まさかそんなことあるはずがない。
けれどもオルスはなんだかとても真剣で、ただの脅しだとは思うけれど万が一にも本気で陛下とアルフレッドに変なことを言われるわけにいかない私はしぶしぶ頷しかない。
けれども、私は何一つ納得してなどいなくて、少し苛つきを滲ませながらオルスに訊ねた。
「じゃあ、いつまで私は大人しくしていればいいの? 私はこれからどうすればいいの?」
行き先を失ったこのやる気をどこに向ければいいのか。ジッとしているなんてとんでもなくもどかしい。今まで逃げ回っていたくせに、それでも今は大人しくしている間にシーラ様が、と思うと不安で堪らない。
私はこの持て余した気持ちをどうしたらいいの? 近づくなと言うのならそれくらい教えてくれてもいいはずだ。
そうやって睨みつけ答えを求める私にオルスは難しい顔をして腕組みをした。
「いつまでかなんてオレだってよくわかんねえよ。ただ、それまでお前は陛下の言うことをちゃんと聞いとけばいい。陛下と距離を置いてあの女に関わらなきゃそれでいい。そうすれば陛下はお前のこと好きになるんじゃないか?」
「そんないい加減なこと、無責任なんじゃないかしら」
そんな都合のいいことあるわけないじゃないかと、またちょっと心が苛つく。
「いい加減じゃないさ。保証する。それからさ、お前は今のままちゃんと顔を上げてろ。もう今日みたいに陛下から逃げるなよ。そうしたらお前みたいなバカにでも分かることはあるかもしれないぞ」
「分かること?」
「ああ」
分かることとはなんだろうか。
それは私に関係のあることなのだろうか。
でも、嫌だな。陛下と向かい合おうと、シーラ様から奪い取ってやろうと心に決めたのはいいけれどやっぱりそれでも二人が並ぶところは見たくない。
オルスは逃げるなと言うけれど、そういうのを考え始めるとまた心が沈みだす。
「エリカ」
オルスから名前を呼ばれて私は俯けていた顔を上げた。
「なに?」と首を傾げるとオルスが苦く笑う。
「好きなら信じろ。大丈夫だから不安がらなくていい。陛下のためにお前が出来ることはただ元気で、ちゃんと笑うことだ」
元気で、笑う?
なんだそれはと思いつつそう言われれば、私はここのところずっとそれが出来ていなかったかもしれない。
それがなんで陛下のためになるのかはよく分からないけれど、それでも、
「それが私に出来ること? 本当に、信じていいの? 陛下と、あなたを」
「ああ」
オルスが任せろと大きく頷いた。
それならば、私はしっかりと笑えるようになろう。それは簡単そうにみえて今はとても難しいことだけど。
本音を言うとやっぱりまだ納得できていないのだけど、それでもオルスにもきっと考えがあると信じよう。
「じゃあ、ちゃんとあなたの言うとおり大人しく待ってて、その間にやっぱり陛下がシーラ様を選んだらオルスは責任をとってちゃんと私に責められまくりなさいよ?」
「……それは……なんだか怖えーな」
「当然でしょ?」
ふんっと言った私にオルスが肩を竦めて、それでも「分かったよ」と笑う。
「さて、と。もうだいぶ遅くなったな。もう夕飯の時間、とっくに過ぎてる」
「うん、急いで戻らないとっ」
夕飯の時間どころかお風呂の時間すらも過ぎているかもしれない。さすがにベティーに怒られそうだ。
「じゃあ、明日時間に遅れたら部屋から出してもらえなかったって判断してオレ待たずに帰るからな」
「少しくらいは待っててくれてもいいでしょ。でも遅れないように気を付けるわ。今日はありがとう、オルス。じゃあまた明日」
「気を付けて帰れよ」
慌てて駆けだす私に、オルスから声がかけられる。私はすぐそこの回廊から城中へと入った。
城中では走るわけにはいかず、ここ最近毎日通っている廊下を早足で進んでいく。
オルスは気を付けてと言ったけれど、それはただの挨拶で何かあろうはずがない。だから私は迷いのない足取りで、自分の部屋へと向かっていた。
それなのに、
「……」
「……もう、一息か」
「ええ。とても順調です」
廊下を曲がったその先の、他の方向に延びる廊下と交わるところから聴こえてきた覚えのあるしわがれた声と透き通る声に、私は反射的に足を止めて身を隠した。
心臓が、一度大きく鳴ってそして血の気が引いて行く。
この声、エヴァンズ侯爵とシーラ様だ。
なんでこんなところにいるのだろう。シーラ様はだいぶ前に陛下と一緒にいるところを確かに見たけれど、何故私の進むべき道のその途中になんかいるの? ピリッと手に痛みが走る。折角、薬を塗っていたのにまた無意識に強く手を握りしめていたことで潰れた肉刺が痛んだ。
それに気付いて心を落ち着けて手から力を抜き、壁に張り付く。別に話を聞きたかったわけではない。本当は今すぐここを立ち去ってしまいたかったけれど、私が進むべきはこの先の二人がいるところでここから出て行くことも出来ず、仕方なく彼らが立ち去るのを待つことに決めた。
決して気づかれないように気配を顰める。
「そうか。あの役立たずがバカな死に方をした時には一度諦めたのだがな、こんなに上手くいくとは。やはり予備と言うものは必要だな」
エヴァンズ侯爵が満足そうに笑う声が聞こえてくる。
役立たず? バカな死に方ってアリス様? 予備って何のことだろう?
「あとは、お前が陛下に結婚の約束を取り付ければいい。この父のためにしっかりと陛下の心を掴め。よいな?」
「わかっておりますわ。それは私の望みでもありますもの」
「ふんっ。まあいい。儂は今から陛下にご挨拶とやらに行ってくるからお前は先に馬車に乗って待っておれ」
「はい、おとうさま」
こつこつとその場から足音が一つ遠ざかって行くのが聞こえた。
なに? さっきの会話……。
自分の娘を役立たずって、自殺だとしても死んじゃってるのに。あんな冷たい言い方、普通しない。あれが父親?
私の現世の父のほうがまだマシなんじゃないだろうかと初めて思わされるレベルなんだけど。あの父は賭け事大好きで得意技が借金づくりだったけど、人は良かったもの。だから騙されてまた借金が増えたんだけど。でも、最終的に娘捨ててる時点であのおじさんとそう変わらないかな? よく分からない。
ただ、さっきの会話から読み取れたのは、あの男が娘とシーラ様を駒として扱っているということだけ。
嫌な奴。
そんな事を考えながら壁にくっつけていた背中をゆっくり起こす。
それにしても、やっぱりさっきの会話から察するに私、待ってる時間ないんじゃない?
もう結婚がどうのこうのって。しかもシーラ様までそれが望みって。
嫌だ、なぁ。心が揺れる。何が正しくて、どうすればいいのか何もかもが分からなくなる。
オルスの言ったことを信じようと決めたけれど、やっぱり焦ってしまうのはどうしようもない。
そんな気持ちを落ち着けるために、私は小さく息を吐き出した。
そしてそっと角から顔をのぞかせてみる。
はやく戻らなきゃいけないのに、先ほどから待っていてもシーラ様がそこから動いた気配がないから様子を窺うためだ。
やっぱり。
その先にいたのは、そこに佇んだままのシーラ様。
どうして動かないのだろう?
そのままそっと見つめていると、彼女はこそりとどこかから何かを取り出した。
そしてそれを胸の前で包み込むようにして握りしめる。
なんだろう? 人形、かな? 剥げたような赤い色がちらりと見えた。
静かに伏せられるのは柔らかな空色の瞳。その横顔が少し悲しげで。
「……アリス」
彼女のその口から小さくその名が漏れた。
それに対し、私は思わず「え?」と声を上げてしまった。
何故、彼女の口からその名が出るの?
ただの養女のはずの彼女もまたアリス様のことを知っているのだろうか?
けれど、その思考は彼女がハッとこちらに顔を向けたことで中断された。
しまった! 関わるなって言われてたのに!
私は何をやっているんだろう。
今更焦って隠れてももう遅い。
どうしよう? どうしたらいいの!?
私は混乱してそのまま固まってしまって、だけどシーラ様はそんな私に柔らかく微笑みかけてくる。
私にとっては敵ではあるけれど、その微笑みは何か人の心を落ち着かせ、癒す力があるのかもしれない。
微笑みを受けた私は、つい無意識のうちに一歩前に進み出て笑みを返していた。
本当に、綺麗な人だ。
自分で言うのもだけど、美人だと皆にほめたたえられたティアとはまた違う美しさ。
「陛下の、側妃さまですね?」
向かい合うシーラ様から、憑りつかれたように動けずにいる私へ、控えめな口調でそう確認されて、私は迷いながらも小さく一つ頷いた。
「エリカ・チェスリーと申します」
「シーラ・エヴァンズです。どうぞよろしくお願いします」
「……ええ」
よろしくとは、これからのことよね。そう思うとそんな短い返事しか出来なかった。
彼女のことを人間として嫌いなわけではないけれど、私にとってはやっぱり歓迎できない存在で、陛下とオルスに関わるなと言われた以上によろしくなんてする必要もないはずだし、したくない。
心が狭いと言われたって構わない。態度が多少悪くてもシーラ様には悪いけれど、どうしようもないんだ。そう開き直る。
だから、もうこれ以上一緒に居る気はなくて、「では、私はこれで」そう言って去ろうとした。
それなのに、
「あの、エリカ様。ちょっとお願いが」
そんな声がかけられて、
「はい?」
初対面に近いこの状態でいきなりお願い、とはなにごとだろう?
そう思って彼女を見つめると、シーラ様は少し不安気に瞳を潤ませている。
「どうか、されましたか?」
流石に良心の呵責に押し負けて私はシーラ様にそう訊ねてしまった。
するとシーラ様はなんだか困り果てたように眉を下げてそのお願いとやらを話し出した。
「よろしければ玄関ホールまで案内していただけませんか? 帰りたいのですけど道が分からなくって」
確かにこの王城の廊下はとても入り組んでいて分かりにくい。
仕方が、ない、か。ここで見捨てるわけにはいかないし他に頼めるような人間も周りを見渡してもいない。
私は、気づかれないように小さくため息を吐いてシーラ様へと笑顔を向けた。
「ええ。勿論いいですよ。付いてきてください。案内します」
私は、その言葉にパッと笑顔になったシーラ様を案内するために彼女の前を歩き出す。
シーラ様が言われた通り後ろからついてくる気配がした。
「わたしも早く覚えなければなりませんね」
少し歩いたところで後ろからそんな声がかけられて、
「そう、ですね」
私はやっぱり短くそう答えた。
私としては覚えるようなことになって欲しくはないもの。
迷うくらいならもう来なければいいのに。
本当はそう思っているもの。
だから、それだけであとは無言でただ歩を進めた。
「着きましたわ。ここが大ホールです。玄関はその先」
「ありがとうございました」
「いいえ。では、私はこれで失礼しますね」
シャンデリアの美しいその大ホールまでたどり着くとそれだけ言って私はその場を後にする。
もうお城の玄関は見えている。ここまで来たら充分だろう。
けれど、足早に歩を進めて早くこの場を離れようとする私に後ろから少し張り上げた声がかけられた。
「エリカ様」
私を呼び止めるその声に、私はそちらの方へと振り返り、なにか?と視線で問いかける。
すると、彼女は一度瞳を伏せて申し訳なさそうな戸惑うような微笑みを私に向けた。
「お許し、くださいね」
それは、
「なにを?」
問いかける私にシーラ様は今度はとても美しい、でもどこか意味ありげな笑みを浮かべてそれからなにも答えることなく、番によって開けられた玄関を潜って行った。
取り残された私は彼女の言葉になんだか嫌な胸騒ぎを感じて、しばらくその場に立ちすくんでいた。