四二、過ぎ去りし日
「本当はこんなこと、陛下から聞くべきでオレが余計なことをしゃべらない方がいいのかもしれないけど」
アリス様のことを教えてほしいという私の頼みに頷いたオルスは、それでも少し迷ったようにそう言った。
「けど、そうだな。やっぱりオレもお前には知っといてもらいたい。あんまりいい話じゃないけど、でもだからこそお前には同じこと繰り返してほしくないからそのために話すよ」
繰り返す、とは何をだろうか?
オルスの言葉にそんな事を思いながら、私たちはその場に座った。
外はすごく寒いし誰にも話を聞かれないようにどこか別の場所に隠れたほうがいいと提案してみたけれど、さすがにもうこれ以上お前との噂は御免だと言われてしまった。夜に二人で姿を消すよりは逆に人目に付いた方がまだマシな気がするそうだ。私にはなにが違うのかよく分からないけれど、それでも再びアルフレッドの脅威を思い出した私はこれ以上はことが大きくなるのは避けたくて少しでもその危険が少なくなるのならと大人しくそれに従うことにした。本当は明日にしてもよかったのだけど、せっかく覚悟を決めたのだから今聞きたい。
今日は風があまり吹いていないのが唯一の救いかもしれない。寒いことは寒いけれど、まだなんとか耐えきれる。
それでも、とやっぱり身を小さくする私の横でオルスはどこか別の場所をぼんやりと見つめながら淡々と話し出した。
「アリスはな、あのシーラって女を連れてきたおっさんの娘だったんだ」
それは知っていると私は一つ頷く。
「あのおっさんの家、エヴァンズ侯爵家は代々国の中枢で力をふるっていたようなそんな家で、歴代の宰相とか大臣はあの家の出の人間が一番多いらしい。あのおっさんも先代から引き継ぐ形で若くして宰相に任命されたって話だ。
でも、ただ引き継いだってだけじゃなくてあのおっさん自身、能力もあったしなんていうか人を引き付ける力もあった。その上、野心家で。いつの間にか一大勢力を作り上げてて政治はほとんどあのおっさんの独擅場だと言ってもいいくらいだった。
そんなおっさんの元に生まれたのがアリスだ。
まあ、時期が良かったんだな。丁度その前の年に王家には陛下が生まれてた。
歳の頃合いがいいこともあって、アリスは生まれたその瞬間にもう陛下の妃の筆頭候補になったんだ。
それが二人の始まりだな。アリスは小っさい頃からよく父親に付いて陛下に会うためこの城を訪れてた。
オレは陛下たちに初めて会ったのが7つとか8つとかそれくらいの頃だから最初から知ってるわけじゃないけどな」
「オルスは何で陛下たちと一緒にいるようになったの?」
オルスの話にふーんと頷きながら、なんとなく気になったそんな事を訊ねてみる。
「オレのうちは代々武官をしてる家で、当時武官長をやってた祖父さんに無理やり連れてこられたんだよ。護衛の練習だとかなんとか言われて」
「それ、役に立つの? 7つか8つでしょ?」
「バカにするなよ。オレはそのずっと前から祖父さんに武術させられてたんだ」
「でも、わざわざあなたを送り込む必要無いんじゃない?」
「陛下とアリスは反エヴァンズ派の人間とかに命狙われることも多かったんだよ」
「え? 何? それ」
あまりの驚きに私は声を上げた。
王族が命を狙われるなんてアブレンの王宮ではそんなこと一度もなかったのに。なんだか物騒なところだ。
青ざめる私に、それでもオルスはそいつらを撃退するのも楽しかったと笑った。楽しんでいる場合じゃないと思う。
「陛下とアリスと、陛下の遊び相手だかご学友だかしらねえけどオードランのおっさんに送り込まれてたアルとオレと。大人の事情とかまあ色々あったんだろうけど、それでもオレ達は毎日、ここで仲良くやってて楽しかったよ」
懐かしむようにオルスが目を細める。
取り戻せない遠いときを想うように。それは私にも痛いくらい覚えのある感情で、私はなんとなくニコリと笑みを作った。
「オレさ、陛下とアリスが一緒にいるときのあの静かで穏やかな空気が好きだったんだ。
陛下が本読んでる隣でアリスが刺繍なんかしてて、ときどき囁くような話し声と笑い声が聞こえてきて。春のキラキラした木漏れ日の中でそこだけ絵を切り取ったみたいに綺麗な二人だった。
良く、似合ってたんだ。
元々さ、決められた相手だったけど、それでもアリスが陛下のことを好きなことは見れば分かるくらい明らかで多分あの父親以上にアリス自身が陛下の隣を望んでた。
だから凄く頑張ってたよ。本当は争いとかそういうのを好まない優しい穏やかな気性なのに誰にも陛下の隣を取られないように、負けないように頑張ってた。勉強も作法も社交術もどれをとっても完璧になるように陛下の隣に相応しくあるように陰で必死になってたのをオレは知ってる。どんなにアリスが綺麗でも完璧になってみせても反エヴァンズ派の人間にとってはやっぱりアリスの存在は面白くないもので、色々悪意のある言葉とかも言われてたけど、それでも挫けず耐えてた。泣き虫だったからすぐ泣いてたけど。
そんなアリスだったから、幸せになって欲しかったんだ。けど……」
オルスが組んだ指にぐっと力を込めたのが見えた。幸せになって欲しかった。でも、なれなかった。それは何故?
「何が、あったの?」
私はゴクリと唾を呑みこんだ。
「事の始まりは9年前のあの出来事だったんだと思う」
「あの出来事?」
「去年滅んだ隣国のフルトからな、同盟を結んでほしいって話が来たんだ」
「同盟?」
「ああ。ちょうどその頃フルトはアブレンとの戦争が始まろうかというときで、多分力を借りたかったんだろうな」
アブレン……。きっと、兄上が仕掛けた戦争。それがアリス様の幸せを壊したきっかけを作ったということ?
「それで?」
私は手をギュッと握りしめて先を促す。
「同じころ、この国ではある病が流行っててその薬の主原料になる植物がフルトにしか生えないものだったんだ。だからその植物を大量に輸入することを条件に前国王はその同盟に応じようとした」
その言葉に私は頭を巡らせる。
そういえばそういうこともあったかもしれない。その流行病は首都に来る前に何とか静まったから身近での被害はなにもなかったけれど確か地方の方では多くの犠牲者を出したはずだ。
「でも……」
薬はずっと入手困難だったし、その流行が沈静化したのは医者たちの尽力と自然と落ち着いたからだと聞いた覚えがある。
それにレストアがフルトの戦争に力を貸していたような記憶もない。つまりその同盟には応じていなかったのではないだろうか。
私が首を傾げるとオルスは神妙な面持ちで頷いた。
「ああ、結局そうはならなかったんだ」
「なんで?」
「その同盟はエヴァンズとオードランのおっさんが反対した」
「え? ラン、じゃなくてオードラン公爵まで?」
それじゃあ薬が手に入らずに死んでいった人間は?
薬さえあれば助かった命もあったはずなのに、なんで反対なんかしたのだろう。
そんな不信感に顔を歪める私にオルスはゆるく首を振る。
「色々あるんだよ。病は流行が治まりさえすればそれで終わる。今までだって何度も繰り返されてきたことだ。けど、戦争となったらそうはいかない。たくさんの武官たちが犠牲になることは避けられないだろうし国庫にも直接響く。いつまで続くかもわからない。こっちにまで戦火が来る可能性もあるし、最悪共倒れしちまう。不利益の方が大きいとオードランのおっさんは判断したんだよ。でも、その予想してた以上に病の流行は治まるところを知らなくて、そのうち賛成に回ったらしいけどな」
「そう……」
「でもエヴァンズのおっさんはずっと反対してた」
「なんで?」
「その同盟の条件に陛下、当時は王子だったけど、とフルトの王女の結婚ってのがあったんだ。なんだかんだ言っても国同士の繋がりを一番強くするのはそれだからな」
「え? でもアリス様がいたのに?」
「ああ」
「そんな……、陛下はなんて? そんな縁談が来てもアリス様が」
「それでいいって」
「まさか!」
それは今の、アリス様に固執している陛下からは考えられない返答だ。
でも、それでも、
王族の結婚は気持ちなんかじゃない。それが国のために必要ならばそれに従うべきだ。私だってずっとそう思って生きていた。だから陛下のその返事は間違っていないはずだわ。
でも、だけど……。それはきっと前世で私にそういう相手が、想う相手がいなかったから思えていたことだ。もし、あの時に今こうやって陛下を想うように愛してた人がいたのなら、私は、どうしてた? 離れることを大人しく受け入れられたのだろうか?
陛下は、本当にそれでよかったの??
「いつも言いなりに等しかった前国王が流行病に心を痛めていつになく強情で、さぞエヴァンズのおっさんは焦っただろうな」
オルスがため息を吐き出す。
でも、きっとそれで一番焦ったのは、心を乱したのはエヴァンズ侯爵じゃない。アリス様のはずだ。
「アリス様は!? その結婚のことなんて?」
「さあ。皆が皆、知られないように動いていたから。でも今思えば知らなかったはずねえよな」
「……可哀そう」
もしかしたら正妃をそのフルトの王女にして、側妃としてアリス様を迎えることは出来たのかもしれないけれど、それはそれできっと辛い。
なんだか、今の、シーラ様と共にいる陛下を見せられる私の心情と勝手に重ね合わせてしまって胸が苦しくなる。
でも、この同盟は結局上手くいってない。
「じゃあ、結局はエヴァンズ侯爵の反対が強くて同盟の話はなくなったっていうことなの?」
「まあ、そういうことだけど、何より大きかったのはそれを押してた前国王が死んじまったことかな」
「え?」
「前国王が亡くなっちまったってことで、話が全部流れたんだよ」
「そう、なの? えっと、でもなんで亡くなったんだっけ?」
アブレンの王族のことじゃなかったからあまりにも興味がなくって私は何も知らない。噂でなんか流れていたような気がするけれど気にも留めてなかったし。
「民衆には病死ってことにしてるけど、殺されたんだよ。例の流行病で家族が死んだ奴の逆恨みでな。しれっと護衛に交じってた犯人が前国王を襲ったんだ。でもまあ、実際のとこ、犯人はただの庶民だったし素人が簡単に国王に近づいて殺せるのかって問題になる。もしかしたら手引きした黒幕がいるのかもしれないけどな」
「殺すって、黒幕って、なんて物騒なとこなのよ、ここは!」
さっきの陛下とアリス様襲撃の件といい怖い、怖すぎる。
「まあ、そんなことで陛下の即位が急に決まってな、で、そのあとすぐに陛下はアリスとの婚約を決めたんだ。アリス、すっごく喜んでた」
「……そう」
きっとフルトの件で不安になった分、嬉しかったんだろう。安心したんだろう。
いいなぁ。
私にはそんなことが訪れる日はきっとない。
羨ましくて悔しくて、私の瞳がじわりと熱くなる。
「でも、それと同時に陛下はエヴァンズのおっさんを宰相から降ろした。反発とか動揺とかで城内は荒れたんだ」
「それは……、エヴァンズ侯爵の力を削ぐため?」
たしかキャロルがそんなことを言っていた。
「そう、言われてるな。本当のところはオレもよく知らないけど」
「それで?」
「そのころからアリス、なんか不安定になってて。ほら、父親が力を失くしたらそれはそのままアリスの立場に反映されるから。……もしかしたらそれだけじゃなかったのかもしれねえけどな」
「どういう意味?」
「まあ、色々思うところがあったのかもなってことだ」
「ふーん」
なんだろう? 別に父親の力がなくたっていいじゃない。陛下の隣にいることが出来ればそれだけでいいじゃない。何が不満だったというのだろう。
むぅっと地面を睨みつける。けれど、その後のオルスの言葉に私はパッと顔を上げた。
「そのあとのことだよ。アリスが死んだの」
「なんで? なんでアリス様は亡くなったの? ご病気?」
「いや」
オルスが横に首を振る。
「じゃあ、事故?」
「違う」
じゃあ、なんだというのだろう?
まさか、
「他殺?」
さっきまでの話を聞くにここでならそういうことがあってもおかしくないかもしれない。そう思って訊ねてみたけれど、「そうじゃない」とオルスは答えた。
「じゃあなんだっていうのよ?」
「……自殺だよ。陛下が殺したんじゃなきゃ、自殺だ」
「え?」
よく意味が分からない。
「それって、どういう??」
どういう意味なのだろう?
「だって、陛下との結婚が決まって喜んでたって……」
「ああ、そうだよ。アリスが死ぬ前の日にオレ、丁度そこの回廊で偶々アリスに会ったんだ。結婚式楽しみだなって言ったオレにアリス、なんかすっきりしたような顔で笑ってたよ。『怯えるのはもうやめるわ。わたくしがジェルベ様を夢中にさせればいいんだもの』って」
「それは、どういう意味?」
ジェルベ様というその私には許されなかった呼び方に軽く傷つきつつ、アリス様のその言葉の意味が分からず首を傾げる。
「オレも今になってやっとわかったことなんだけどな、まあお前も自分で考えろ。ちなみにその怯えの対象はお前だ」
「私、アリス様に会った覚えはないんだけど何で怯えられなきゃならないのよ」
「珍獣だからじゃないか?」
こいつっ! 明日は特別に力の限りあの刃のない短剣を刺してやる。
「まあ、それはそうとだな、本当に急に、突然だったんだよ。皆が何でだって困惑してた」
「その日、何が起きたの?」
「夜にな、アリスは陛下の部屋を訪ねてんだ。そこでアリスが命を絶った」
「どういうこと?」
陛下の部屋?
キャロルが王城内で亡くなったっては言っていたけれどまさか陛下の部屋だったなんて。しかもその場に陛下はいた?
「陛下さ、ちゃんと寝ること出来ないだろ? その原因だ。陛下が寝てる間にアリス、陛下の護身用の剣を持ち出してそれを自分に刺したんだよ。陛下がすぐ気が付いたみたいだけど間に合わなくて」
「なんで? なんでそんな事したの?」
「さあ。陛下だって原因も何もかもよく分かってないみたいだ。ただ自分のせいでアリスが死んだと思ってる。アルはそんなはずないって言うけど、本当のことはアリスにしかわからないんだ。ただ、オレとアルもその時まだ城内にいてすぐに駆け付けて亡骸を見たけど、アリスの口元、笑ってた。ベッドの脇で座り込むようにして、ドレスが血に染まったその姿はオレでさえも見るのが辛かったけどな」
「……そんな」
そんな事って……。
でも、
「他の人間の仕業とかじゃないの? 誰か他の人間が陛下の部屋に入ってアリス様を殺したとか」
「全部の窓に鍵はかかってたし、陛下の部屋の前には護衛がいる。無理だよ」
「前国王の時みたいにその護衛が怪しいのかも」
「それはなかった」
「じゃあ……陛下が殺したとか」
「本気でそう思うか?」
「……思わない」
花祭りの時も鹿狩りの時もなんだかんだ言いつつ陛下は私を助けてくれた。そんなこと、するような人じゃない。しかも相手はアリス様だ。有り得るはずがない。
じゃあ、なんで? なんでアリス様は自分で死を選ぶ必要があったのだろう?
結婚が嫌だった、ってわけではないはずだし、他にどんな理由があるの?
なんでそんな陛下の傷になるような死に方をするの? きっと陛下は傷ついたのだろう。まだ眠れない彼はまだその傷から血を流し続けているのだろう。
そんなのあんまりなんじゃないだろうか。アリス様は何をしたかったのだろう。陛下を傷つけて平気だったのだろうか。
あんまりだ。
でも、それよりも……、
「私、許せない」
「は?」
私は足に力を込めてその場に立ち上がった。オルスが私を見上げながら意表を突かれたように目を見開く。
なんだかだんだん胸の奥底から怒りが沸々と湧いてきた。
「私、そんな人に負けたくなんかないわ。私は失いたくなんかなかったのに。命はたった一つしかないのよ? 大切にしなきゃいけないの。どんな理由があってもそれを自ら手放すようなことしちゃいけないのに。そんな人になんか私、負けたくない」
私はティアとしてもっと生きていたかったのに。それなのに失ってしまったのに、アリス様は自分でそれを手放した。そんなの許せない。私、そんな人に負けたなんて思いたくない。
「私、やっぱり諦めるのなんてやめるわ。陛下のことまだ好きでいる」
アリス様は自分で陛下の隣を手放したのだ。それなら、その場所は私が欲しい。
アリス様の代わりのシーラ様にも渡したくなんかない。
「そうだよな。お前がアリスのようなことするはずない、か。まあ、ほどほどに頑張れよ」
「ええ」
意気込む私の隣でオルスが立ちあがりながら苦く笑う。
アブレンとのことを思うと、此処から追い出されるわけにいかない私はやっぱり身動きがとりづらいけれど、それでも出来ることを頑張ってみよう。
陛下には嫌がられてしまうかもしれないけれど、逃げてばかりいないでもう一度ちゃんと向かい合おう。