四十、面影
アルフレッドの父、ランベールが屋敷へと帰ってくるのはとても珍しいことだ。女好きで知られる彼はいつもどこかで遊びほうけている。
それは正妃の実家よりも身分の高い家から送り込まれた側妃の母を持つ彼が、正妃の子である第1王子を立てるために取った策だとも言われるし、その第1王子が無事国王になったのちも女遊びに明け暮れたのは彼なりの政策なのだと言う者もいる。
その真偽のほどは分からないが、彼がいつもふらりと現れてはどこから得たのか分からないとても大きな情報を宰相となった息子に与えてくるのは事実で、アルフレッド自身この父が何を考え行動しているのかさっぱり分からないというのが本音だった。
玄関で出迎えてくれた執事に教えられたとおり父の部屋へ向かい、2度ほどノックするとすぐに「どうぞ~」というなんとも緊張感欠ける声が聞こえてきてアルフレッドは小さくため息をついた。
ノブを回して扉を開ける。するとそこにはにこやかに笑う父。
「久しぶりだね、アルフレッド君。元気だったかい?」
「ええ、まぁ元気ですよ。あなたもお元気そうで何よりです」
「まぁね」
そう言いながら父は近くにあった椅子にドカリと座り、その長い足を軽やかに組んだ。もういい年であるのにも相変わらず気障だ。
「エヴァンズたちの件、順調に進んでいるようだね。ジェルベも頑張っているじゃないか」
「だいぶ辛そうにはしていますけれどね。早く決着をつけなくては」
「ふーん」
そう言いながら父は傍らの机の上に転がっていたペンを手に取り、考え込むようにそれを口元にトントンと当てる。
そして、そのペンをもう片方の手のひらでペシッと音を立てて勢いよく受け止めた。
「ところでアルフレッド君。あのアリスにそっくりな娘のいたという寺院を君は知っているかい?」
「ええ、カリアの片隅にあるテクネスト寺院でしょう? あまり大きくはないどこにでもあるような寺院の一つと報告を受けてますけど」
「実際に見たことはあるかい?」
「ありませんけど」
「一度、あそこを調べてみたほうがいいかもしれない。なんというかあそこちょっと変なんだよね。趣味が悪いというか派手というか」
「裏で金銭が動いている、と言うことですか?」
そのアルフレッドの問いかけにランベールはニコリと微笑む。
「気のせいかもしれないよ?」
けれど、こう言った父の言葉が外れたことはない。
アルフレッドは「調べてみます」と頷いた。
「早く片付くといいね。ジェルベも早くあの姫の傍に戻りたいだろうに」
手に持っていたペンをもう一度机に転がしたランベールは、深く背もたれに背中を預ける。
“あの姫”とは誰のことだろう、とアルフレッドは一瞬考えてしまったが、それでも心当たりは一人しかいない。何故姫なのかは果てしなく謎だが。
それでもこの父の言うとおりジェルベはやはり戻りたい、のだろう。あれだけ気にするのならば。
けれど、すべてが解決しても元に戻していいものかが問題だ。
アルフレッドは早速本題に入ることにして父と改めて向かい合った。
「それでどうでした? エリカ・チェスリーのこと。見覚えはありましたか?」
その問いかけに、ランベールは少し考え込むように瞳を伏せる。
「“ランベール王子”、と彼女は僕のことを呼んだんだ」
肘掛けに肘を立てその先の手の甲に頬を乗せながら、父は開いた瞳を細めてそれを曇らせた。「懐かしいだろ?」と問いかけられたけれど、アルフレッドはその呼び方に親しみを一切感じない。アルフレッドが生まれたころにはもう父は臣下となっていたから。
それなのに、何故エリカ・チェスリーはそう呼んだのだろうか?
それでも、
「……僕は会った覚えはないけれど、君の言ったとおり彼女は僕のことを知っていたようだね」
「そうですね」
父を見てそう呼んだのならば、彼女が言い訳したように勘で瞳の色を当てたということは有り得ない。決して珍しいと言うほどの色ではないのだから。
では、どこで彼女は父を知った?
「僕にも見えたよ。彼女の中にアブレンが。とても懐かしい。どうしてだろうね。姿かたちは全く違うのに何故かティア王女のことを強く思い出した」
「ティア王女?」
「うん。僕のお嫁さんになってもらおうかと思っていた姫だよ」
「そんなこと言うと母上が拗ねますよ」
「大丈夫だよ。彼女は分かってくれてるから」
クスクスと笑う父と、母はとても仲がいい。父に関しては良くない噂だらけなのに、ふわふわと笑い、時に不思議な言葉を放つ母は父を信頼しきっていてそれが大問題に発展したことは一度もない。
悲しむこともなくいつも母は幸せそうに笑っている。
きっとお互いにしか分からないものがあるのだろう。
「ちょっと待っていなさい」
何かに思い当ったのか不意に椅子から立ち上がった父はそのまま書斎となっている続きの部屋へと入って行き、しばらくすると2枚の絵を両手に抱えて戻ってきた。
そしてそのうちの1枚をアルフレッドへと差し出してくる。
「この女性だ。とても、美しいだろう? ティア・ラミア・アブレン。アブレン王の妹君だ。とても素直で無邪気な、それでいてまっすぐで誇り高い、アブレンの宝と言われた姫だよ。そんな彼女をヘリクスもとても可愛がっていたんだけれどね」
一度だけ会ったことのある他国を侵略し続けるアブレンの王はとても厳しい、痛いまでの威圧感のある人物だった。彼の青の瞳が氷のように冷たかったことを思いだす。そんな人物が妹を可愛がっていたというのはなんとなく違和感があった。
それとも父が外交でよくアブレンを訪れていたというその頃はもっと違ったのだろうか。
渡された肖像画にアルフレッドはなんとなく視線を落とした。
少しだけ古い肖像画。けれど、その中で微笑む姫君は今でも色あせることなく凛とした美しさを放つ。まっすぐ伸びた流れるように艶やかな黒髪、力強く輝く青の瞳。弧を描く唇はどこか気が強そうで、意志の強さと気高さがその姿から感じ取れた。
「もう一枚、あるんだよ」
そう言って渡されたのは、先ほどの畏まったような表情ではなく、一転して何か楽しそうに笑っている姿が描かれた肖像画。
凛とした雰囲気は見事に消え去り、そこには飾らないありのままの素直な笑顔を一面に放つ姫君がいた。
身に着けている装飾品などよりもよっぽど、眩しく輝くその笑顔。
確かに、父の言う通りだ。姿かたちは全く違う。けれど、力強い瞳が、媚のないありのまま笑顔がどうしてか彼女を思わせた。違う人間なのに、何故か既視感を抱く。
けれど、それが何だというのだろう?
「なんで、アブレン王の妹君の肖像画がここにあるんですか」
「さっき言ったじゃないか。お嫁さんになってもらおうかと思っていたって。向こうから正式な話も来ていてその時のものだよ。姫は知らないようだったけれど……、どうやら先代の王のご希望に僕はピッタリだったらしい」
「希望?」
「うん。外交上有益で、それでいて国力が安定している国。そして王妃なんて苦労は背負わせなくて済む身分」
「我が儘ですね」
それでも、前王妃であるジェルベの母のことを想うとそれはそれで仕方のないことかとも思う。王妃の責任と重圧は半端なものじゃない。
「娘可愛さだね。そしてこちらとしても資源豊富で豊かなアブレンと手を組むことになんの不利益もなかった」
「ではなぜ破談に? この方は今は?」
もしこの縁談が上手くいっていたなら、今はまた違う形になっていただろう。
けれど、思い返してもこの姫君の存在もその嫁ぎ先にも何も心当たりがなかった。
それは何故だろうか?
そう考え込むアルフレッドに父はその顔に少し物悲しげな表情を滲ませた。
「亡くなったんだよ。こちらが返事をする前にね、僕と彼女が20歳のときのことだ。可哀そうにね、乗っていた馬が突然暴れだしたらしくて、振り落とされてそのままだったという話だ。だからこの絵もなんだか処分できなくてね」
「落馬……、ですか?」
「ああ」と静かに頷く父を見ながらアルフレッドはそういえば、と何故かその時不意に思い出した。
そういえばエリカ・チェスリーもまた落馬したことがあるとジェルベが言っていなかっただろうか。
たしか、彼女が鹿狩りで気を失った時の会話だ。
『昔、馬から落ちたことがあるらしい。それ以来、ずっと乗っていなかったと言っていた』
『落馬ですか? その時はよく無事でしたね。大きな傷跡なんてなさそうですし』
『……そう言われれば確かにそうだな。まぁ殺しても死にそうにない奴だが』
けれど、密偵たちが調べた情報の中に、エリカ・チェスリーが馬に乗ったような記録など一切見当たらなかった。それならばいつ彼女は馬に乗り、落ちた?
それが何故か少しだけ、引っかかっていた。
ただの偶然だ。
きっと記録漏れだろうし、この世の中落馬して死んだ者も助かった者もそれこそ星の数ほどいる。
決してそこに繋がりなんてないはずだ。
なのに、
突然、頭が勝手に変なことを考えだした。
もしも、もしもそれを繋げたのなら?
『知識が、古いのかしら……?』
『でも一つだけ言えることは、エリカ様は“今”のアブレンをご存じないということだけ。クレオだなんて国、もう誰の話にも出てこないのにそれをご存じで、まだその国が存在しているのだと思ってらっしゃった』
『あのベト王の書物も、あれは各王家に1冊ずつしかないはずなのに、何故あれに覚えがある?』
『あれでただの庶民だなんて有り得ない』
妙に城慣れした委縮することのない態度。庶民とは思えない完璧なまでに素晴らしい作法とダンス。滲み出るアブレンの色。年代物のアブレン語の児童書。古い知識。知らぬ“今”。落馬。王家の本。
一瞬、体が震えた。
違う。
そんなはずはない。そんなことがあり得るはずはないのだ。
何バカなことを考えている?
「もう少し」
そんな父の声が聞こえてきて、己の思考に没頭していたアルフレッドはハッと顔を上げた。
そんなアルフレッドに父は腕を組みながら何かをたくらむように小さく笑う。
「もう少し、今の状況が落ち着いたら僕は姫に会いに行こうと思うんだ。向こうもどうやら僕に訊きたいことがあるらしいしね。どんな内容だと思う?」
言われたその言葉の裏に秘められた意味にアルフレッドは父の顔を凝視した。
この父はたった一回の接触で一体何をどこまで感じ取った?
「彼女が敵か味方かなんて知らないけれど。けれど、僕の知っているティア王女は曲がったことが大嫌いな、まっすぐな女性だったよ。誰かを裏切るようなことを率先してするような人間ではなかった。そして、それはあの姫も同じのようだ」
面白そうに微笑む父の、アルフレッドと同じ色の瞳が明らかな確信をもっているように鋭く輝く。
そんなはずはない。有り得るはずがない。
いつも頭の回るはずの父は何を考えているのだろうか。
けれど、本当に遠い昔に亡くなったこの姫君とエリカ・チェスリーが同じならば、
もしも、そうであったなら全てが少しの綻びもなく綺麗に繋がるのは確かだ。
エリカ・チェスリー。
彼女は――。
夢想と現実。
いったい何を信じればいいのか。
上手く纏まらない思考の中、不安にも似た何かがざわりと胸の奥で蠢くのをアルフレッドは感じて、それを宥めるようにグッと胸元に当てた手を強く握りしめた。




