三八、頼みごと
次の日の朝、私は部屋にやってきた侍女たちを何事もなかったかのように出迎えた。
ここ最近癖になってしまっている強がりは思っていたよりもずっと私の身に馴染んでいたらしい。心より先に、顔が自然と笑顔を作ってくれる。これでいい。マリアたちにもこんな気持ち、知られたくないのだから。
けれど、どんなに笑顔で取り繕っても赤く腫れた目元は誤魔化せなかったようで、部屋に入ってきて私を見たベティーが気遣わしげに眉尻を下げた。
彼女はベッドに腰掛けたままの私と視線を合わせるように私の前で腰を落とし、躊躇うように優しげな瞳を伏せて温かな手で私の手を包みこんだ。
「陛下だって今の状況を決して楽しんでおられるわけではないのです。どうかご理解ください」
そう言った彼女の声音はどこか子どもの代わりに謝罪する母親のような、そんな響きで。
前王妃である陛下のお母さまが実家から連れてきた侍女であるというベティーは、陛下が生まれる前から陛下の傍にいるらしく、だからこそそういう存在でもあるのかもしれない。
これからのことだって、ベティーはもうすでに陛下から聞かされているようだ。
でも、だから尚更私はそのままベティーの言葉を素直に受け入れられない。
陛下が楽しくないわけない。だってそれを陛下は望んだのでしょう?
「分からないわ。理解なんてできない」
「エリカ様……?」
「……なんてね。冗談よ」
ぽつりと、思わず口から零れ落ちた本音をにっこりと笑って誤魔化す。そうやってベッドから立ち上がり、私に向けられたそのいたわしげな視線をやり過ごした。
そして、いつもどおりの時間が流れていく。
ただ、その日からあの宣言どおり、本当に陛下の訪れがなくなっただけ。
変わったのはただそれだけのこと。
それから数日が過ぎたころ、私は王城にやって来てから初めて武官たちの訓練場を訪れた。
肌寒さが際立ち始めた今日この頃にも拘らず、汗を流しながら訓練に励む男たちの姿は、うん、まぁなんというかむさ苦しくて思わず顔を顰めてしまった。
でも、重要な用があってここへやって来た私はこのまま部屋に帰ることは出来ない。
仕方がなくその場で男たちに視線を走らせていると突然、その中から私に声がかけられた。
「お前、こんなところで何やってるんだ?」
驚きの表情を浮かべ焦ったようにこちらに駆け寄って来たオルスにほっとして、私はそんな彼に微笑みかけながら小さく手を振った。
よかった。気が付いてくれて。
流石にこの中からオルスを見つけたところで、男たちが訓練で剣を合わせている中近づくわけにはいかないし、かといって私が大声で呼びかけたところで男たちの掛け声に紛れてしまいそうな気がして、どうやってオルスを呼び出そうか迷っていたから。
「ちゃんと訓練頑張ってる? 副武官長さん」
久しぶりに顔を合わせるオルスに私は挨拶代わりにとりあえずそう訊ねてみる。
「そうじゃなくて、何しに来たんだよ。エリカ」
私の前までやってきたオルスが、少しの困惑を宿した鋭い視線で私を睨み、責めるように問いかけてきた。
けれど私がその問いに答える前に、後ろから興味津々な視線を寄越している他の武官たちに気が付いたようで、そちらの方を一度振り返り気まずそうに顔を歪めた。
別に私としてはそれはどうでもよかったのだけれどオルスにとってはそうではないようで、顎でおそらく訓練場から死角になるのであろう少し離れた場所を私に示してきた。どうやらそこで話そうということらしい。
私はそれに一つ頷いてその場まで付いて行き、こちらを振り返ったオルスと向かい合った。
「で?」そう訊ねてきたオルスは苦々しげな表情で苛立ちを隠そうともしない。
予想していなかったわけではなかったのだけど、どうやらまだオルスの原因不明の不機嫌は治っていないようだ。それだとちょっと都合が悪いのだけれど、そんなことを気にしていてもどうしようもないから、とりあえず私は友好的な笑みを作ってオルスを見上げた。
「あのね、実はあなたにお願いしたいことがあってきたの」
「やなこった」
「あのねぇ!」
あまりの即答に私はつい声を荒げた。オルスは不機嫌そうなまま頭を掻いて私を睨む。
「なんでオレがお前の頼みなんか聞かないといけないんだよ。嫌に決まってるだろ」
「そんなこと言わずに。ねっ! お願い」
指を固く組んで頼み込む私をオルスがジッと見据えた。そしてそのまま落ちる沈黙。これはもしかして言ってみろということなのだろうかと都合よく解釈して、指を組んだまま勢いを付けて今日の目的である依頼を口にする。
「あのね、私あなたに稽古を付けてほしいの!」
「……は?」
言葉そのままの意味なのだけれど、どうやらそれを瞬時に理解できなかったらしいオルスが険しかった顔を崩し、ぽかんと見つめてくる。私は、にこりと笑みオルスの視線を受け止めた。
「だからね、私に剣の扱い方を教えてほしいの。ほら、オルスも知っているとおり私、剣の腕はさっぱりだから」
「なんで側妃サマにそれが必要なんだよ?」
オルスの顔が不審げに歪められる。そんなオルスに、私も浮かべていた笑みをスッと消し去って真剣に答えた。
「……守りたいものがあるの。だから何が起きても生き抜けるだけの力が欲しいの」
これからどんな未来が待っているか分からない。
けれど、もしこれからアブレンとの何かが待っているのならば、私は今度こそ早々と死んでしまうわけにはいかないから。でなければ何も守れない。
本当は、陛下があのひとを選んだ時点で、少しだけ心の奥底の身勝手で醜い心が囁いた。あのひとを選んだ陛下なんて放っておけばいいじゃないかって。勝手になるようになっていればいいんだ。私がわざわざ身を危険にさらす必要はない。私は自分のことだけを考えて、いよいよ危険になったらここから逃げ出せばいいじゃない。ただの側妃だ。わざわざ追っ手を出されることもないだろう。あの夜、そんなことを思わなかったわけじゃない。
だけど、やっぱりそうすることは出来ない。
だって、結局は陛下に何かがあったらやぱっぱり私は平気でいられるわけがないから。絶対に逃げた事を後悔して自分を恨んでしまうことになるのだろうから、だからきっともうどうしようもないのだ。
それに、気がかりもある。
前にマリアが、アブレンは兄上の代になってから特に軍事に力を入れだしたと言っていたけれど、それでもそもそも昔からアブレンはとても強い国だった。周辺諸国から、密かにアブレンに勝る国はないと言われるほどの力は元から備えていた。それなのに父上も兄上も戦を嫌う平和主義者で、私はそれを疑問に思って二人に訊ねたことがある。
『何故、力での行使を厭いながらも剣を、弓を手にするの? 必要のないものではないの?』と。
『力は何も傷つけるものばかりではないのだよ。それで守れるものもあるんだ』
そうおっしゃったのは父上だったけれども、その横で兄上も優しく微笑みながら頷いていた。
アブレンは光に、大地に、水に愛された美しい国で、だからこそ過去、何度もよその国から狙われた歴史がある。故に、誰もアブレンに手を出そうと考えぬよう力を持つことも必要なのだと、そのための力だとおっしゃっていたのに。
何故、兄上はその力を更に強いものとして他の国を滅ぼそうとするの?
やっぱり何かがあったのだとしか思えない。そうじゃなければこんなことになっているはずがない。
陛下と同じくらい、いや、状況が分からない分余計に兄上のことが心配だから、だから私はもしもの場合に備えて出来るだけ中枢に身を置いておかなければならない。もしかしたら兄上の為にだって出来ることがあるかもしれない。
そのためにも、力を。アブレンが攻めてきたときに初っ端からやられてしまうようなことになんかならないように。早死になんて前世だけでもう十分だ。
「お前は一体何と戦う気だよ」
ぎゅっと拳を握りしめていた私を、オルスは探るように眉間に皺を寄せて見ていた。
何と? 何とだろうか?
「私は、私の大切なものを守りたいだけだわ。戦いたいわけじゃない」
兄上と戦うだなんて思いたくない。でも情報がなさ過ぎてそれすらよく分からない。
あれからランベールからの連絡もない。アルフレッドにどうなっているのか訊きたくても、そうすれば陛下と顔を合わせる可能性が高すぎて私は足踏みをしたままだ。
「陛下には?」
「え?」
丁度陛下のことを考えているときに、そんな風に問いかけられて私は驚いてビクッと体を肩を震わせた。けれど、その問いかけの意味が分からずに首を傾げる。そんな私にオルスが苛立たしげな声を上げた。
「陛下の許可は得てるのかって訊いてるんだよ」
「そんなものいるの?」
「当然だろ? 許可もないのに勝手なことしたらアルになんて言われるか。それにオレも暇なわけじゃない。まさか部下たちほっといてお前の相手をするわけにいかないだろ」
「……そう、よね」
確かにそう言われればそうかもしれない。
でも……。
「ああ、そうか。もう陛下は夜エリカのとこに行ってないから訊く機会もないのか。残念だったな、捨てられた側妃サマ?」
意地の悪い声で、オルスがニヤリと笑う。それはとても満足げで、何故か他の誰の噂話を聞いたときよりも私の心が深く深く抉られた。よく考えればこいつがこんな発言をしないはずはなかったのに、なんで身構えることを忘れていたのだろう。
「っ、別にいいじゃない。関係のないあんたにとやかく言われたくないわ」
咄嗟に怒りで隠して取り繕ったけれど、それは一瞬だけ間に合わなくて涙こそ流さなかったものの熱く込みあがってきたもので微かに視界がぼやけた。
そんな私を見ていたオルスは目ざとくもそれに気が付いたのかもしれない。呟くような低くてオルスらしくない小さな声が私に向けられた。
「なぁ、お前オレの忠告聞かなかっただろ?」
「忠告ってなんのこと?」
分かってるけれど、誤魔化すために私はわざとそう訊ね返す。こいつにバレるとなんと言われるかわかったものじゃない。
けれど確信に満ちた目で静かに見つめられて、私は諦めた。
「……バカだって、笑う?」
せめて、大したことがないように見えるよう笑顔を作ろうとしたけれど、それすらも失敗した。
きっと笑われるのだろう。言わんこっちゃないと、嘲るように。鏡くらい見ろよと。
仕方がない。オルスの忠告は正しかったのだ。ちゃんと聞かなかった私が悪いのだから今日くらいは反論せずに甘んじて受け入れてあげよう。
けれど、覚悟を決めた私に向けられたのは深いため息。
「……しかたねぇな」
「え?」
「毎日仕事が終わってからでいいなら稽古、つけてやるよ」
「……でも、いいの?」
予想に反して、私をバカにするでもなくオルスは私の頼みを聞いてくれるという。
あまりに不思議な展開に私が目をぱちぱちと瞬かせているとオルスが偉そうに鼻を鳴らして笑った。
「護身術だけでいいだろ?」
「うん」
「それくらいなら、まぁ問題もないだろ。ただ、まともに剣も持つことも出来ないようなそんな腕じゃいくらオレがわざわざ稽古付けてやったところで効果なさそうだけどな」
「大丈夫。頑張るから。あの、あ、ありがとう」
なんで急に気が変わったのだろう。
でも、良かった。陛下に許可を貰いにはやっぱり行きづらいから。もう少しだけ平気になるまで、陛下の顔は見たくない。
「でもいいか? オレが訓練つけることは誰にも言うなよ」
「何でよ?」
「アルが怖い。余計なことしたのがばれたらなんて言われるか」
知られた時のことを想像してなのか、オルスの顔が引きつっている。
怖いって……、と思いつつ私もアルフレッドの顔を思い浮かべてみた。その顔は、確かにいつもの笑顔なのだけれど、うん、確かに。
「なんだかそれ、私も分かる気がするわ」
きっと、あの人に逆らってはいけない。
本能的に感じていたそれは、オルスの表情からするにどうやら間違いではなかったようだ。
私は警戒心を最大に設定することに決めて、オルスと二人、大きく頷き合った。