三七、崩壊
嘘なんて嫌いだった。
いつだって自分に正直でありたかった。幸せは、自分で掴み取りに行くものだって、そう思っていたのに。
「こんばんは、陛下」
夜、私の部屋を訪れた陛下に私はベッドの淵に腰かけたまま、そう声をかける。
もう幾度も繰り返されてきたこの訪れに、最初の頃こそ恭しかった出迎えはいつの頃からかこんな気軽なものに変わっていた。
「何をしてるんだ?」
挨拶を返してくれることなどなく、彼の口から出てきたのはそんな問いかけ。
「これ?」
ひとつ頷いた陛下の視線は、ベッドの上に広げていた沢山の、絵の描かれた紙に向いていて私はそれを拾い集めて束にし、こちらへやってきた陛下へと差し出した。
「春用のドレスなの。どれも素敵でしょ? この前のパーティーで流行を掴むことも出来たから、それも踏まえて今日来てくれた職人の女性と二人で色々とデザインをしてみたのよ。我ながらなかなか上出来だと思うわ」
「春? たしかまだ冬にもなってなかったと思うんだが」
「ええ。でも、1着作るのにも時間がかかるでしょう? 枚数を多くするなら今から考えだしても早すぎはしないのよ」
「……一体何着作る気だ」
陛下がそこで顔を顰めて、碌に目を通しもしなかった紙の束を私へと返してきた。私はそれを受け取って陛下に笑いかける。
「これ全部」
その言葉に陛下が素早く束の厚みに視線を走らせてさらに表情を険しくした。
紙の枚数はざっと30枚くらい。
全てをドレスにするのならきっと私に割り当てられている年間予算なんか簡単にはみ出してしまうことだろう。
「エリカ」
降ってきた陛下の厳しい声と冷たい視線を受け止めて、私は口元に折った指を当てクスクスと声を立てた。
「冗談よ。5,6着くらい作ってもらえればいいかな。それくらいなら、いいでしょ?」
「……ああ」
私の冗談に騙されたことがどうやら不服な様子でため息を吐き出した陛下は短くそれだけ返事をした。
私は陛下のその了承にやっと、それまでの緊張の糸を緩めてほっと安心することが出来た。
――良かった。
私の心にはそんな想いだけがじわじわと広がって行く。
本当は枚数なんかじゃなかった。私が欲しかったのはドレスを作る許可でもない。本当は、陛下が“春”というその季節を否定しないことを確かめたかっただけ。
内心、無駄だって、必要のないものだと言われてしまうんじゃないかとすごく怯えていたから。
気にしないはずだった。この間、キャロルたちに言ったように、そういうものだと思い込もうとした。
けれど、どんなに宥めても不安は次から次に湧き出てきてこんな回りくどい方法で、私は陛下を試して少しでも安心を得ようとしている。
でも、そのくせに、一番気になっていることにはやっぱり触れられなくて安心はまたすぐに不安へと変わる。
訊いてしまえばいいのに。そうすればすっきりすると分かっているのに。私は不安定に揺れ動く感情に疲れきっていることを自覚しながらも、それでもやっぱり訊くことが出来ない。
もし、噂どおりあの女を妃にすると、お前はもう必要ないと言われてしまったのなら、私はどうしたら良いのだろう。
覚えのある感情が再び頭を擡げる。
寂しくて辛くて、そして苛立たしい。激しくどろどろとしたものが渦を巻く。しっかり閉めたはずの蓋が内側から破れて溢れ出してくる。
『姫様。それはやきもちですわ』
あのとき、兄上が義姉上と結婚されたとき、ティアに古くから仕えていた侍女がこの気持ちの正体を苦笑しながら教えてくれた。
たしかに一時期感じていたあの時の気持ちとよく似ている。
きっと根本的なものは同じなのだろう。けれど、違う。あの時の比ではないくらい怖い。心が焼けてしまいそう。
何故だろう。兄上と陛下は違うのに。兄上はティアにとってたった一人の兄弟で、だからこそ特別甘えられて頼れる存在だった。兄上だって、私のことを大切な妹だと言ってくれた。だからこそ、あのとき、裏切られたようで辛かったのだ。
けれど、陛下は?
別に、仲がいいと言えるほどの間柄じゃないわ。私たちはこうやって毎晩顔を合わせるだけの、それだけの関係。陛下は私に温かい言葉をかけてくれることも笑顔を向けてくれることもない。
だから、私がやきもちをやくような存在でもないし、その権利すらないはずなのに。
そんなふうに考えながら気持ちの中を漂う霧をかき分けて彷徨った。
そして次第にぼんやりと見えてくる想い。
陛下を好きだという想い。
なんてバカなんだろう。オルスにもあれだけ『傷つくだけだからやめておけ』と忠告されておきながら、知らないうちに陛下は特別になっていた。
この想いに気が付いてしまえば、今まで不思議に思っていたことがすべて簡単に理解できた。分かりにくい優しさに触れて嬉しかった。陛下の傍を居心地良く感じながら、その反面近くに行きすぎるとドキドキと鼓動ばかりがうるさくなって何も考えられなくなって。でも傍に行きたくて堪らなかった。それは全てきっとこの想いのせい。
私の気づかぬうちに、いつの間にか育っていた。
けれど、気が付いたところでそれはますます苦しみに代わるだけ。
この気持ちを陛下に伝えることが出来ないのは、なにも分が悪いからという理由だけではない。
ここを追い出されるわけにはいかないからだ。
最初に陛下は言っていた。愛なんか求めるな、と。きっと今でも陛下はそう思っている。
それなら今、それを口に出してしまうとどうなるだろう?
報われないだけじゃない。面倒くさがられて私はここを追い出されてしまうかもしれない。
そうなると、もしアブレンとレストアの間に何かがあった時に私は何もできなくなる。守りたいものが守れない。陛下を守ることが出来ない。
そうなるわけにはいかないから、私はそれを絶対に口に出してはいけない。
けれど私は、このまま陛下と噂の女が寄り添う姿を見ることになるのだろうか。そんなの嫌だ。考えるだけでこんなにも心が辛くて痛い。
私はどうしたらよいのだろう?
なにも知らずにいたかった。何も知らずに、ずっと陛下の傍にいたかった。きっと、その方が幸せだった。もうこれ以上何も知りたくない。決定的な言葉なんか聞きたくない。
だから私はさっさとベッドへと潜り込む。「じゃあ、おやすみなさい」とそれだけを言って。
何かを言われてしまう前に私はさっさと逃げてしまう。
逃げて済む問題ではないと分かってはいたけれど、この時の私にとってそうすることが唯一、弱りきった心を守るための術だった。
「エリカ、頼みがあるんだ」
そう切り出されたのはそれから数日が経った頃。
私はその言葉に、瞬時に嫌なものを感じ取って逃げることを決める。
「……私、今すごく眠いの。明日でいい?」
そんなこと引き延ばしてなんになるというのだろう。そう思う自分もいるけれど、とにかくまだ聞きたくなくてそう切り返して、私はベッドに入るために陛下に背を向けた。
背後から、陛下のため息が聞こえてくる。
「また寝たふりか」
布団に手を伸ばしたところで聞こえたその心当たりのある言葉に私はびくりと肩を跳ねあがらせた。
なんで?
「最近毎日だろ。気づいてないと思ってたか」
思ってた。
確かに、毎晩、何も聞かないでいいようにさっさとベッドに入るのはいいけれど、実際のところあまり眠れなくてずっと寝たふりをしていた。それでも気づかれないようにしていたのになんでわかったのだろう?
でも、それは今はどうでもいいことで私は、今逃げ出すことを優先させる。
「……でも、今日は本当に眠たいの。だからもう寝るの!」
そう宣言して私は今度こそ布団に頭までもぐりこんだ。けれど陛下が去って行く気配はなくて、その代り少し厳しい声音の命令が聞こえてくる。
「10秒で終わるから聞け」
「嫌っ」
「エリカ?」
ハッキリと拒絶の言葉を口にしたのがやはり不味かったのだろう。陛下が不審げに私の名を呼んだ。
けれどそれだけで、肝心の私の訴えは結局聞き入れてくれなかった。
「近いうちにシーラが、エヴァンズの養女が城に出入りしだすと思う。その時はエリカ、お前は絶対にシーラと関わるな。それからしばらく俺はここには来ないからもう待たずに寝てろ。お前が眠るまで侍女の誰かがそばに居るようにはしておくから」
――あ。
本当に10秒とかからず、それだけ静かに告げた陛下が今度こそベッドから離れて行く気配がした。
陛下のその言葉に、ガラガラと音を立てて私の心が崩れていく。
それは、つまり噂どおりあの女が選ばれたということ。
私はむくりと身を起こしてソファへと向かう陛下の後姿をぼんやりと見つめた。
「聞きたくないって言ったのに、なんで勝手に聞かせるの?」
その背中を見ていると、無意識に責めるようにそう口にしていた。ふるふると、体にかかったままの布団を握りしめる手が震える。
陛下が、驚いたように振り返った。
「そんなに同じ顔が重要なの? ……でもね、違うのよ。重要なのは顔じゃなくて魂だわ。顔も体もただの入れ物に過ぎないの。貴方にはそれくらいのことちゃんとわかっていてほしかった」
もう陛下の顔を見ているのも辛くて、それだけ言い捨てて私はもう一度布団を被る。
「エリカ?」
陛下の困惑したような呼び声が聞こえてきたけれど、今度は目を固く閉じてそれを無視した。
陛下には特別な美しさをもたない私の、ただの負け惜しみに聞こえたかもしれない。けれど、私はきっと誰よりも知っているから。何より大切なのは魂だって。私がまだティアであるように。どんなにティアと姿形がそっくりな人間がいたとしてもそれはティアではない。ティアは私だけ。それは陛下が愛したアリス様にも言えるはずだ。
なんで陛下はそんな簡単なことが分からなかったのだろうか。それでもいいと思うほどにどうしようもないほどアリス様に囚われているのだろうか。
初めから敗北は決まっていたのだ。勝手に好きになってしまった私が悪い。
そうは分かっていても、涙が次から次へと溢れ出る。なんでと、この想いを陛下にぶつけてしまいたくなる。よく知りもしないあの女のことを罵って、少しでも私を見てと訴えたくなる。
伝えることも出来ないこんな感情なんて要らなかったのになんでこうなってしまったのだろう。
こんな恋なんて知りたくなかった。
そんな今更過ぎることを思いながら、私は決して布団の外に嗚咽が漏れないようにぐっと唇を噛み締めた。




