三六、噂
午後のお茶の時間。
部屋の窓際に置かれた丸テーブルの前に腰かけた私は、微笑みを浮かべながら静かにマリアが入れてくれた美味しい紅茶を口に含む。少しの渋みと、ふわりと鼻をくすぐる甘い香り。
マリアの腕は然ることながら、さすが最高級茶葉を使っているだけはある上品さ。
私は、ほぅと小さく一息ついてカップをソーサーに戻し今度は隣に並べられたお皿へと手を伸ばした。そこにはたっぷりのクリームと瑞々しいフルーツがふんだんにあしらわれた美味しそうなケーキ。今、城下の方で話題になっているお店のものらしいそれは見た目だけで私の心をときめかせる。
どこにフォークを刺せばいいのかしら? いずれ全てが私の胃袋の中に収められることはもう決定事項なのに、この美しい姿を崩してしまうことになんだか罪悪感を感じてしまう。
けれど、そんなこと言ってられない。いつまでたっても食べられないのもそれはそれですっごく嫌だ。だから仕方がない。私は意を決してケーキにぷすりとフォークを差し入れた。そしてそのまま一口分掬い上げてしとやかに開いた口へと運ぶ。
そこまでは良かった。私はきっとその評判になるほどの美味しさを堪能するはずだったのに。それなのに!!
「ほんと、エリカ様ってばなんてお可哀そうな方なのかしら」
「こんなにあっけなく陛下に捨てられてしまわれるだなんて」
「わたくしならきっと耐えられませんわ」
私がケーキを口に入れたその瞬間ごく近くから聞こえてきた、わざとらしくさめざめと泣いてみせる三人の声が私の顔の筋肉をピシリと引きつらせた。
けれど彼女たちはそんな私の反応を確認した後、さらに追い打ちをかけるように勝手に話を続ける。
「まぁ、大変! エリカ様、お顔が強張っていらっしゃるわ。必死に強がってらっしゃるのね。なんてお労しいのかしら。でも、安心なさって。わたくしたちはエリカ様の味方でしてよ」
「そうですわ。今は陛下の寵が薄れてしまってお辛いでしょうけれど、大丈夫、きっと時が癒してくれますわ」
「あんまりお嘆きにならないで。エリカ様ならきっと良い再婚相手に巡り合えますわよ」
そんな見当違いな励ましの台詞を吐く彼女たちは、台詞の内容とは裏腹に私を小馬鹿にしきっているのが丸わかりなほど、その瞳が面白そうに笑っている。
あぁ、もう!!
もう嫌だ。私はそこでついに我慢が効かなくなって、椅子から勢いよく立ち上がり、口から引き抜いたフォークをそのまま、同じテーブルを囲う彼女たちにビシッと向けた。
行儀が悪い? そんなの構うものですか!
「ちょっと! キャロル、セシリー、フローラ! ごちゃごちゃごちゃごちゃ目の前でうるさいわよ! 折角のケーキが美味しく食べられないじゃない!」
幸せな時間のはずだったのに変な水を差されてしまっては味も何もあったものじゃない。
そんな思いを込めた怒鳴り声が、私の部屋に響く。
ぜえぜえと息をしていると私の斜め後ろに立つマリアが「エリカ様、落ち着かれてください」と私を宥めに入った。
けれど、キャロルたちは私が怒り出すことなんか計算済みだったように、落ち着き払った様子でそれぞれ目の前に置かれた、マリアが入れてくれた紅茶を手に取り、優雅なしぐさでそれを口に運ぶ。そして、もう一度視線を上げたキャロルは私の怒りなど何も気に掛けていない様子でにっこりと私に微笑みかけてきた。
「けれど、そもそもそのケーキはわたくしたちの手土産でしてよ? エリカ様」
「そう言う問題じゃないわ!! 大体あなたたち何しに来たのよ? まさかわざわざ嫌味を言うためじゃないでしょうね?」
「まぁそれもありますけれど、わたくしたち本当にエリカ様を心配して参りましたのよ。エリカ様のことはハッキリ申し上げて気に食わないのですけれど、一応オードラン公爵さまにも頼まれてしまった手前、仕方ありませんわ。顔くらいは見に来て差し上げようと思いまして」
「それは、どうも御親切に」
ランベールめ。余計なことを。いったいなんのお節介よ?
私は溜息をついて、足の力を抜きもう一度ストンと椅子に腰かける。
「でも意外とお元気そうで安心いたしましたわ」
「まぁね。第一、私は陛下に捨てられた覚えはないし」
「あら? まだでしたの?」
「どういう意味よ?」
「だって、随分と噂になっておりますのよ? 陛下がエヴァンズ侯爵の養女様を妃に迎えるらしい、と。それともその噂は嘘なんですの?」
「……知らないわよ。そんなの」
疑わしげにこちらを見ながら、けれど慎重に問いかけてきたキャロルに私はそれだけ答えると、なんだか一気に疲れが押し寄せてきてしまって、さっきまであんなに輝いて見えたケーキもなんだか色あせて食べる気も起らない。私は握りしめたままだったフォークをお皿の上に戻し、テーブルに肘をついた手で軽く額を支えた。
たしかに、そういう噂が建国記念パーティーからここ数日、城中でも密かに囁かれているのを私も知っている。私付きの侍女であるマリアたちは何も言わないけれど、他の城中で働く者たちが話しているのを聞いてしまったから。
エヴァンズ侯爵の養女、あの花祭りで踊り子をしていた女がずっと空席だった妃の座に納まるんじゃないかって。私と同じ庶民の出だけどエヴァンズ侯爵家という後ろ盾があって、そして、
「まぁ、まだただの噂なのだとしても、相手が悪すぎますわ。わたくしのお姉さまも大層驚いておられましたもの。まるでアリス様そのものだって。まさか亡くなられたっていうのは嘘で本当は生きておられたのかしらって。それくらいそっくりなのですって。そんな女性に陛下が何も感じないはずありませんわ」
私が盗み聞いた話とそう変わらぬことを言いながらキャロルは艶やかに波打つ髪と同じ茶色の瞳を伏せた。
『アリス』と、あの時オルスも彼女を見てそうつぶやいていた。陛下と同じく幼馴染であったはずのオルスさえも見紛うほどなのだ。本当によく似ているのだろう。初めて、あの花祭りの時に彼女を見た陛下のとても驚いたような表情も今ならそういうことだったのかと納得できる。
同じ顔……。
とても綺麗な人だった。確かにあんな人が婚約者だったのなら、亡くなってしまったからって簡単に他の女性へ、とはいけないかもしれない。
でも、それでも……。
「でも」
セシリーの不思議そうな声が聞こえて私はハッと思考の淵から現実世界へと引き戻された。
「でも、本当にエリカ様はなにもご存じないのですか? 陛下から噂についての詳しい説明は」
そんな風に問いかけられて、私はふるふるとゆるく頭を振る。
「そんなもの何もないわ。陛下は何も言わないもの」
「お訊ねには?」
「……訊いてもいないわ」
「エリカ様は気にはなりませんの?」
セシリーが理解が出来ないというように、眉間のしわを深くして首を傾げた。
「なんで私が?」
「何故って、エリカ様は側妃さまでしょう? 気になるものではないのですか?」
「……別に。だって、そういうものでしょう?」
セシリーたち三人とマリアがなんだか異様なものでも見るような目を私に向けてくる。
私はそんな四人の視線を浴びながらすっかり冷めてしまった残りの紅茶に口を付けた。
気になんてならないわ。元から私は本物の側妃なんかじゃないんだから。それに、それを抜きにしたとしてもティアに仕えていた侍女が言っていたもの。『母上様は特別だったのです』って。『世間一般では王が多数の女性を囲うことなど普通なのです』って。そして、姫様がどこかの王族に嫁ぐことになるのならアブレンのためにも末永く寵を得られるよう立派な淑女に~といったお小言に続いていくわけなんだけど、まぁつまりそういうことだ。
きっと、この状況はそんなに騒ぐほどのことではない。同じ王城に他の女性が居るっていうのは当たり前のようなことなんだわ。今までの、偽物の側妃一人といった状況の方がよっぽど問題だったのだ。もしも私をここから追い出す気っていうのなら話は別だけど、そういった言葉もないのなら、このままここに居ていいと言うのなら、これは私が口出すべきことではない。
だから、私は何も知らないふりをする。どうせ、陛下がこういう話題を好まないのなんてわかりきっていることだし。私にこの生活を保障してくれるのならば陛下の好きなようにすればいい。
そんな私の態度にキャロルとセシリー、フローラは顔を見合わせ、そして今度は傍らに立つマリアの方へと視線を向けた。
「マリア様は何か詳しいことをご存知ではありませんの?」
「わたくし、……ですか?」
「ええ」
突然のフローラの問いかけにマリアが戸惑ったように彼女へと視線を向けた。
「いえ、わたくしもなにも」
「あら。でもあなた、いろいろと情報を教えていただくことが出来るのではなくて? 愛しのア」
「フローラ様!!」
突然の、マリアの焦ったように張り上げられた声に、話を聞きながら“もう、そんな話は余所でやってくれればいいのに”とぼんやり思っていた私は吃驚してマリアたちの方を見た。
「約束でしたわよね? それ以上のことをここで仰るようなら出て行っていただきますわよ?」
「……ご、めんなさい。つい」
「約束って、なあに?」
なんだか威圧感たっぷりの黒い笑顔をフローラに向けるマリアの、心当たりのない言葉に私は首を傾げた。
約束ってなんのことだろう? 彼女たちをこの部屋に取り次ぐときにマリアとキャロルたちは何か話していたけれど、その時に何かあったのだろうか?
「なんでもありませんわ。ねぇ。フローラ様?」
「え、ええ」
にっこり笑顔のマリアとは逆に、なにやら引きつっているフローラはなんだか不自然で、どうも怪しい。いつもなら食い下がって本当のことを聞き出すところなんだけれど、でもなんだか今はそんな気分じゃなくて、まぁいいか、とそれを聞き流すことにした。
「それはそうと、エヴァンズ侯爵様は失墜したも同然でしたのに、上手いことやりましたわよね。こうなるならばエリカ様の方がまだよかったと、わたくしのお父様が嘆いておられましたわ」
キャロルが気を取り直すようにそんな事を話し出す。キャロルの父親といったら私を殺しかけたあのベネット伯爵のはずだ。あんな悪趣味なことしておいて私の方がましだったなんて随分と調子がよろしいこと。
「ベネット伯爵とエヴァンズ侯爵は仲が悪いの?」
別に興味はないけれどそんなことを訊ねてみればキャロルが難しい顔で「そういうわけではないのですけれど」と一度うーんと唸ってみせる。
「わたくしも詳しくは存じ上げませんけれど、お父様はまたエヴァンズ侯爵が力を持つのが怖いのではないかしら。もともとエヴァンズ侯爵は、先代の国王様の時代、宰相を勤められていてとても権力を持っておられたようですし」
「そうなの?」
それは知らなかった。
「ええ。だからこそ、アリス様を早々と妃の筆頭候補とすることが出来たのです。彼に逆らえる人間なんてそういませんでしたから」
「でも……」
「はい。今はそうではありません。先代の国王様が亡くなられ、陛下とアリス様の結婚が正式に決まった時点で、陛下が宰相から降ろしてしまわれましたから」
「それならわたくしも知っていますわ。当時、エヴァンズ侯爵やエヴァンズ派と呼ばれた貴族の方たちが相当反発されたのですよね? まだ年若く経験も少ないアル様には荷が重いとおっしゃって。それを陛下とオードラン公爵さまが押し切られたのでしょう?」
「そうですわ」
マリアの言葉にキャロルが大きく頷いた。
「でも何のために?」
私は二人にそう訊ねた。
何故そこまでする必要があったのだろうか? どのタイミングで結婚が決まったのかは知らないけれど、前に買った情報によれば、陛下の即位からアリス様が亡くなるまでそう時間は空いていないはずだ。その短い間に宰相を降ろしてしまうというのは危険なのではないだろうか? 不慣れな王のそばにはそれを支えるに相応しい経験豊富な宰相のほうが良いに決まっている。それなのに、わざわざ何でエヴァンズ侯爵を降ろしたりなんかしたのだろうか?
そんな私の問いかけにキャロルは少し考えるように顎に手を添えて、一言一言を選ぶようにしてその答えを語りだす。
「力を持ちすぎると危険だから、ではないでしょうか? エヴァンズ侯爵を宰相としたまま、アリス様を王妃として、そしてその子どもが王太子・後に国王となれば王家そのものがエヴァンズ侯爵家に乗っ取られるようなものでしょう? おそらくそれを恐れられたのです」
「でも、アリス様は亡くなられたんでしょう?」
「ええ、でも陛下はエヴァンズ侯爵様を元の地位に戻すことはなさいませんでしたし、ここだけの話、陛下がアリス様を亡き者にされたのではないかと当時噂もされたのです。それほどまでに力を削ぎたかったのだと」
「え?」
それは、どういうことだろう? 思わず私が固まってしまうと、キャロルは一度小さくクスリと安心させるように口元に笑みを浮かべた。
「勿論、ただの噂ですわ。アリス様がこの王城内で亡くなられたものですから、そんな不届きな噂をする者がいたというだけの話です。そもそも、あの父親のことを抜きにすれば、とても仲睦まじいお二人だったそうですし、そんなことあるはずがありませんわ」
「そう、ね」
その後キャロルが、その後エヴァンズ侯爵はアリス様が亡くなったショックで長いこと領地に籠っていたとかそういう話をしていたけれど、私はなんだか頭がぼんやりとしてしまってあまり話の内容が入ってこなかった。
ただ、キャロルの『とても仲睦まじいお二人だった』というその台詞と、見たこともないくせに陛下とアリス様が寄り添う姿ばかりがぐるぐると頭に浮かんできて、どうしてか胸が押しつぶされそうなくらい苦しくて。
だから、私はやっぱり何も知らないふりで痛みにも、苦しみにも、どろどろと溢れ出しそうなこの感情にも全てのものに蓋をして、なんともないふりをして見せた。
そうしないと、何かが崩れてしまいそうだったから。




