三二、再会
「君は、またなんとも懐かしい呼び方をするんだね」
窓枠に預けていた体を起こしながら、ランベールが不思議そうな視線を私に向けてきた。
“ランベール王子”
思わず、口にしてしまったその呼び名。
驚きに囚われていたのか、もしくは動揺していたのか、私には瞬時に、ランベールが懐かしいと言ったその理由が分からなくて、彼を見つめたまま何度か瞳を瞬かせた。
まるで思い当らないといった風の私にランベールは海色の瞳を微かに細める。それはアルフレッドと同じ色。
クスリという笑い声がランベールから漏れる。
「確かにかつてはそう呼ばれていたこともあったけれど……、ただ、今はもう臣下に下っているし、それに王子っていう歳でもないからね。僕のことはランベールだけでいいかな」
あ。
その言葉に、浮かんだアルフレッドの姿に、確かに流れた年月を想った。私ほどではない。けれどランベールだってあの頃と全く同じなわけではないのだ。
「失礼しました」
慌てて謝罪のため頭を下げようとするとランベールはにこりと笑みを浮かべ片手を掲げて私の動きを制す。
「構わないよ。別に謝るほどのことじゃない。改めて初めまして、ジェルベの側妃さん。ランベール・オードランです」
ランベールがスッとこちらに歩み寄り、素早く取った私の手の甲に軽い口づけを落とした。
姿と立場は少しだけ変わってしまった。けれども、こんな気障なところは変わらないランベールについ笑みが零れそうになる。昔感じたような不快感よりも懐かしさによる嬉しさの方が勝っているのだろう。
私は手を引いてドレスの裾を摘み、軽く腰を落として礼の形をとった。
「初めまして。エリカ・チェスリーと申します。オードラン公爵様」
本当は、私にとっては“初めまして”ではないけれど。それを知っているのは私だけ。そのことが可笑しくて、少し寂しい。
「おや、ランベールと呼んでくれた方が僕としては嬉しいんだけどね」
ランベールは大げさに首を振り、残念そうに笑う。
その姿を見て、そういえば、と不意に思い出した。ランベールは確か兄上と親しくしていたんじゃなかっただろうか。
外交の為だったのか、何度かやってきたアブレンでよく兄上と談笑している姿を見た気がする。そしてランベールを軽視する私とは正反対に兄上は何故だか彼を高く評価していた。
『彼を甘く見ない方がいい。軽く見えるけれどその実、何を考えているか。なかなか喰えない男だよ』
そう語った兄上は警戒すると言うよりも、むしろ楽しそうで、思いの外ランベールのことを気に入っているみたいだった。私はそれがとても気に食わなかったけれど。
そんなランベールだ。もしかしたらアブレンに、兄上に何があったのかこの男なら詳しく知っているかもしれない。
このひと月、ずっと考えていた。本当にアブレンがこのレストアに攻め込んでくるというのなら、私はただそれを待っているだけでいいのだろうか。今の私はエリカで、もうティアではないしアブレンとは何の関係もない人間だけれど、それでも何か出来ることはないのだろうか、と。
その鍵をもしランベールが握っているのだとしたら。
マリアの強張った顔を思い出す。この国で、もしかするとアブレンの話をすべきではないのかもしれない。訊かない方がいいのかもしれない。それでも、やっぱり私は、出来る限りのことをしたいと思う。
私は意を決してランベールを見つめ、口を開いた。
「あの、」
「オードラン公爵さま」
けれど突然、私の声に被さるように、後方から声がして、私は驚いてそちらの方を振り返った。
すると声の主、ランベールの登場によってすっかり存在を忘れ去っていたキャロルが、意を決したように私とランベールの間に割り込んでくる。
完全に出遅れた形となってしまった私はそのまま口を噤んだ。
「おや、どうしたんだい?」
ランベールの前に躍り出たのはいいものの、言葉を途切らせ、落ち着かなげに視線を彷徨わせるキャロルにランベールは微笑みながら視線を向けて先を促す。
「わたくしたち、決してマリア様のことを悪く言いたかったわけじゃなくて」
キャロルが不安気に俯いた。
ランベールがお気に入りだと言ったマリア。そんなマリアを悪く言っていたのを聞かれたことによってランベールの不況を買ってしまったのではないかと不安だ、とでもいったところだろうか。
まったく、あれが悪く言ってないならなんだっていうのよ?
私はあまりにも自分の発言に責任を持たない彼女に腹が立ってキッと睨みつけたけれど、キャロルが視線を向ける先のランベールは彼女にニコリと甘く優しげな微笑みを向けている。
「うん。勿論わかっているよ。君たちのような可憐な女性たちに人の悪口なんて似合わないからね」
「そ、そうですわ。ただわたくしたちはエリカ様のためを思って」
「優しいね。けれども心配はいらないはずだよ。ちょっと目に余るところもあるのかもしれないけどね、マリアはとてもいい子だ」
「それなら安心しましたわ。ね?」
「ええ」
「本当に」
違う意味で心底ホッとしたようなキャロルに、セシリーとフローラも同じく安心したように頷く。
そんな彼女たちにランベールは大きくうんうんと頷いてさぁと一度手を叩いた。
「折角のパーティーだ。どうだい? これから僕と一緒に中へ戻って楽しまないかい?」
「是非!」
三人の女たちはキャーキャーと色めき立つ。腐っても元王子といったところか。
そんな彼女たちに囲まれてランベールはとても嬉しそうだ。あんた自分の歳、考えなさいよ! 若い女を侍らせてほんっと相変わらずというか昔より更に最低さに拍車がかかったような気さえする。
私がそんなランベールの姿に苛立っていると、彼は私の視線に気が付いて小さく首を傾げた。
「そんなに熱っぽい瞳で見つめられるのはとても嬉しいんだけど、すまないね。僕には一応妻子があるし、君はジェルベの側妃だ。禁断の愛というのも燃えそうだけれど、ね」
三人に腕を引かれながらランベールは私に向けて茶目っ気にウインクをしてくる。
いや、なんでそうなるの? 私がいつあんたのこと好きって言ったのよ? 訳の分からない言葉たちに、私の背筋にゾワリとしたものが駆け降りた。
あぁ、やっぱりこの男は嫌いだ。さっきまで、少しでもこの再会を嬉しいと思っていた私がどうかしていた。
ふるふると握った拳の震えを必死に堪えている私は、思いっきり楽しそうにしているランベールから視線を逸らした。もう勝手な勘違いをされたくない。さっさとどっかに行ってしまえ!
そう念じながらそのまま彼らの気配がなくなるまで堪えて待とうと心に決めたとき、その場の空気が急に変わった。
それまで明るい声を上げていたキャロルたちがしんと静まり返る。
どうかしたのだろうか?
そう思ってそっぽを向いていた視線を巡らせたのと、澄ましたランベールの声が聞こえたのは同時だった。
「やぁ、ジェルベじゃないか。どうしたんだい?」
「別に。それを引き取りに来ただけだ」
げ。
見ると陛下が厳しい顔で私を見据え、こちらへゆっくりと近づいてくる。
物じゃないのに。“それ”と私を呼ぶその声はとても冷たい。
陛下が私の傍までやって来て目の前で立ち止まった。けれど、そのまま何も言ってはくれなくて、逆にそれが無言の叱責となってじりじりと私を苛む。私はそんな陛下と対峙することは早々と諦めてとりあえず弁明することにした。
「約束をね、忘れてたわけじゃないのよ。仕方がなかったの。決して私はここに進んで来たわけじゃ……」
はぁーと呆れたような、うんざりしたようなため息を陛下が吐き出す。
違うのに。確かにうっかり連れてこられた私も悪いけれど、望んだわけではなかったのに。
何でだろう? 陛下の冷たい視線に、ため息に、なんだか焦りのような、心細さのような不安がこみあげてきて、私は途中で弁明することを止めて視線を地に落として口を閉ざした。
あれだけ、何度も何度も言われていたのだ。どんな形であれ、まだ何も陛下には迷惑をかけていないような気がするとはいえ、結局約束を破った私が悪い。
「ごめんなさい」
しんと静まり返る中、俯いたままぽつりと吐き出したその言葉がやけに辺りに響いた。
「そうじゃない。何もなかったならそれでいい。中に戻るぞ」
え? と、頭上からかけられた言葉に顔を上げたと同時にその言葉の意味を理解できないまま、私の腕は引っ張られていく。
なんだか今日はこういうのばっかりだ。混乱する頭の片隅でそんな事を考える。
「こら、ジェルベ。女性というのはもう少し丁寧に扱うものだよ」
すれ違いざまにランベールが陛下に声をかけた。
「手間をかけたな」
視線をそちらに向け、そう声をかけた陛下にランベールが笑みを深くして応える。それを見ていた私は一人首を傾げた。手間とはいったいなんのことだろうか?
この人はただキャロルたちと楽しそうにしていただけのような気がするけれど。
まさか。
いつのまにかこの場が丸く収まっていたことに気付く。表面上だけかもしれないけれど、ランベールが現れる直前までキャロルたちが私に向けていた苛立ちのようなものは、もう欠片も感じられない。
ふと、ランベールが私の視線に気が付いたようにこちらに微笑みを向けた。
「姫」
――え?
言語は違うけれど、あの頃と同じ敬称で呼ばれて私はつい足を止めた。
「何か話したいことがあったみたいだね。今度、時間を作るからゆっくりとお茶でもして語り合うとしよう」
「……はい」
何故、そのことに気が付いたのだろう? てっきりキャロルたちを口説き落とすのに夢中だと思っていたのに。
この男は……。
「ならばわたくしたちともお茶を」キャロルたちに囲まれて再び嬉しそうに笑っているランベールを呆然と見つめながら、ざわつく胸を抑える。
『なかなか喰えない男だよ』
兄上のその言葉が、そのときやけに大きく頭に響いた。




