三十、覚悟
「やはり、こうなるんですね」
マリアに引き込まれた、普段は備品庫として使われている小部屋。その片隅に置かれた椅子に誘われるまま腰を降ろしたアルフレッドは諦めのため息を吐き出しつつ身を委ねるように瞳を伏せた。
「勿論ですわ」
満足気なマリアの声と共に、くしゃりという小さな音が耳元に響く。
それは彼女がその白く細い指を、せっかく整えていたこげ茶の髪に差し入れた音。そのまま、マリアの指先が撫でまわすようにゆっくりと動きだす。
『アル兄様は、マリアのものになると決まっておりますの。だからパーティーに出席されるときは、他の女性たちの目にとまってしまわぬようにしておくのです』
マリアがそんな訳のわからない持論を振りかざし、初めて髪の毛を乱しにやって来たのは、彼女がまだ城勤めを始めたばかりの12歳の時。
最初は、子どもの身勝手な独占欲ゆえの悪戯だと思っていた。まぁ、いい。髪などすぐに元に戻せる。気に食わないが今だけ、少しの間だけ受け入れていればいい。
そんな風に軽く考えていた。今思い返すとマリアのことを甘く見すぎていたとしか言いようがない。
彼女はそれ以来、アルフレッドがパーティーへ出席せねばならない日には必ず姿を現して、こうやってアルフレッドの頭をぼさぼさ頭へと変えていく。どんなにマリアを追い払って元に戻しても、そのたびに再び彼女はやって来てまた乱し、毎回毎回それを繰り返した。柄にもなく怒鳴りそうになりながらも、そうこうしているうちにいつの間にか諦めたのはアルフレッドの方で。
あれから6年たつ今となっては、もう感覚が麻痺してしまったのか、特に抵抗しようとも思わないし、乱された髪を戻そうとも思わなくなった。
これはこれでどうかとも思うが、それでも抵抗することをやめてしまえば頭をくすぐるこの手の感触は心地よくないこともない。
しばらくの間じっとしていると、「できましたわ」と頭上から声が聞こえてきて、アルフレッドは目を開けた。そのまま椅子から立ち上がりって一歩横にずれ、壁にもたれかかって腕を組む。
「まったく。今日はよその国から客人も来るというのに」
どうせ効き目がないと分かっていながらもとりあえず苦情を言うと、案の定、「まぁいいではありませんか」とくすくすマリアが笑って、アルフレッドは脱力感に肩を落とした。
少しはこちらの身にもなって欲しいものだ。
「それにしても、今日の建国記念式典にはわたくしも参加したかったですわ。アル様にエスコートして頂きたかったのは勿論のこと、エリカ様のことも心配ですし。本当に大丈夫でしょうか」
はぁ、とマリアが落ち込んだようにため息を吐き出す。
「今まで敵を作りすぎてきたあなたが悪いんでしょう?」
ため息をつきたいのはこちらの方だとアルフレッドは頭を抱えた。一応伯爵令嬢でもあるマリアも本来なら式典に参加する資格はあるし、一緒に参加してエリカ・チェスリーの見張りをしてもらったほうが自然な上に楽なのに今回はそれが叶わない。それもこれも、すべて今までのマリアの行いのせいだ。
侍女としての仕事は何も不足なく一生懸命していると侍女長たちからも評価されるマリアだが、その反面、同年代の令嬢たちからの評判はすこぶる悪い。
「だって、あの方たちがアル様を取ろうとするから」
「マリア、その“あの方たち”は私の記憶が正しければ当時私が付き合っていた女性たちやその取り巻きだったと思うんですが」
「あら。わたくしそんな言葉、聞きたくありませんわ」
マリアが拗ねたように頬を膨らませて耳を塞いだ。その言葉もしぐさも、小柄で童顔なマリアに似合わないとは言わないが、そもそもその内容はおかしい。取ろうとするも何も未だかつて、1度たりともアルフレッドはマリアのものになった覚えはない。それにも拘わらず、マリアは堂々と間に割り込んできて相手の女にわざわざ喧嘩を売っていたのだ。その時のことを思い出してなんだか頭が痛くなってきた。
「大体、アル様はちっとも相手の方に夢中ではなかったくせに。わたくしの目はごまかせませんのよ? それにあの方たちもあれくらいでなんですか? ちょっと嫌味を言って差し上げただけじゃありませんか。本当にアル様をお好きなら何故それだけのことでいちいち騒ぎ立てた上に、アル様から手をお離しになるの? ずっと有利な位置にいたのはあの方たちの方ではありませんか。あんな方たちなんか出直して来られるといいんですっ!」
毎回、その騒ぎ立てていたという彼女たちの相手をしなければならなかったのは勿論アルフレッドで、そのたびに迷惑をかけたにも関わらず、まるで開き直っているとしか思えないびしりとした態度で言い放つマリアにアルフレッドは深々とため息を吐きだす。そうだ。今は忙しいからというよりも、本当はこれがあったからもう気まぐれで誰かと付き合おうなどと思えなくなったのだった。
そう考えるとなんだかマリアの思惑通りに進んでいる気がして、それが気に食わなくて、ならばと質問を投げかける。
「つまり、もし私にその夢中になる相手とやらができたらそのときは、もう邪魔はしないでくれるんだね?」
「勿論、引き際はわきまえておりますわ」
「……そう」
ハッキリと断言したマリアにそういう心づもりも一応あったのか、と少し驚いた。ずっと、いつまでも付きまとうつもりなのだと思っていたから。それなら、マリアの方こそ諦められるものだというのなら、いつまでも自分を振り回したりせずにさっさとそうしてくれればいいのに。まったく、頭痛も相俟って苛々してくる。
けれど、
「でも、そろそろなし崩しに堕ちてくださってもいいと思うんですけどね。おかしいですわ」
わざとらしく頬に手を添えてやれやれと言うマリアに「そんなことになるはずないでしょう」と返すと、くすくす笑いながらも「あら、相変わらず釣れないんですのね」とすぐ伏せられてしまった大きな緑の瞳がその直前、少しだけ哀しげに揺れたのが見えて、その時まるで溜飲が下がったような感じがした。
「でも、まぁ確かに自業自得、ですわね。エリカ様に警戒心を抱かせるわけにはいきませんし。残念ですけど今回は諦めますわ」
マリアが小さく溜息を吐き出す。
今日の式典にはマリアに良い感情を抱いていない人間も勿論出席する。そこでなんらかの騒ぎを起こされるわけにはいかないし、何より、その際に彼女たちが余計なことを言って、マリアとアルフレッドの繋がりをエリカ・チェスリーに気付かれるようなことになってはいけないのだ。マリアが情報を流している可能性を匂わせてはいけない。監視をする上ではただの侍女というだけで充分なのだから。
「それで、エリカ・チェスリーはあれからどうしてます?」
『エリカ様の様子がおかしくなってしまって……』
そんな報告をもってマリアがやってきたのはもう随分と前のことだが忙しすぎてその件はマリアとジェルベの方に全て任せていたのだ。けれど毎日顔を合わせるジェルベに訊ねても「よく分からない」とそれだけでちっとも状況が見えてこなかった。
「エリカ様ならもうすっかりいつも通りですわ。様子がおかしかったのはあの、今日の式典にアブレンの国王様がいらっしゃるのかを問われた日だけで」
「……何か言ってなかった?」
「何も。訊ねても何も聞かせてはいただけなくて、ただ『今の私に出来ることは何か考えるの』とそれだけ」
「……出来ること、ですか」
それは何を意味しているのか。どんな目的を秘めているのだろうか。それを何としてでも掴まなければならない。
目を伏せて軽く作った拳で巡らす頭を支えていると、「ねぇ、アル兄様」とマリアに呼びかけられてアルフレッドは顔を上げた。
「何です?」
視線をそちらの方に向けると、彼女は今まで見たこともないような真剣な顔つきで考え込むように口元に指を添えている。
「わたくし、やっぱりおかしいと思いますの」
「何が?」
「やっぱりエリカ様は間者ではないのではないでしょうか。なんと言うのでしょう。なんだかこう、違和感がありますの。もし本当に間者であるならば何故、エリカ様はアブレンの今の国王が誰であるのかご存じなかったんですか? これだけ警戒されているというのに我が国の建国記念式典にアブレンの国王がいらっしゃると思うことが出来るのですか? あまりにも知識がないように感じますの」
「じゃあ、彼女の立ち居振る舞いに見えるアブレンは? 何故アブレン語が読めて、アブレンのことを知りたがる? それをマリア、あなたはどう考える?」
「それは……、わたくしにもよく分かりません。でも一つだけ言えることは、エリカ様は“今”のアブレンをご存じないということだけ。クレオだなんて国、もう誰の話にも出てこないのにそれをご存じで、まだその国が存在しているのだと思ってらっしゃった。……知識が、古いのかしら……?」
「古い?」
言われてみれば確かにそうともとれる。けれど、
「だからと言ってそれが間者じゃない証にはならない。わざと、警戒心を抱かせないために知らないふりをしている可能性だってある」
「……でも、あのエリカ様がそんなこと出来るのでしょうか。とてもあの方にそのような芸当ができるとは思えません」
「それはマリアの希望じゃないの? 情は移さないように言っておいたはずですが、あなたはそれを忘れたんですか?」
「忘れたわけではありませんけれど、……普段のあの方があまりにも良く笑って、怒って、開けっ広げに振る舞われるものですからなんだか信じてしまいたくなるのです」
「まったく。もし、何かしらの証拠が出てきたら私たちは彼女を牢に入れるなり処刑するなりしなければならないんですよ。必要ならば拷問さえも。あなたたちはそれをちゃんと分かっているんですか?」
自分たちが背負うものは、一時の感情に流されていいものでは決してない。だからこそ、いつでも彼女を切り捨てる心づもりで、覚悟を持っていなければならないのに。
いつの間にか皆、彼女に絆されてそれを忘れかけているような気がしてならない。それに……。
「ご不安ですか?」
まるでアルフレッドの思考を読んだかのようにマリアはそう問いかけ、一歩前に進み出てすっと伸ばした手でアルフレッドの頬に触れてきた。アルフレッドはその感触を厭うようにマリアの手首を掴んで、頬から手を引きはがす。その仕打ちにマリアはくすりと小さく笑った。
「エリカ様はオルス様のことばかりおっしゃるけれど、アル様も大概ですわね」
「……なんのことですか?」
「陛下の心配をしてらっしゃったんでしょう? 本当に過保護ですこと」
「そんなこと……」
ないとは流石に言えないかもしれない。昔からジェルベにはつい手を差し伸べたくなるのは確かだ。
「でも甘やかしすぎもいけませんのよ? 陛下が自力で立ち上がれなくなってしまいます。陛下にだって強さはちゃんとあるはずですわ」
脳裏に、幼いころのジェルベが浮かぶ。全てが定められた人生は窮屈そうで、たった一人の王子である彼を傷つけてばかりいた。それでも一人きりで、堪えきれなかった涙を流しつつも震える足で立ち上がり、じっと前を見据えていたその姿が妙に痛々しくて憐れだったからそんな彼を支えていかなければならないと思った。でも、それが逆にジェルベの本来持っていた強さを奪ってしまっていたと言われれば否定もできない。
「それに、アル様がそんなに陛下のことばかりですとわたくし、嫉妬してしまいそう」
えいっと手を伸ばしたマリアが抱きついてきた。
「……お願いですから陛下にまで馬鹿なことしないで下さいよ」
「さぁ。それはどうでしょう」
意地悪く微笑んだマリアが手を放し、くるりと回って一人ドアの方に向かって歩き出す。そして最後にこちらを振り返って「それでは」と部屋から出て行った。
「まったく、あの娘には敵わない」
それはとても不愉快だけれども悪くはない。
一人部屋に取り残されたアルフレッドはようやくいつものように、クスリと口元に笑みを浮かべた。
『アルフレッド、調べてほしいことがある』
そう伝えてきた時のジェルベの瞳に宿った力を思い出しながら、アルフレッドは懐からその調査結果である紙の束を取り出した。
マリアの言うとおりジェルベの強さを信じてみるのもいいかもしれない。
確実にもう一度、傷を抉られることになるけれど、それでも前に進むためならば――




