二八、夜の目覚め
ふと目を覚ますと部屋の中はもう暗くなっていた。
あの後、せめてとお風呂と軽い食事だけ済ませた私は、陛下に言われた通り大人しくベッドで横になってそのまま、また随分と深い眠りに入ってしまっていたらしい。流石に寝過ぎたためか、なんだか頭が重い。
とりあえず身を起こして辺りを見回してみると、眠るときには傍に居てくれたマリアの姿はもうなかった。
でもその代わりに、ソファの置かれているほうに目を向けてみると、意外にもそこにはいつものようにぼんやりと明かりが灯っている。
陛下?
今日はここに来ていないんじゃないかと思っていたのに。
だって目を覚ましてからずっと、いつも聞こえているはずの本のページをめくる音が聞こえていなかったから。居ないのだと思っていた。
ちゃんと、居たんだ。
けれど、いつものように本を読んでいないというのなら陛下は一体何をしているというのだろうか?
――まさか。
もしかして、眠っていたりする?
いまだ見たことのないその姿をちょっとだけ期待して、胸を高鳴らせてソファのほうをよく見てみる。
こちらに向けて置かれたソファまで少しだけ距離があるけれど、向こうのほうが明るいから簡単に様子を窺うことが出来た。
やっぱり!
ソファに腰かけている陛下は、肘掛けに頬杖をついたままピクリとも動かない。
確か、眠れないと言っていたのになんで? そうは思ったけれど、昨日は陛下だって疲れたはずだし、眠っていておかしいことは何もない。むしろ生き物ならば眠るのはごく当然のことだ。
私は音を立てないように、でも、急いでベッドを抜け出した。何故、こんなに急いているのか自分でもよく分からないけれど、早く陛下の傍に行って近くで見てみたかったのだ。陛下の寝顔というものを。
目の前まで近づいた私はそのまま絨毯敷の床に座り込んで、少し下を向いた陛下の顔を見上げてみる。
サラリとしたプラチナブロンドが影を作る端正な顔、普段決して明るい色を放たない濃い青の瞳が今は伏せられていて、いつも以上にその姿は人形めいている。
透明感のあるその姿はとても、きれいだ。
触れたいな。
何でだろう。気が付いたらそんな思いに囚われて、無意識のうちに陛下のソファに降ろされている方の手へと腕が伸びていた。
いけないっ。起こしてしまう!
もう少しで陛下に届きそうになったことろで自分の行動に気が付いて、慌てて腕を引っ込める。
一体何を考えているのだろう。触れたいだなんて、自分で自分がよく分からない。しかも、なんだか急に昼間の密着を、あのときのこの手の感覚と温もりを思い出してしまってみるみると顔に熱が集まってきた。すごく恥ずかしくなって、両手で頬を包みこんで自分自身を落ち着かせる。やっぱり、なんだか私、変だ。一体これは何なんだろう?
その時、ふと先ほど触れかけた陛下の手の横に置かれた1冊の本に気が付いた。
「これ……、懐かしい」
強く記憶に残るその本の表紙に、さっきまでの僅かに生じていた自分自身への混乱が吹き飛んで、思わず声が漏れてしまった。
陛下を起こさないようにそっとその本を手に取って、ペラペラと軽くページを捲ってみる。
レストアでもアブレンのものでもない言語で書かれたこれはかつて、この大陸全体を治めていた王がその子孫たちに向けて書いたものだ。
その国は遥か昔に分裂という形で滅びたのだけれど、これを書いた王様は今でも語り継がれるほどの賢王でそんな彼の考え、政治論、戦術すべての詰まったこの本は王族であれば一度は目を通すと言われていた。
『兄上、こんなの難しい。もう読めない』
そんな泣き言を口にしたのは幼いころのティア。
『王家に生まれた者として、これくらいは頑張りなさい。必要な知識なのだから』
『でも、なんて書いてあるのか分からないの。アブレン語じゃないだけでも大変なのにとっても難しい言葉ばかり使ってあるのよ。意地悪だわ』
『そんなこと言わずに。それに君は将来、他国に嫁ぐこともあり得るだろう? その時はその国の言葉を使って生きていかなくてはならないんだ。これぐらいで弱音を吐いてどうする』
『そのときはそのときよ。だいたいこんな古代の文字、今はどの国も使っていないじゃない! 習得しなくても何の問題もないでしょう? そうだ! それならせめて翻訳して。ね? そうしたらきっと読めるわ。お願い、兄上』
そのときの困り果てた兄上の姿を思い出してつい、クスクスと笑いが漏れる。今思い返せば、お忙しかった兄上によくそんな事をお願いをできたものだ。
結局諭され、頑張って自力で読んでみせたこの本で得た知識を活用することも、他国に嫁ぐこともなく終わってしまった人生だったけれど。
でも、
再び顔を上げて陛下を見る。
だからこそ“今”があるというのなら、これはこれで良かったんじゃないかと、不思議にもそんなふうに思えるようになってしまったのは紛れもない事実で。
「今日は助けてくれてありがとう。とても、嬉しかったの」
起こしてしまわないように静かな声で、でも目一杯の感謝をこめて眠る陛下にお礼を言った。起きているときに言いそびれてしまったから。また後で改めて、というとなんだか今更で結局言えなくなってしまいそうだから、今でいいわよね?
そう思っていたのに。
「どういたしまして」
何故だか眠っているはずの陛下からそんな声が発せられて私は驚いて手に持っていた本を思いっきり落としてしまった。重量があるだけに足が痛い。
でも、なんで?
状況がよく呑み込めなくて、陛下の顔を凝視していると、ゆっくりと闇色の瞳が開かれる。その瞳は、まるで寝起きのものとは思えないほど力強く輝いていた。
もしかして、
「もしかして、貴方、ずっと起きていたの?」
こちらに視線を向けた陛下が無言で一つ頷く。
そんな馬鹿な。
「ひどい。騙したのねっ」
「人聞きの悪いことを言うな。俺は寝てるなんて一言も言っていない。勝手にお前が勘違いしただけだろ」
「じゃあさっさと目を開ければいいじゃない。勘違いさせたのは貴方でしょ!」
なんだかすごく恥ずかしくて、私は陛下をビシリと指さしムキになってそう反論した。あの時陛下に触れてしまわなかったのが唯一の救いだ。危なかった。もう少しで変態扱いされるところだった。
陛下はいまだに混乱状態の私を相手にはせず、静かな瞳で見下ろしてくる。
「なあ、エリカ」
「何よ」
ぶすりとそう返事をする。陛下はそんな私の足を視線でさし示した。
「その本……」
「あぁ、これ。ごめんなさい」
そういえば足の上に落としたままだった本を慌てて拾い上げて、そのまま両手で陛下に差し出す。陛下はそれを受け取ってその表紙を確認する。そして、それと私の顔を見比べて少し顔を顰め、いつもよりも若干硬い声で問いかけてきた。
「お前は、これを読んだことがあるのか?」
「え?」
「懐かしいと言っただろ」
こいつ本当にずっと起きてたのか。迂闊だった。どうやら私は余計なことを口にしてしまったらしい。
これは、確かに庶民が読むようなものじゃない。怪しまれるのは当然で、どう答えるのが一番良いのだろうか、そう考えてみたけれどやっぱり今更そんな本初めて見たなんて言うのは白々しいし、仕方がない。私は観念してありのままを答えることにした。
「随分と昔に、ね。だから今見ても全然読めなかったわ。ただの記号の羅列にしか見えない」
「……どんな思い入れがある?」
「なにが?」
「さっき楽しそうに笑っていただろ?」
こちらを探るように陛下が見てくるけれどそんなこと、話せるわけないじゃない。前世のことを隠したいわけじゃない。けれどそんな事きっと誰も、貴方も信じてはくれないから。
「それは、……秘密」
私は苦笑いで陛下に微笑みかけた。
「……ふうん」
けれど、その答えはどうやら陛下のお気に召さなかったようで、不機嫌そうにそう返した陛下はプイッと顔を背けて、もう会話をする気がないように再び目を閉じてしまった。
なんだかぽつりと一人取り残されたような気分だ。でも、窓の外を見てもまだ夜の明ける気配はなくて、
陛下に目を開けて私の暇つぶしの相手をしろと言うわけにもいかない。例え眠っていないとしてもきっとこうやって休息をとっているはずだもの。
「ねぇ、ぐしゃぐしゃになってしまっているけれどベッドを使ったら? 私はもう充分すぎるくらい眠ったからもう必要ないし」
「いい」
「でも……」
座っているよりもベッドで横になっているほうが疲れがとれると思うのだけど。
けれど陛下は私の気遣いを余所にもう一度そっけなく「いい」と返してくる。
「どうして貴方は眠らないの?」
そういえば、その理由を私は知らない。
なんで眠らないのだろう? 本人は“眠れない”というけれど実際、眠ろうともしていないからこの表現でいいはずだ。
陛下は私の問いかけに、閉ざした瞳を再び開いて面倒くさそうに一つため息をつく。
「それは秘密だ」
陛下から返ってきたそれは、さっき私が陛下に返した言葉そのままだ。もしかしてこれは意趣返しのつもりなのだろうか? でも秘密って……、
「陛下が言うとなんだかすごく似合わないわね」
いつも偉そうな物言いの陛下が言うと何故かとても可笑しく聞こえて私はクスクスと笑ってしまった。でもそれと同時に思ったとおり理由を教えてはもらえなかったことを寂しく思う。私の問いに一瞬翳った瞳が、その裏に何かあるのだと、そう言っていたのに。
毎日こんな風に2人で過ごしても結局私は偽りの側妃でしかない。私はただのカモフラージュであって、きっと陛下はこれから先もずっと必要以上に私を近づけてはくれないんだ。それがとても悲しくて悔しい。
でもそれは、何故?
何故、私はこんなにも陛下のことを気にしているのだろう? 何を“もっと”と求めているのだろう?
けれど、考えてみてもその答えは分からなくて、とりあえず私は何にも気づかなかったことにして陛下と共に過ごす今を大切にすることにした。




