二七、得られたもの
「こんなことって、あんまりですわ。度が過ぎてます」
意識とは遠いところでそんな声が聞こえてきた。張りつめたようなその声は今にも泣いてしまいそう。
どうか、したのだろうか? 頭がぼんやりとしてよくわからない。
「仕方がないでしょう。マリア。ここはそもそもそういうところです」
「だからって……」
マリア?
あぁ、そうだ。これはマリアの声だ。あれ? でもなんで?
真っ暗な意識の下、光を求め重い瞼を細く開いてみると、ぼやけた視界に写ったのは大きな緑の双眸。
「エリカ様! 気が付かれたんですか?」
潤んでいたその瞳がパチパチと瞬きをした後、ぱぁっと明るい色を放つ。
ごく近くで叫ばれて、頭が痛い。
「な、に?」
状況がよくつかめずにそう問いかけると「よかったですぅ」とそのまま覆いかぶさるように抱きつかれてしまった。
いや、だから、なに?
「マリア、やめなさい。エリカ嬢が苦しそうですよ」
「あ、すみません。エリカ様大丈夫ですか?」
マリアがそう言いながら慌てたように素早く私の上から退いて、そのことによって開けた視界によく見慣れた、落ち着いた濃いピンクの花柄の天蓋が見えた。
「ここは、私の部屋?」
「そうですわ。鹿狩りの途中で倒れられたの、覚えてません? 陛下がそのままここに運んでくださったんですよ」
「ああ、そういえば」
私が乗った馬が鹿に怯んで暴走して、それで陛下に助けられたんだったか。
いつの間にか途切れていた記憶の糸を手繰り寄せつつ、横たえられていたベッドに肘をつき、ぐっと腕に力を込めて上半身を起こそうとする。するとすかさず「無理はなさらないで」とマリアに背中を支えられて、「ありがとう」と素直にその好意に甘えた。
ぐるりと部屋を見回してみると、マリアの傍らにアルフレッド、そして少し離れたいつものソファに陛下が座り、その横にオルスが立っていて、みんなが私をじっと見ている。
窓の外を見てみるともう薄暗くなっていてあれから大分時間が経っているらしい。
「お加減はいかがですか?」
なんでこんなに大集合しているのだろう? よく状況が理解できず、きょとんとしている私にそう訊ねてきたのはアルフレッドだった。
「ええ、大丈夫です」
まだ頭はぼんやりとしてるけれど、特に痛むところはない。たしか怪我もしていなかったはずだ。
それなのに、なぜかマリアがわなわなと震えながら憤った声を上げる。
「ご無事だったからよかったものの、わたくし許せませんわっ。もうっ! こんなことになるのならお父様にお願いして一緒に付き添っていただけばよかった」
「許せないって何の話?」
マリアが何でこんなに怒っているのか、そもそもその怒りの理由はなんなのかわからなくてそう問いかけた。
するとアルフレッドがマリアの腕を軽く引張り、小さく諌めるような口調で「マリア、落ち着きなさい」と言った。マリアはそんなアルフレッドに、もう一度開きかけた口をぐっと噤む。
代わりに私の質問に答えたのは、ソファから立ち上がりゆっくりとこちらに近づいてくる陛下だった。
「馬がすり替えられてたんだ」
「すり替え?」
「ええ、そうです」
私が視線で陛下を追いながら訊ねると、代わりにアルフレッドが返事をした。陛下はマリアたちが居る方とは反対側の、私の傍らまでやってきてそのまま私のベッドに腰掛ける。オルスも陛下を追うようにこちらに近づいてきた。
私がそんな彼らから視線を外し、アルフレッドを見ると彼はいつものゆったりとした笑顔にどこか冷たい色を乗せて、詳しい説明を始めた。
「今日、貴方が乗るはずだった馬がよく似たものにすり替えられていたんですよ。まだきちんと調教されていない馬にね。貴族たちの嫌がらせです。彼らはただ貴方が馬に上手く乗れない状況を作り上げたかっただけでしょうが、不幸にも貴方は最初、乗りこなしてしまった。本来ならまともに乗れるものではなかったはずなのに。そして惨劇が起きる結果となったわけです」
「そんな……」
それはいくらなんでもやりすぎではないだろうか。ひどい。あんまりだ。私がどれほど怖い思いをしたと思っているのだろう。
私は奥歯を噛みしめ、手元のシーツをギュッと握った。
「まったく、花祭りの時といい人騒がせな奴だな。そのうちお前確実に死ぬぞ」
オルスが不機嫌を隠しもせずに私を見下ろしてくる。人騒がせって……、
「今回は私のせいじゃないもの!」
「馬に乗った時に気づくだろ、普通。だからバカって言われるんだ」
「そんなの分かるわけないでしょ」
「オレなら分かるね。だいたいお前は警戒心が足りないのがいけないんだろ」
「武官のあんたと一緒にしないでよ。大体警戒心って、この国の貴族の教育がなってないのがいけないんじゃない」
「なにをっ。お前は、その上に立つ陛下までバカにする気か」
「そこまで言ってないでしょ!?」
オルスが立ったまま腰を曲げて顔を近づけ睨みつけてくる。あぁ、もうこいつムカつく! これが仮にもさっきまで気を失っていた人間に対する態度なのだろうか。普通、もう少し労わるものじゃないの?
オルスと2人、バチバチと火花を散らしながら睨みあっていると、
「元気そうだな」
と静かなため息とともにそんな陛下の声が聞こえてきた。
まぁ、確かにぼやけていた頭もいつのまにかすっきりしていて調子は悪くない。
「陛下! オレはこいつが陛下の寵妃役なんてやっぱり納得できねえ。もっといい適任者くらいいくらでもいるだろ。なにもこいつじゃなくたって。恥さらしだ。疫病神だ。もう傍に置いとかない方がいい。陛下までこのバカに巻き込まれたら大変だ」
陛下の声が聞こえるや否やバッと陛下のほうを振り返りオルスは私を指さしてそう訴えている。
なに、このあんまりな言われよう。あんまりすぎてもう言葉を返す気もなくなってしまった。
「ねぇ、陛下。それであの後、どうなってしまったの?」
オルスを無視して私は陛下にそう訊ねる。
あの後、鹿狩りは、貴族たちの反応はどうなってしまったのだろうか? 貴族たちのせいだとはいえ、私の乗馬は上手くいかなかったということで、悪い方に転がっていなければいいのだけれど。
そんな心配が胸を過り陛下を見つめると、彼は、
「問題は無い」
という一言を返してきた。
「本当!?」
失敗したのに? 何で? 私の顔に困惑の色が浮かんだことに気が付いたのだろう、
「勿論ですわ。むしろこんなことをして皆様処罰対象になったんですもの。彼らにエリカ様を責める資格はありません。まぁそれも当然の報いですわね」
とマリアがにっこりと笑う。
いや、ちょっと待って。
「処罰?」
なにやら大事になっているようで、吃驚してそう訊ねると、アルフレッドがマリアとまったく同じ薄黒い笑みを浮かべて付け足すような説明をしてくれた。
「えぇ。仮にも陛下の側妃に手をかけたのです。といってもしばらくの間、謹慎してもらうだけなんですけどね。まぁ、これで大人しくなると思いますよ」
「ということは」
「ええ、波乱はありましたが貴方たちにとってはひとまず大成功なのではないでしょうか」
大成功? その言葉を聞いて私の心がパァッと明るくなる。じゃあ、私はお城を追い出されずに済むの? まだ、私、ここに居られるんだ。
「よかったぁ! ね? 陛下」
本当に、よかった。
嬉しくて顔を綻ばせながら陛下に同意を求める。けれど陛下はなぜか奇妙なものでも見るような視線を私に向けていた。
そして、戸惑うようにその口を開く。
「お前、あんなに目にあってなんでそんなことが言える?」
眉間に皺を寄せて、陛下はそんな私が心底分からないといった様子でそう問いかけてきた。
うーん。確かにそれはそうかもしれない。でもね、
「でも、やって良かったでしょう?」
確かにひどい目にあった。とても、とても怖かった。けれどこれは逃げずに馬に乗ったからこそ得られた成果だ。怯えて逃げていたら掴めなかったもの。それに、あんなことになったけれど、それでも陛下が貴方がちゃんと助けてくれたじゃない。だから私は大丈夫だったんでしょう? 私は何も後悔していない。やらなければ良かったなんて思ってないわ。貴方もそうは思わない? 私は小さく首を傾げて陛下を見た。
そんな私に、陛下は深く、深く息を吐き出す。
「お前は、オルスの言うとおり警戒心と、あと学習能力を身につけたほうがいい」
陛下は呆れたような顔でそう言いながら、腰かけていたベッドから徐に立ち上がり、私の頭をその大きな手でくしゃりと一撫でしてきた。
「念のためにお前はもう少し休んでいろ。マリア、こいつの世話を頼んだ」
「はい、陛下」
マリアの返事に陛下は一度小さく頷いて扉の方へと進んでいく。それに付き従うようにアルフレッドと、何やら怪訝そうに私をジロリと睨んだオルスがその後ろを追う。
「話がある」
「おや、なんでしょうね」
落とされた小さな声でそう話しながら扉を開けて、そしてそれは小さな音を立ててパタンと閉まった。
それを見届けてから私は、陛下によって乱されてしまった頭に手をやり、そのまま手櫛で髪を梳く。
「なによ、あれ」
警戒心と学習能力って、私は子どもじゃないんだから。
でもされた行為はまさに子ども扱いそのものでなんだかそれがすごく気に入らない。
「あれでも陛下とオルス様はとても心配されていたんですよ」
マリアがクスクスと笑う。
あの2人の態度からして、とてもそうは見えなかったけれど。
でも、なんだか心が温かくくすぐったく感じるのは何でだろう?




