二六、救い
コホン、という咳ばらいが背後から聞こえてきた。
まぁ、分からないこともない。
緊迫感漂う空気の中、突然側妃が陛下に抱き着いたのだから。「こんなところで何やってるんだよ、おい」といったところだろうか。
背中にチクチクと突き刺さる視線が痛い。
早く離れないと。
そう思って回していた腕を解き、陛下との距離を取るために一歩下がろうとした。でもそれは陛下の力強い腕によって妨げられてしまった。
え? 何?
なんで離してくれないの?
私が問うように陛下を見ると、彼は、「もう少し待て」と私にだけ聞こえるよう、私の耳元にそう命じた。
何を考えているのだろうか。
私、もうそろそろこの体勢限界なんですけど。
陛下の考えがよく分からずとりあえずそのままじっとしていると、
「アーロン、もうその話はやめろ。これが気にして不安がる」
頭上から聞こえてきたのはそんな声。
ちょっと待ってよ。
私のせいにしないでよ。エヴァンズ侯爵の話を聞きたくなかったのは貴方じゃない。
咄嗟にそんな反感を覚えたけれど、でも、まぁそれがこの場を取り繕うのには一番良い方法なのだろう。
そう思い直して私は陛下に合わせるため、私の背を優しげに叩くその腕からそっと離れて落ち込んだように視線を落とし、貴族のおじさま方と向かい合った。
「申し訳、ありません」
おじさま方はばつが悪そうにしながらも私たちに向かって各々謝罪の言葉を口にしてきて、そしてその場はいとも簡単に収まった。
その後しばらくは貴族のおじさま方の会話に付き合わされた。
おじさま方は庶民の生活のことにはじまり、孤児や職業問題、果てには税に関する政治的なものまで、あくまで聞き役に徹しようとする私をそのたびに引っ張り出し、意見を求めてきた。私はそれに対して、現世での経験だけでなく、前世で少しだけ学んでいた帝王学すらも屈指してなんとか答えて見せた。
おじさま方との会話は決して楽しいものではなかったけれど、まぁ、彼らの悔しそうな顔はなかなか愉快なものだった。
鹿が見つかった、という報せが猟師よりもたらされたのはその会話も落ち着いてきたころのことだった。
森の奥の方から何かが近づいてくる気配に、一瞬にしてその場の空気は張りつめ、皆が身構えた。護衛たちは気配のする方にさっと歩み出て剣や弓に手を添える。
だんだんと大きくなってきた音は軽やかな蹄の音。そしてそれと共に現れた猟師の姿にそれらはすっと落ろされた。
猟師は素早く馬から飛び降りて私たちのそばまで駆け寄り、サッとその場に跪いて頭を下げた。
「獲物となる鹿が見つかりましてございます。ここより東方にて只今、猟犬が追いつめております。急ぎご出立くださいませ」
まだ年若そうな猟師の彼はそう早口で告げた。
ついに来てしまった、この時が。
鹿なんて見つからなければいいと、心の奥底でずっと祈っていたのに。どうやらそれは聞き届けれらなかったらしい。
貴族たちは歓声を上げ、それでは参りましょうと陛下を促す。
でも、私は地面に足が縫い付けられてしまったようにその場から動くことが出来なかった。
「エリカ?」
陛下が硬く動かない私を不審そうに覗き見てきた。
いけない。
「いいえ、なんでもありません。陛下」
何でもないように装ってゆるく首を振る。
大丈夫。大丈夫。
私はそう自分に言い聞かせて重たい足を無理やり持ち上げようとした。
けれど、
「お前たち、先に行け」
静かな命令が陛下から貴族たちに発せられた。
貴族たちは「はっ」とそれぞれ返事をして馬のいるところへと歩き出す。
残されたのは私たち2人とそれを遠くから見守っている数人の護衛。
陛下は私へと向かい合って、そっと回していた腕を解いた。私は一歩後ろに下がって陛下と距離を取る。
「どうかしたの?」
「顔色が悪い」
そう言った陛下の顔色はふつう。ということは、
「私?」
そう訊ねると「他に誰がいる?」と返されてしまった。
顔色か。鏡のない場所だから確認することはできないけれど、絶対に悪くなっていないとは言い切れない。
涙なら自在に操れるけれど顔色まではさすがに無理だ。
でも、そんなことを言っている場合じゃないのか。
「気を付けるわ」
もう少し覚悟を強く持てれば、勇気を出せれば顔色もよくなるかもしれない。
だけど、
「違う、そうじゃない」
そう言って陛下はちょと不機嫌そうに腰に手をやり顔を顰めた。
「もう今日は充分だろ。疲れたのならお前はここにいろ」
それは、足手まといは要らないという意味かしら。そうじゃないのに。
「疲れてなんかないわ」
そう答えた私を陛下は疑わしげにみる。じゃあ何故そんなに顔色が悪いんだとその瞳は問いただしてくる。
どうしよう。
でも、もうここは正直に言ってしまったほうがいいのかもしれない。
うん、仕方がない。
「ちがうの。馬が、ちょっと苦手だから緊張してるだけよ」
「乗れると言ってなかったか?」
あれは嘘だったのかと陛下はじっとりと私を睨む。
「勿論乗れるわ。だけど、昔一度馬から振り落とされたことがあってそれ以来だから」
「乗馬が下手なら尚更やめておいた方がいい。また落ちる」
「下手じゃない! むしろ得意だったわ」
「得意な奴は落とされないと思うが」
違う。そうじゃない。あれはエミリオの様子がおかしかったから。
そう反論したかったけれど、それをするわけにはいかず、私はぐっと言葉を詰まらせた。
それを肯定だととったのか陛下は私を置いて去って行こうとする。
「鹿一頭だ。すぐに戻ってくる」
「ダメよ。私も行く」
私はとっさに陛下の腕を掴んだ。
陛下はそんな私に深々とため息をついて見せ、「だから」と面倒くさそうに諭そうとする。
私はそれを遮って、彼を説得するためにあえて質問をぶつけた。
「ねぇ、私、貴族たちの前で何か失敗した?」
陛下はその問いかけに一度口を噤み、
「お前にしてはよくやったと思うが」
だからなんだ、と陛下はそう濃い青の瞳で訴えてくる。
「それなら、尚更行かなくっちゃ。私が馬に乗らないことでわざわざ貴族たちの攻めどころを作ってあげたくなんかないわ」
「だが、怖いんだろう?」
「それでも、よ」
「また落ちるかもしれない」
「あれは……、そう、とても特殊な状況だったから。きっと、きっと大丈夫よ」
私は陛下の腕をつかむ手にギュッと力を込めた。だから一緒に行く、と。
大丈夫。
あんなことそうそう起こるものじゃない。
一番に、それを言い聞かせたかったのは自分自身。
大丈夫。大丈夫。
そんな私に観念したように陛下は私から腕と視線を外し「それなら行くぞ」と馬の居る所へと進みだした。
よかった、と思っていいものか、実のところよく分からないほどの不安がやっぱり拭いきれないけれどそれを振り切るように私も陛下に続いた。
しばらく無言で森の中を歩く。
ざわざわと木々の葉が風に揺られて音を立てた。
「お前は本当に逞しい」
前を行く陛下がぼそりとそう言ったのが聞こえた。
それはどんな顔で言ったのだろう。呆れ? それとも。
私は少しだけ駆けて、陛下の前に出て振り返り、その顔を見てみた。でも、その表情からは何の感情も読み取れなくて。
だから、
「それは褒め言葉と思っていいのかしら?」
冗談めかしてそう問いかけてみた。
すると陛下は少し考えるように瞳を伏る。
「いいんじゃないか」
返ってきたのは意外にも肯定。
なんだか嬉しい。
つい、「へへっ」と顔が緩んでしまうのを感じた。
陛下はそんな私を何故だか遠くから眺めるように見つめながら、
「なぁ、エリカ」
とためらうように声をかけてきた。
「なに?」
「お前は、知っていたのか」
言いにくそうなその言葉に、何を? と訊ねようとしてやめた。
それはきっとエヴァンズ侯爵令嬢のことだと感じ取ってしまったから。先ほど、アーロン候に向けたほどのものはないけれど、それはやっぱり張りつめた空気を含んでいる。
どう答えるべきか。そう考えてみたけれど、
「少しだけね」
私には、なんでもないようにニコリと笑いかけながらそれだけ言うのが精いっぱいだった。
下手なことを言ってそれを教えてくれたマリアに迷惑がかかるような事態は避けたかったし、私自身もうこの話題には触れたくなかったから。この空気は嫌だ。重たくて居心地が悪い。何故か私の心さえも抉られる気がする。さっきの、心地よく弾んだ心が急にしぼんでしまった。
私は陛下から視線を逸らして、前を向いた。私はそれ以上のことを答える気がないという意志表示のために。
それを察したように陛下は「そうか」とそれだけ呟いて、あとは2人で貴族たちの待っているところまで無言で歩を進めることに集中した。
沈黙が、私の足取りと同じように重たかった。
今日、私のために用意されていたのは栗毛に白い鬣の可愛らしい馬だった。
私は陛下に腰を掴まれ、ふわりと馬上に乗せられる。一気に高くなった視界にクラリと眩暈が起きそうになるのを必死にこらえて、私をジッと見上げる陛下に一つ、こくんと頷いて見せる。そして私は革の手袋をはめた手にギュッと力を込めて手綱を握った。
スッと背筋を伸ばして深く深呼吸をする。
目を伏せ精神統一して、もう一度開いた瞳で前を見据えた。
そして軽く馬の腹を蹴り手綱を操ってその場を小さく一周してみる。馬は穏やかな足取りで歩き、そして止まった。
微かな揺れでも、また馬が暴れだしてしまうのではないかという恐怖に襲われて、それに飲み込まれてしまいそうになる。手綱を握りしめる手からはじっとりと汗がにじみ出るけれども、それでも、
うん、この子は多分扱いやすい馬だ。
きっと大丈夫。上手くいく。
私は強張りつつも一つ息をついて、私に注目している皆をぐるりと見回した。
貴族たちが隠すのを忘れているようにそれはそれはひどく顔を歪め、つまらなさそうに私から視線を外して各々の馬へと向かっていく。
陛下もいつのまにか真っ白な毛並みが綺麗な馬に乗っていて、私の隣にやってきた。
だけど、どう? 上手く乗れたでしょう? 大丈夫だったでしょう? と視線で問いかけても、私の顔を見ているはずの陛下は何も答えない。
その顔はなぜか険しいもので、
「エリカ、お前……」
と私に呼びかけた彼はそのまま考え込むように言葉を途切らせた。
どうかしたのだろうか?
なに? と首を傾げて私もそんな陛下を見つめ返したけれど、彼は「……いや、なんでもない」と言いながらプイと視線をそらしてしまった。
なんでもないようには見えないけれど。何が言いたかったのかよく分からない。
おかしな、陛下。
「では、参りましょう」
皆が馬に乗ったことを確認した猟師が先頭に立ち、道案内をする。
ぞろぞろと、森の木々を避けつつ、鹿がいるという場所へと続いて行く。
私はその後ろからしっかりと手綱を握りしめ、それでも馬にこの緊張感が伝わらないように出来るだけ気持ちを落ち着かせてゆっくりとそんな彼らについて行っていた。
私は狩りなんてしないただの見学者だから何も前の方に居る必要はないのだ。陛下もそんな私の隣に並ぶ。
今日は陛下も狩りはしないらしい。「なんで?」と訊ねた私に陛下は「面倒くさい」と一言。前世で狩りに参加したときはちっとも楽しいとは思えなかったけれど、それでも兄上が弓で、たった一撃で獲物をしとめた姿はとてもかっこよかったのに。陛下のそんな姿を見れないのはちょっと残念だ。まぁ、陛下にそれほどの腕があるのかどうかは知らないけれど。
しばらく森の中を進むと、犬の低いうなり声が聞こえてきた。
どうやらもう鹿の近くに来ているらしい。
前方にいる馬たちがそこで足を止める。私もそれに倣って手綱を引いて馬を止め、貴族たちの隙間から前の方を覗き見ると、白い犬と黒い犬の2匹が鹿を囲い込むようにして威嚇していた。その間に見える見事な枝分かれした角を頭に乗せた牡鹿は怯えたようにその場で足踏みをしている。
貴族たちが「これは立派な鹿だ」と浮かれたような声を上げながらそれぞれ弓と矢を手にし身構えて、そして、
パンッ――
一斉に弦の弾かれる音がした。けれど、鹿は耳に突く細い悲鳴を上げて、矢が当たる直前にその場から逃げ出し、あろうことかぐるりとその場で小さく方向を変え、こちらに向かって突進してきた。
目の前の貴族たちの馬が、向かってくる鹿を慌てて避ける。
私も避けなきゃ。咄嗟にそう考えて、手綱をクイッと引っ張った。けれど、同じようにされて指示通り脇に避けた陛下の馬と違い、私の馬は、突進してきた鹿に怯んだのかくるりと後ろを向きそのまま鹿から逃げるように疾走を始めた。
――え?
何が起こったのかよくわからないけれど、コントロールできなくなったこの馬は、先ほどここに向かってきたときよりもぐんとスピードが出てる。
ちょっと待って! いやよ。
なんでまた……っ。
冷静に対処できればこのパニックを起こしている馬を宥めることも出来たかもしれない。けれど、前世の記憶も相俟って、私の頭は真っ白になってしまっていた。
どうしよう。
そう思うのに頭は全く動いてくれなくて、ただただ必死に馬にしがみつく事しかできなくて。固く、固く目を瞑る。
怖い。
怖い。いやよ。
なんで、こんなこと。
誰か助けて――!
ドンッという鈍い衝撃が体を襲った。馬にしがみついていた腕がするりと抜ける。
あぁ、また。
またあの鈍い痛みがくるのか。あのときの痛みはいまだに忘れられないものだったのに、また味わうことになるなんて。
私はせめて、と次に来るはずの衝撃に備えて必死に身を固くする。
けれど、
「だからやめとけと言ったんだ」
はぁーー、と大きな息を吐き出す音と共にごく近くでそんな声が聞こえてきて、それに何か違和感を感じた私は瞑ったままだった瞳をそぅっと開けてみた。
衝撃は、来ない。
見えたのは青い空でも森の木々でもなく白い馬の首。
まだ私、馬から落ちてなかったの? でもこれはさっきまで私が乗っていた馬じゃない?
よく事態が呑み込めず、ぼんやりとしていると体に感じていた揺れが収まり、すとんと地面に立たされる。
目の前には何故だか陛下。
「なん、で……?」
呆然としたままそれだけ訊ねた。
なんで貴方がここにいるの? 私はどうしてここに立っているの?
ピクリと陛下の片方の眉が上がる。
「俺は人を見殺しにする趣味はないつもりだが」
だって、あの時はマルコも護衛たちも追いつけなかったのに。その気がなかったわけじゃないと分かっている。それでも助けてくれはしなかったのに。
それなのに、なんで……?
陛下を見つめる私の顔を、陛下の親指に擦られて、そこに何か水気を感じてそれで初めて自分が泣いているのだと気が付いた。
掬い取られなかった涙がポタリと地面に落ちた。
気が付いてしまえばあっという間で瞳から次から次へと熱いものが込み上げてくる。
わなわなと口元が緩み、言葉があふれ出る。
「怖かったの」
「ああ」
無表情の陛下は短く相槌を打つ。
「もうダメかと思ったの」
「ああ」
「また、振り落とされて死んじゃうのかと思ったの」
「もう分かったから」
陛下の、片腕が伸ばされて私はそのままその広い胸に閉じ込められた。
宥めるように背中を撫でられて。
何故だかわからないけれど、そこはとても、とても安心できた。
やっと、もう大丈夫だと思えた。
よかった。今度は死ななくて、助けてもらえて、とても救われた気がした。
そして、私はいつの間にか意識を手放していた。
 




