二四、演者たち・前
ぼんやりとあの時のことを思い出していた。それは懐かしく、愛しい思い出であるけれど、できれば今日だけは封じ込めておきたいものだったのに。覚悟を決めるためにと馬のところに行ったのが逆効果となってしまったのかもしれない。
エミリオが何故急に暴れだしたのかは分からないけれど、また今日も馬があんなふうになってしまったらどうしよう。
暗い気持ちでそんなことを考えていると「エリカ!」という抑えられた、でも力のこもった強い声に呼びかけられて私はハッとして声のした方を見上げた。隣を歩いている陛下が眉根を寄せてじっとりと私を見下ろしている。
しまった。どうやら意識の飛ばしすぎで陛下の呼びかけに随分と気付けていなかったらしい。
「ごめんなさい。何?」
一度立ち止まり、慌ててそう訊ねると一緒に歩を止めた陛下が少し顔を顰めて右手を腰に当てた。そしてそのまま屈んで私の顔を覗き込んでくる。
綺麗な顔が至近距離に迫ってきて、濃い青の瞳が瞬きもせずにすっと細められた。息のかかりそうなくらいに近い距離。
なに? いきなりなんなのよ!?
その突然のことに驚いて私は思わず顔を横に逸らしてしまった。
なんだろう。
変な動悸がする。心の準備もなくこの顔に至近距離で見られるのはなかなか心臓に悪いらしい。
ここ数か月、毎日顔を合わせるようになってだいぶ見慣れたとはいえ、やっぱりこの顔は誰よりも綺麗だし、そんな顔がこんなに近くに迫って来たのは初めてだからだろうか。
私が顔を背けたまま、なんだか落ち着かず、かといって何故か言葉も発せずに固まっていると陛下の身を起こす気配と小さなため息が聞こえてきた。
まるで嵐が過ぎ去ったような気分で私もようやく詰まり気味だった呼吸を再開することが出来た。
「何よ」
やっと落ち着いてきた鼓動に、胸の上に当てた手をぎゅっと握り、顔をそむけたままそれだけ訊ねる。自分で意識していた以上に拗ねたような声になってしまった。
「お前、今日なんか変じゃないか?」
たっぷりと間を置いて、頭上から聞こえてきたのはそんな問いかけ。
「変?」
何をもってそんな事を訊ねるのか。私がその意図を測りかねて陛下の方を見上げると陛下は私の反応を探るようにじっと見据えていた。
「妙に大人しい気がする。普段うるさいお前が無駄口を一切叩かない」
「そりゃあ、私だって緊張してるもの。失敗するわけにはいかないでしょ?」
なんだ、そういうことか。そんな事ならわざわざ顔を覗き込まなくても聞いてくれればちゃんと答えたのに。そう思いながら少しぼやかした本音を漏らすと陛下はなんだかちょっとだけ考えるように口元に指を添えて小さく首を傾げた。
「お前はもっと考えなしに行動する生き物かと思ってたんだが」
「あのねぇ」
オルスのようにからかうでもバカにするでもなく本気でそう言っているようだ。そんな風に言われると確かに思い当る節がない訳ではない私は返す言葉もなくて、むむぅとと言葉を詰まらせた。するとそれを見た陛下は改まったように私に向き合って、確認するような真面目な顔になる。
「やめるなら今のうちだぞ。まだ引き返せる」
どうする? 陛下は私にそう問いかけてきた。
それはちょっと今更で、なにを言われたか一瞬分からず目をぱちぱちと瞬かせたけれど、陛下は変わらず真剣な表情のまま。冗談ではないようだ。最後のチャンスを与えてくれたのだろうか。
それは魅力的な誘いではある。けれど、そうすれば私たちの状況は不利なものになってしまう。
「ううん。引き返したりなんかしないわ。私の人生がかかっているんだから」
「人生、ね」
「そう。私はね、あのお城で優雅にのんびり暮らしていくの。こんなに恵まれた暮らし、やすやすと手放せるものですか。誰にも邪魔させたりなんかしないわ」
意気込んでそう言うと陛下はなんだか呆れたような、でも少し哀しげな色を含んだ眼差しを私に向けた。
「それは逞しい限りだが、お前が思っているほど城なんていいところじゃない」
「そんなの、知ってるわ」
陛下のその言葉の意味を、哀しげな理由を全てではないにしろ私は知っていると思う。けれど、
それでも私は取り戻したいと思った。
物心がつき始めたころからゆっくりと、アブレンの城で甘やかされて育ったティアとしての記憶が蘇ってきた。私はエリカであると同時にティアでティアは私だった。そんな私にとってエリカの庶民としての暮らしは辛く厳しいものだった。当たり前であったことが当たり前ではなかったことを知った。自分のことは自分でして、とにかく働いて休む暇もない。前世とはあまりにも違うその生活。
あんなに自由がなくてつまらないとばかり思っていた城での生活が、実は安寧に満ちた貴いものだったということを思い知った。
「一年足らずで何が分かったというんだ」
探るように陛下は瞳を細めたけれど、その本当の意味は話すべきことではないから私は曖昧に笑って誤魔化した。
「それよりも陛下こそ大丈夫なの? ちゃんとエスコート出来るでしょうね?」
「さぁ」
「さぁって」
「なんとかなるだろ。お前さえしっかりやれば」
陛下は面倒くさそうにそう言って諦めのようなため息を一度吐いた。
いや、それじゃダメだと思う。
貴方も真剣に演じてくれなきゃ。
何とも頼りにならない返答を返してきた陛下に私は若干不安を抱きながら「行くぞ」と歩き出した彼の隣に並んだ。
少しだけ歩いた先に貴族たちの待つ広場はあった。用意された簡易テーブルの上にはそこそこ見栄えのする肉やパンが置かれている。
陛下と私が姿を現すと談笑しながらそれを思い思いに口に運んでいた8人の男たちが一斉にこちらを振りかえった。その中には前に一度私の部屋の前で騒いでいた男の姿もある。どうやらアルフレッドの言うとおりのようだ。この男も前の言動から自分の娘を陛下のもとへ送り込みたいようだったし、他の7人も私と同じ年頃の娘がいてもおかしくないような年代だ。
「これは陛下。先に始めさせていただき申し訳ありません」
8人の中からスッと一人の男が前に進み出た。
それを陛下は手で制す。
「構わない。そう許可していただろ」
散歩がしたいからと数人の護衛と共に徒歩で森に入ることを望んだ私と違い、馬に乗って入った陛下と彼らは随分と前に到着していたらしい。どうやら陛下は食事をする前に私を迎えに来たようだ。そうか。寵妃を放っておいて優雅に食事なんて楽しんでたら怪しまれるものね。
「こちらが側妃様ですね」
「ああ」
陛下が頷くと、彼は私の前にやってきてにっこりと笑みを浮かべた。
「初めまして、側妃様。私はアーロンと申します。お目にかかれて光栄です」
アーロン。アーロン侯爵か。
事前に今日の出席者の名前はアルフレッドから知らされている。たしか、この男が今日の主催者だったはずだ。
「初めまして、アーロン侯爵様。エリカ・チェスリーです。本日はお招きいただきましてありがとうございます。どうぞよろしくお願いしますね」
私は意識して穏やかな微笑みながら、綺麗に整えられた髭が特徴のこの男と軽く握手を交わした。
にこにこと笑った彼とその後ろに控える男たちがさりげなさを装いながら私を見る。視線が痛い。
そして一通り眺め終わると彼らは満足そうに頷いた。こんな大した容姿でもない娘ならば害にはならないだろうといったところだろうか。すぐに蹴落とせる。きっとそう思われている。
けれど、私たちの握手していた手が離れた瞬間、横からすっと伸びてきた陛下の腕に私の体がからめ捕られ、陛下が私を抱き寄せたのを目にした瞬間、彼らはその深くしていた笑顔のままピシリと固まり、呆然と立ち尽くした。仕上げに、突然抱き寄せられて驚いたように私が顔を上げ、それに対して陛下が優しげに微笑んでみせるとアーロン候の口元がピクリと完全に引き攣ったのが見えた。
ふっ、参ったか。
これぞ“片時も離さぬ寵愛ぶり”。どう? 噂通りでしょう?
予定通りのアーロン候たちの表情の変化に私は勝利を確信し心の中でほくそ笑むはずだった。
ざまぁみろと舌をだす予定だった。
だけど、それなのに私はそれどころではなくなってしまって。
ピッタリと陛下の体に密着している感覚に私の心臓は何故だかドクドクと暴れ狂いだして、それを抑えるのに精いっぱいで。たったこれだけのことなのに、まだまだお芝居は始まったばかりだというのにもう演技どころじゃなくなってきた。そろそろ思考回路が壊れてしまうかもしれない。
こんなになるなんて、明らかに経験不足だ。
よくよく考えれば前世でパーティーに出席した時にはいつも父上か兄上がエスコートしてくれていたからこうやって身内以外の男の人と寄り添うのは初めてだし。
それに、父上とも兄上とも腕を組んで歩いていたからここまで密着していなかった。
あぁ、もう落ち着かない。早く離してほしい。だけどこの腕を振りほどくわけにはいかない。まさに生地獄。
大体、この人なにが「さぁ」なのよ。
悔しい。
なんだかすごく悔しい。
こんなことが自然にできちゃうなんて反則だ。
それに普段と随分態度が違う。陛下が微笑む姿なんて初めて見た。よくよく見れば口角を上げているだけだと分かるけれど、なんだかその顔を向けられるとそわそわする。
もう私、ダメかもしれない。いや、でも気を抜かずに頑張って演技を続けなきゃ。
私がそんな焦りにも似た何かを感じていた時だった。
「エリカ」
突然耳元で囁くように呼びかけられて、私はビクっと俯けていた顔を上げた。するとそこには屈んでいる陛下の顔があってさらに焦る。
顔に熱が一気に集まるのが分かった。もう嫌だ。勘弁してほしい。もう余計な刺激は与えないでほしい。馬のことばかり気を取られていてこちらの覚悟が足りなかった。というかこんなに自分が動揺するとも思っていなかったし何とかなるとすら思っていた。それなのになんでこうなるんだろう。
私は精一杯平静を装いながら「なに?」と小首をかしげて見せる。
すると陛下は再び私の耳元に口を寄せ、冷たい声で一言、「真面目にしろ」と忠告してきた。
真面目にって。そんなこと言われても。
私は頑張っているつもりなのにこれ以上どうしろと言うのよ。自分がちゃんとできているからってひどい。あんまりだ。
「私は精一杯やってるわ」
私も屈んだ陛下の耳元に口を寄せ、強がってそう言い返した。私と違って平然としている陛下になんだかすごく腹が立って、しかも真面目にやれだなんて言ってくる余裕っぷりが癪に障った。
だけど陛下は何故かぽんぽんと私の頭を小さく叩く。なによ? この人はまさかこの場で喧嘩を売るつもりなのだろうか。そう思って陛下を睨みつけようと動きかけた瞬間、「その調子だ」とやっぱり耳元で囁れて。
――あ
もしかしてこの人は普段の私を取り戻させたかったのだろうか?
だからわざと突き放すようなことを言って私を怒らせたのだろうか?
前にも一度あったもの。こんなこと。初めて陛下が私の部屋で夜を過ごした時もそうだった。
優しさ、なのだろうか? この人はそういうのが分かりにくい。
一瞬湧いた怒りで緊張感が薄れて平常心が戻ってくるのがわかった。
そっと深く息を吸って吐き出してみる。
うん、なんだか大丈夫になってきた。まだ心臓はドクドクトうるさいけれど、私、頑張れる。
顔を上げて陛下にニッと笑いかけると陛下は肩をすくめて小さく、本当に小さく口元に弧を描いて見せた。
それが本当に偽物の微笑みなのか、私には分からなかった。




