二三、ティアの最期
シャラシャラと音が鳴る。
自慢の、背に流した黒髪に刺している髪飾りが揺れている音だ。
数年前に亡くなった母上の形見であるこの髪飾りは私のお気に入り。数本の、銀を細い鎖状にしたものに多数の小さな宝石が散りばめられているそれはとっても綺麗で私の髪の艶やかさをより引き立たせてくれる。
私はこの南の地に適した薄い生地のドレスの裾を持ち上げ、パタパタと小さく足音を鳴らしながらアブレン城の回廊を走っていた。
風通しが良いようにと城をぐるりと囲うように巡らされたこの回廊はどの部屋へ行くにも通ることになるから当然城に仕える沢山の人とすれ違う。
けれど行き交う人、皆がこの国の王女として生まれた私を目にすると、さっと脇によけて頭を垂れるから私は行く手を阻まれることなく進むことが出来る。
途中、私の幼いころからの世話役である侍女の、「姫様、はしたないですよ」と走る私を窘める声が聞こえてきたけれど適当に返事をして通り抜けた。
目的は私の部屋とは正反対の位置にある皇太子の間。
「兄上!」
城の内部まで駆け抜け、目的地に辿り着いた私はノックもせずに勢いよく扉を開ける。
すると中に居た、私と同じ長い黒髪を頭の高いところで一つに結った、線の細い後ろ姿が吃驚したようにこちらを振り返った。
「……ティア。君はもう子供じゃないんだよ。もう少し淑やかにしなさい」
私の姿を認めた兄上は少しだけ諌めるように、その柔らかな青色の瞳を厳しいものに変えてそう言ったけれど、兄上が誰よりも私に甘いということを知っているからそんなものは効かない。私はそんな兄上の傍まで駆け寄りその腕を軽く引っ張った。
「分かってる。お小言はいいのよ。ねぇ、それよりも早く出かけましょう! 私、兄上と遠乗りに行くのずっと前から楽しみにしてたんだから。ね?」
随分と前、久々に遠乗りにでも行こうと、そう言いだしたのは兄上だった。特別に時間を作るから、と。
その言葉は普段、城の外に出る機会のない私にとってはとても嬉しいものだった。
なかなか叶わなかったけれど、今日遂にと思っていたのに。
なんだか兄上の様子がおかしい。気まずそうに苦笑いを浮かべている。
もしかして。
私はなんとなく嫌な予感を感じて兄上の顔を覗き込んだ。
そんな私に兄上は小さくため息をついてなんだか言いにくそうに口を開く。
「それなんだけど、ごめん。急な客があってね、行けなくなってしまったんだよ」
「えぇー! そんなの嫌よ。今日こそは行けるって、約束してたじゃない」
そんなの聞いてない。私は兄上の腕を握ったままだった手にぎゅっと力を入れて抗議の声を上げた。
そんな私に兄上は困ったように小さく苦笑をする。
「また今度、必ず埋め合わせはするから」
「そんなの」
納得できなくて、さらに食い下がろうとする私に兄上は首を左右に振って今回は私がどんなにお願いしても無理なのだと伝えてきた。
むむぅと膨れてみたけれどやっぱり兄上は折れてはくれない。ただ、宥めるようにその指先で私の髪を梳くだけ。
シャラリ、と髪飾りが小さな音を立てた。
「私も本当は行きたかったんだけどね。……君と出かけられることも、もうそう多くはないだろうし」
「決まりそうなの? 私の結婚」
兄上のその悲しげな静かな声に、私はその意味を理解して問いかけた。
まだこの国に居たくて、このお城に居たくてずっと嫌がっていたけれど、女としては適齢期を過ぎ始めた最近、私の結婚話はいよいよ現実味を帯び始め、とうとうそれは抗うことが出来ないものとなっていた。
だから兄上が遠乗りに誘ってくれたのも、そういった背景があるからだと私も感じ取っていた。
「今は父上が検討しているところだよ。そう遠くないうちに決まると思う」
「……そう」
「嫌かい?」
兄上が気遣うように私を見る。
だから私は兄上の腰にギュッと抱き着いて心配させないように顔を兄上の胸に押し付けた。
「大丈夫。いつかは、と思っていたもの。それに兄上は私がどこに行っても必ず見守っていてくれるわ。もし、私がひどい扱いを受けるようなことがあれば、きっと兄上が助けに来てくれる」
そうでしょう?と顔を上げると、私なんかよりもずっと寂しそうな兄上が「勿論だよ」と悲しげに笑って頭を撫でてくれた。
仕方がないと、諦めるしかないのだろう。これが王家に生まれたものの運命だと分かっている。私の結婚によって少なからず国に益を成す。寂しさと不安は勿論あるけれど、それを考えたってどうしようもない。
私は殊更明るく「それなら心強いわ」と笑顔を作った。
そしてすっかり忘れていたことを思い出してぱっと兄上から離れる。
「そうだ。今日の遠乗りにね、義姉上もお誘いしていたの。折角だから今日は2人で行ってきてもいい?」
「イオラが?」
「ええ。さっきね、たまたま会って遠乗りのことを話したらどうしても一緒に行きたいとおっしゃって。もうね、先に厩舎の方へ行って待っているって。今更、無しになっただなんて言えないわ。ね? いいでしょ?」
1年前、アブレンに兄上の妃として迎え入れたのは隣国の王女であるイオラ様。
いつも私とは少し距離を置いて静かに笑っているだけの義姉上がめずらしくこうしたいとおっしゃったから、是非ともご一緒したいと思った。兄上が来ないと知ったらがっかりされるかもしれないけれど。
それでも、と許可を貰おうとそんな提案をした私に兄上に「ダメだ」と何故だか強張ったような声で断言されてしまって私はハッとした。
いつの間にやら兄上は先ほどとは打って変わって厳しい表情をしている。
「何故?」
私がそう尋ねると、兄上は俯き、額に拳を当て、何やら考え込むようにきつく目を伏せた。
そして、しばらくそうした後、再び瞳を開けた兄上はその顔を辛く苦しそうに歪めて絞り出すような声で沈黙を破る。
「ティア、私はもう……」
それは何か苦悩を湛えているようで。
けれどその言葉は途中で途切れてしまって、続きを待ってみたのだけれど、そのまま兄上は黙り込んでしまった。
「どうしたの?」と訊きたかった。
でも、もしかすると、兄上は私の名を呼びかけはしたけれど、本当は私にそれを語りたかったわけではないのかもしれない。そんな気がして私は続きを問うような声を敢えてかけず、そのまま傍らに佇んでいた。
そのまましばらく兄上の様子を窺っていると、一度、私の顔を見て無理やり何かを吹っ切るように小さく笑った。
「いや、信じることも大切だな」
「兄上?」
信じるって何を? 何かよくないことが起きているの?
兄上のそんな様子に何か得体のしれない不安が私に襲いかかってきた。そんな私を安心させるかのように兄上は私の頬に手を滑らす。
「何でもないよ。行っておいで、ティア。ただし気を付けて。ちゃんと馬丁の言うことを聞くんだ。いいね?」
「……うん。ねぇ、本当にいいの?」
さっきはダメだと言ったのに。なぜ意見を変えたのだろう? 釈然としないものを感じて私はそう問いかけた。すると兄上はにこりと笑う。
「ああ、いいよ」
それならさっきのはなんだったのだろうか? そう思ったのだけれど折角行ってもいいと言ってくれているのだからその言葉に甘えよう。
「じゃあ、行ってくる。でも次は絶対に兄上も一緒だからね。早く時間を作ってね」
「分かってる。さぁイオラが待っているんだろう? 早くお行き」
「はい。ねぇ、兄上」
「なんだい?」
「私、兄上のこと大好きよ」
だから元気を出してね。私は笑顔でそう言ってくるりと振り返りドアに駆け寄った。そして少しだけ開けたそれから外へと身を滑らせ、部屋の中でやれやれと笑っている兄上に手を振った。
「じゃあ、行ってきます」
そしてパタンとドアを閉める。
何故だか、まだ拭いきれない不安が胸の奥にあるけれど、私はそれを気にしないことにして一人、厩舎の方へと向かった。
*―*―*
「義姉上、お待たせしてしまってごめんなさい」
城の片隅にある厩舎の前に見知った人影を見つけて私はそう声をかけた。
癖のある長い黒髪を背に流した、褐色の肌の女性がこちらを振り返った。髪と同じ黒の瞳で私をジッと見つめて、不思議そうに首を傾げる。
「いいえ、大丈夫です。あの、ヘリクス様は?」
「兄上は急なお客様があって来れないんですって」
「そう、……ですか」
瞳を伏せ、小さく息を吐き出した義姉上は残念そうにもどこか安心しているようにも見える。
さっきの兄上の様子もおかしかったし、もしかしてこの2人は何かあったのだろうか?
そう思って義姉上に「ねぇ」と声をかけようとしたときに、厩舎の奥の方から髭を生やした初老の馬丁が姿を現した。
「やぁ、姫さん。もう準備はできましたかい?」
「こんにちは、マルコ。すぐにでも出発出来るわよ」
「殿下の姿が見えないようですが」
マルコは左右に首を巡らしながら兄上を探している。
「兄上は来れなくなってしまったの。だから私たち2人だけお願い」
「そうですか。それは残念でしたね。では、姫さんのクレメント号と、そうですなお妃さまにはファビアン号を連れてきましょう」
出された馬の名にえぇ、と頷きかけた私は、急にいいことを思いついてマルコの後姿に声をかけた。
「ねぇ、マルコ。私、今日は兄上のエミリオ号がいい。クレメントじゃなくてエミリオを連れてきて」
いつも乗っている栗毛のクレメントも穏やかで乗りやすい馬だけれど、たまには気分を変えてエミリオの方に乗るのもいいかもしれない。兄上の黒馬エミリオ号は少し気位が高くて扱いづらいところもあるけれどきちんと乗りこなせばとても乗り心地がいいうえにスピードもでて楽しい。
マルコは振り返って戸惑ったように私を見る。
「エミリオ号ですか? しかし、殿下の許可がなければ」
「後で兄上には言っておくから。ね? お願い」
「ティア様! それは」
難色を示すマルコに私が手を組んでお願いしていると、突然、横から焦ったような声が聞こえてきて私はそちらに視線を向けた。
少し青ざめた様子の義姉上が私に何かを懇願するような眼差しを向けている。
「どうかされたの? 義姉上?」
そう訊ねるとハッとしたように「いえ、何も」と義姉上は小さな声で呟いた。
それに対して私が首を傾げていると、マルコの溜息が聞こえてきた。
再びマルコに視線を戻すと、肩をすくめて他の馬丁に何やら指示を出している。
「仕方がないですね。どうせ姫さんはこうと言い出したらきかんのですし、今回は特別にエミリオ号を出しましょう。ちゃんと帰ったら殿下に報告しておいてくださいね」
「やったぁ。ありがとう、マルコ」
そしてすぐにエミリオ号とファビアン号、それから今日のお供になってくれるマルコや護衛を勤める武官たちが乗ることになる馬が連れてこられた。
私はすぐにエミリオに近づき足をかけてヒラリと跨る。エミリオは小さく嘶いただけですぐに大人しくなった。
うん、大丈夫そう。
皆が馬に乗ったのを確認し、先頭に立つマルコの馬が歩き出したのを見て、私もエミリオの腹を軽く踵で蹴った。するとエミリオがゆっくりと足を踏み出す。
軽やかに体が揺れ始めた。いつもよりぐっと高くなった視界は見晴らしが良くて気持ちがいい。
そのまま城門を潜って外へと出る。久々の城外だ。
「ところで姫さん、今日はどこに行きましょう」
解放感に軽く伸びをしていた私に、こちらを振り向いたマルコがそう訊ねてきた。
「そうね。あの丘に行きたいな。義姉上にもぜひ見ていただきたいわ。とても景色が綺麗でね、私と兄上のお気に入りの場所なの。きっと義姉上にも気に入っていただけると思うわ」
どうかしら?と私の隣に並んでいる義姉上の方を見ると義姉上は何やら硬く強張った様子で、私はそれを不思議に思って首を傾げた。
「あの、義姉上。ご気分でもお悪いの?」
そう訊ねてみたけれど、全く聞こえていない様子で返事はない。
「義姉上?」
もう一度声をかけるとやっとそこで気が付いたようで義姉上は強張った顔のままこちらを向いた。無言のまま、「何?」と瞳で問いかけてくる。
「行き先は景色の良い丘でどうかなと思って。でも体調が悪いのなら少し休憩しますか?」
「……え、えぇ。丘で大丈夫です。でも、ちょっと休憩したいかもしれません。いいですか?」
「勿論、いいわ」
「じゃあ、あの辺りで休むことにしますかの」
マルコが少し先のちょうど街を出た辺りを指さした。
そこは此処からすぐにたどり着ける位置だった。元からあまりスピードは出していなかったけれど、さらに減速させるために軽くエミリオの手綱を引く。
別に、いつもしていることと変わりのない動作だった。
それなのに、
その瞬間、エミリオが鋭い声で嘶いた。
――おかしい
そう感じた。
エミリオは普段こんな声で啼かない。少なくとも私は聞いたことがない。
異変が起きている。
そう瞬時に感じ取った私よりもマルコの反応は早かった。
素早く私の方を振り返り、エミリオの様子を確認している。
そして、
「姫、早くこちらへお移り下さい!!」
そんな叫び声が聞こえた。
前からこちらへ目いっぱい伸ばされたマルコの手に私も手を伸ばしたかった。
けれど、私がそうする前にエミリオは何か苦しげに暴れながら、スピードをみるみる上げていった。
何が起こっているのか分からない。
分からないけれど、今の状況がとんでもなく危険なものだということだけは分かる。
叫び声を上げることすらできず、必死にエミリオにしがみつく。
「姫様」と後ろの方から護衛たちの声が聞こえる。でも、後ろから聞こえてきていた蹄の音はみるみる小さくなっていった。誰も、エミリオに追いつけないんだ。とっても早い馬だから。
恐怖が私に襲いかかってきて、私は硬く目を瞑った。なんとか振り落とされないように指の先にまで力を込める。
けれど、それも長くは続かなくって、
もう、だめ。
離したくはないのに。もう少しの間、耐えなきゃと思っていたのに、
するりとエミリオから手が離れた。
後ろへと、体が宙を舞う。
それだけはやけにゆっくりと感じられた。
そして、次の瞬間、背中と頭に強く鈍い痛みを感じて。
遠くに消えていくエミリオの足音と共に次第に私の意識は薄れていった。
これが私の、ティアの最期の記憶――