二一、眠れぬ夜
「それでは、おやすみなさいませ」
夜も更け、眠る準備が整うとマリアをはじめとする私付きの侍女たちが部屋から出て行った。
シンと静まり返った暗い部屋に残されたのは私一人。
もぞもぞとベッドの中に潜り込んでみたものの全く落ち着かず、何度か寝返りを繰り返した挙句に私は諦めて上半身を起こした。
今日はとっても疲れた。
ここ最近ではあり得ないくらいにたくさん歩いたし、それにいろいろあった。
そう、いろいろ。
私は明日、どうなっているんだろう。
そう思うと疲れてはいるけれど、とてもじゃないけれどゆっくり眠れるはずがない。
あーぁ。
なんだかとんでもない失敗をしてしまった自分に呆れ果てて、もう一度力なくポスンと後ろに倒れると柔らかなマットが一度弾んで私を受け止めた。
見上げれば華麗な花模様の天蓋が暗闇の中ぼんやりと目に映る。
城下で暮らしていた時には全く縁のなかった、いかにも豪華なそれ。
折角、手に入れたと思ったのに。
この寝心地のいいベッドも、この広くてゆったりとした清潔感のある部屋も、暇を持て余すほどに何不自由ない豪華な暮らしも。
ただ一度お城から抜け出したというだけで全てなかったことにされるなんて。
でも、
私はこのまま、ただ大人しくお咎めを待つだけでいいのだろうか。
もうこのまま諦めてしまっていい?
ごろんと隣に転がりながら考えた。
そんなの、ダメだと思う。
このまま何もせずに待っていても、きっと私にとっていいことは何もない。
どうせ追い出されてしまうのなら、今出来るだけのことをやってしまいたい。
そうしないと私はきっと諦めきれない。
うん、そうだ。
なんで何もせずに私は落ち込んでいたんだろう。
ちゃんと最後まで頑張らなきゃ。
私に出来るだけのこと、しなくっちゃ。
そう思い立つとさっきまでしぼんでいた心が急にやる気に満ち溢れてきた。
私はこの勢いに乗せて体を起こし、するりとベッドから降りて夜着の上からショールを羽織った。そしてそのまま明かりを手にして廊下へと飛び出す。
とりあえず狙いはアルフレッドだ。
彼に一度ちゃんと謝って許しを乞うてみよう。
プライド? そんなもの要らないわ。城下でみじめな暮らしをするよりも一度くらい土下座でもしてこの王城にしがみついているほがずっといい。
何を考えているのかよく分からない彼だけれど、今まで何度か私の味方をしてくれたし、もしかしたら今回も執成してくれるのではないだろうか。
勝算は0ではないはず。
私は先ず陛下の執務室を目指すことにした。
アルフレッドが居そうな場所といってもそこくらいしか思い当らなかったから。
一人で長い廊下を右に左に曲がりつつ歩く。
月明かりさえ届かないその廊下は一定の間隔で置かれている燭台と手元の明かりだけが頼りで、勢いのあった最初はよかったのだけれどだんだん心許なくなってきた。
それに、一度行っただけの執務室の場所はぼんやりとしか覚えてなくてこの方向であっているのかさえも自信がなくなってくる。
そんな時だった。
「おい、何やってんだよ。バカ女」
誰もいないと思っていたのに突然、後ろから声が駆けられて私は思わず竦みあがった。
でもすぐにこの声の主に思い当って、抗議するために勢いよく振り返る。
この声は――
「バカバカバカバカうるさいわよ! オルス」
やっぱりそこにはオルスがいて、苦々しい顔で私を見ていた。
「だってお前バカだろ?」
違うか?とむしろ当然のことのようにこちらに問いかけてくる。
「バカじゃないわよ! まったくもう、なんであんたがここにいるのよ。嫌になっちゃう」
「それはこっちの台詞だ。オレは誰かさんのせいで仕事が溜まっててやっと解放されたところなんだぞ。それなのに何でその誰かさんが目の前に現れるんだよ」
オルスが苛立たしげに頭を掻き、私をきつく睨みつけてきた。
そう言われれば、こいつは昼間、ずっと私たちの後をついてきていたわけで、もし何かやらねばならないことがあったのならそれを放り出して来ていたことになる。別に私が頼んだことではないけれど、まぁ多少なりとも迷惑はかけてしまったのだろう。
「とっても癪だけれど私にも非があったことは認めるわ。ごめんなさい。それからすっかり忘れていたけど今日は助けてくれてありがとう」
本当はこんなこと言いたくなかったから視線を逸らして一気にそう言った。どうせこいつのことだから後で恩着せがましくふんぞり返るかまたは嫌味たらしくチクチク言ってくるかのどちらかだろう。それならばその前にこっちからさっさと言ってしまって話を済ませてしまった方がいいと思ったのだ。
それなのに、視線を戻せば何とも呆けたような顔のオルスがそこには居た。
「なによ、その顔」
「いや、お前が素直だとなんだか気持ち悪いなと思って」
「失礼ね。私はいつでも素直じゃない」
「それは知らなかったな。で? お前はこんなところで何してたんだ?」
そう問いかけられて、最悪だとばかり思っていたこいつとの遭遇が意外と使えるということに気が付いた。
「ああ、そうだ。ねぇオルス、アルフレッド様が今どこにいるか知ってる?」
「アル? アルならオレも今探してるところなんだ。ったく、陛下もいないしどこに行ったんだか」
「じゃあまだお城の中には居るのね?」
「あぁ、帰ってはいないはずだが」
よし。まだ城内に居るのなら良かった。まだチャンスはある。さっそくオルスに付いていって探さなくっちゃ。
私が意気込んでいるとオルスが急に顔を顰めた。
どうしたんだろう?
私はその表情の変化に戸惑ってこくりと小さく唾を飲み込んでオルスの様子を窺った。
「お前、アルに何の用だ? まさか陛下に相手にされなかったからって今度はアルを狙う気か。無理だろ、お前じゃ。もう一遍鏡をよく見てみろよ。大体、夜着姿なのに色気0ってお前重症だぞ」
何かと思ったらまったくもう! こいつは!
「失礼ね! 違うわよ。私がそんな事するわけないじゃない」
なんでそういう解釈をされなければならないのか、私が地団駄を踏みながら叫ぶと、オルスはじゃあなんだよと言いたげな目でこちらを冷たく睨みつけてくる。
もう嫌だ、こいつ。
「今日のことちゃんと謝って許してもらおうと思ったの」
「許してもらえると思ってるのか? おめでたい奴だな」
心底呆れたようにオルスがそう言った。
「やってみなきゃ分からないじゃない」
「さっさと諦めてもう出て行けよ」
「絶対に嫌! それにここから追い出されたら私、路頭に迷わなきゃならないじゃない。可哀そうだと思わないの?」
「それならうちの屋敷で雇ってやろうか? 住み込みなら路頭には迷わないだろ」
オルスはニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。こいつ絶対に私をこき使う気だ。貴族のお屋敷はハッキリ言って美味しい話ではあるけれども、それだけは嫌だ。
「お断りします。冗談じゃない。あんたのところで働くならまだ迷った方がマシよ」
「可愛くないな。折角オレが親切で言ってやってるのに」
「親切にしてくれるなら少しでも私がお城に残れるように協力して頂戴!」
「そんなことするわけないだろ」
「こいつっ」
「何をしているんです? 二人とも」
突然そんな声がかけられて、不毛な争いを繰り広げていた私たち二人はハッとそちらの方を見た。
廊下の奥の方から二つの明かりがだんだんと近づいてきて、次第と後ろの人影がはっきりとしてくる。
それは、私が探していたアルフレッド(と陛下)だった。
彼らは私たちの傍まで来ると足を止める。
まさかこっちが探す前にやってきてくれるとは。もしかして運は私に向いているんじゃないだろうか。
「良かった。アルフレッド様を探していたんです」
「どうか、されましたか?」
にっこりと笑顔で問うアルフレッドの横で、陛下がピクリと片方の眉を吊り上げたのが見えた。
陛下には私が何をしようとしているのか分かったのかもしれない。私を追い出そうとしている陛下にしてみればさぞかし私は要らぬことをしているように見えるだろう。でも、そんな陛下に気なんか使っていられないから、私は彼を無視してアルフレッドにのみ視線を向ける。
よし。
すぅっと息を吸って、用意していた言葉を口にする。
「あの、今日はどうもすみませんでした。許可もなく城外に出たこととご迷惑をかけたことは深く反省しております。もうこのようなことは絶対に致しませんのでどうぞ今回は許していただけないでしょうか。お願いします」
私はスゥッと前世仕込みのたおやかな動作で深く頭を下げた。
「いいですよ」
「え?」
あまりにもあっさりとしたその返答は、もしかすると聞き間違えだったのかもしれないと思わせるほどのもので思わず聞き返してしまった。
いいの?
そんなに簡単でいいの?
というか私、今まで何を落ち込んでいたの?ってくらいあっさりなんだけど。
「今回は大目にみます。陛下もそれでいいということですし」
「陛下も?」
なんで陛下が? 陛下は私を追い出したかったのではないのだろうか?
だからわざと私を城から出したのだと思っていたのに、それは違った?
どういうことなのかよく分からなくなって陛下の方を見れば、
「俺はどうでもいいと言っただけだ」
と言ってプイッとそっぽを向いてしまった。
どうでもいい。確かにそう陛下は言っていたのを思い出す。そして私を積極的に追い出すとは言っていなかった気がしないでもない。なんだか勝手になるようになってろみたいな。
これはもしかして私はあらぬ誤解で陛下を責めていたのだろうか。
いや、でもオルスがいたことを黙っていたのはやっぱり私を騙していたということだし。
だけど、とりあえず拒否されなかっただけでも私にとっては十分な助け。
「ありがとう」
私は俯いてそう呟くように言った。
なんだか今まで責めていた分とても気まずくて、でも言わずにはいられなかったから。
「ではもう遅いですしお部屋に戻って休まれてはいかがですか?」
顔を上げるとアルフレッドが「さぁ、これで解決だ」と晴れ晴れとした笑顔でそう促してきた。
確かにもういつもなら眠りについている時間だ。
「ええ、そうさせていただきます」
そう答えるとアルフレッドは「それでは失礼しますね」と言って陛下とオルスを連れて向こう側へと去って行こうとした。
「ちょっと待って」
それを見た私はとっさに引き留める。
「どうかされましたか?」
アルフレッドが不思議そうにそう訊ねてきた。
出来れば、あんまり注目されたくないのだけれど3人の視線はまっすぐ私に向かっていて、少し怯みつつ私は出来るだけ遠回しになるように陛下に訊ねた。
本意には気づかれたくない。
「ねぇ、陛下は今からどこに行くの?」
「何故だ?」
何故? やっぱり言わなきゃダメ? すっごく嫌なんだけど。
「あの、ね。あの、静かすぎる部屋は落ち着かないというかなんというか。つまりその……」
「まさか一人は寂しいから陛下も来いって言ってるんじゃないだろうな?」
「うっ」
オルスによってあまりはっきりとは突かれたくなかった図星を当てられ私は言葉を詰まらせた。
さっき、一度ベッドに入った時に眠れなかったのは明日下されるはずだった私の処分が気になったからだった。
けれど、本当はもう一つ。
耳に痛く突き刺さる静寂と窓から月明かりが少し差し込むだけの、ほとんど真っ暗な空間もまた私を堪らなく落ち着かせなくさせたのだ。
別に私にとって一人で眠るのは当たり前のことであったはずなのに、ここひと月ほどは眠るときに常に陛下の気配があったから、急に私一人きりになると不本意ながら寂しいと思ってしまった。
そんな私を陛下は呆れたような瞳で見つめてくる。
「お前はどこの子どもだ」
「いえ、陛下。この場合女性として誘っているのだと判断した方がいいのかもしれません」
「なんてふしだらな女だ。いい加減にしろよ、このバカ」
ため息交じりに言った陛下に、アルフレッドとオルスが何とも私の思考とはかけ離れたことを陛下に吹き込んでいる。
「そんなんじゃないの! 私はただっ。……もういいっ。忘れて。じゃあね、おやすみなさい」
そんな気はこれっぽっちもないのに。陛下には今でも大切な人がいることを知っているのにこんなことを言われて、私はとんでもなく恥ずかしくなって逃げ出すことにした。
きっと、ほんの気の迷いだ。本気を出して眠ろうとすれば眠れないことはないはずだ。
今日はとても疲れているし。
私は陛下たちの視線を避けるようにして自分がやってきたと思われる方向に向かってさっさと歩を進めた。
だけど、すぐに私は呼び止められる。
「エリカ」
「何よ!?」
ええい! もうさっさと部屋に戻らせてほしいのに!
「お前の部屋はあっちだ」
あれ? おかしいな。
私はカッカとした頭を少し落ち着かせて明かりをかざしながらあたりを見回してみた。
あっちも、こっちも、そっちも全て同じに見える廊下。
方向感覚が一度狂ってしまうとよく分からなくなってしまうのだ。
そんな私をしり目に何故か陛下が私が進むべきらしい方向へと歩みだした。
そして私のほうを振り返って一言。
「ほら、行くぞ」
「え?」
行くって……
「陛下も来るの?」
私は小走りして陛下の横へ行き、半信半疑でそれを確認する。
すると陛下は、不本意そうにムスッと顔を歪めて小さく溜息を吐き出した。
だけど、
「一人だと寂しいんだろう?」
そう言った陛下の顔は『仕方のない子だ』と私の我が儘をしぶしぶ聞き入れたときの兄上の表情になんだかそっくりで、
「そんなこと、ないわよ」
私は再び恥ずかしさで赤らんだ顔を見られないようにプイッと横に顔を逸らした。
「ねぇ、オルス。あなたはあれをどう思います?」
「あいつの尻尾を掴むためとはいえ陛下が不憫すぎる」
「……それなら、良いのですけどね」




