十六、零れ落ちた言葉
しまった。
ここが大通りだということをすっかり忘れていた。
中央広場へと続くこの道は今、たくさんの人で溢れているというのに!
大きな声で「城」だのなんだの言ってたら陛下の正体がわかってしまうかもしれないじゃないか。
陛下と共に一瞬動きを止めた私はゆっくりと首を回して恐る恐る辺りを見回してみた。
よし、大丈夫、かな?
道行く人が興味深そうに言い争っていた私たちを見てはいたけれど、どうやら周りのざわめきのせいではっきりとは話の内容を聞き取れなかったようで視線を進行方向へと戻してそのまま過ぎ去って行く。
私はホッと胸をなでおろした。
「ごめんね、マリア」
「いいえ。でも気を付けてくださいね。さすがに気付かれたらすごい騒ぎは免れませんから」
「ええ、分かってる。ところでマリア、買い物は大丈夫だった? 任せてしまってごめんなさいね」
「元々わたくしが無理に行くと言ったのですから大丈夫ですよ。珍しくて美味しそうなものがたくさんあって迷ってしまいました。お祭りって雰囲気も食べ物も何もかもが独特で楽しいものですね」
そう言いながらマリアは買ってきたものを一つずつ袋から取り出し、それをテーブルの上に置いて行く。
お肉、ソーセージ、ポテト、小さなカップケーキ、それに、
「わぁ! フエトがある! 私、ずっとこれを食べてみたかったの」
「そうだったんですか? それなら買ってきてよかったですわ」
お肉とたっぷりの野菜、それに特製ソースをかけて薄く焼かれた生地で巻いたもの。美味しそうなそれにいつも心惹かれていた。いつか必ず食べてやると思っていたけれどいざ実現すると感慨深いものがある。
マリアが手を瞳を輝かせる私にフエトをさぁどうぞと差し出してきた。
「ありがとう、マリア」
「どういたしまして」
そうにっこりと笑うマリアの顔を見て私はなんだか胸が痛くなった。
マリアは私の我が儘に巻き込まれていると陛下は言っていた。それに対してマリアは最初こそお小言を言っていたけれどそれでも彼女なりの精一杯で私のために動いてくれている。
謝るなら、きっと今。
私は陛下を掴んだままの手とは反対の手でフエトを受け取りながら切り出した。
「あの、マリア」
「なんですか?」
「巻き込んでしまってごめんなさい。マリアの立場のことなんて何も考えてなかったの。この人に言われるまで思い至らなかった」
陛下、と呼べない代わりに視線で彼を指し示した。
もうどこかへ行く気はなくしたのか、彼はそんな私たちを立ったままぼんやりと見つめていた。
「お気になさらないでください。こうやって無理にでも連れ出してくださらないとわたくし、きっと花祭りになんて一生来ることがなかったと思うんです。だからよかったと思うんですよ。さぁ、せっかく来たんですから思いっきり楽しんで帰りましょうね?」
本心か私への気遣いからか、マリアはそう言って私を励ますように笑った。
私はそれにコクリと頷く。
とりあえず見つからないように、マリアにも楽しんでもらわないと。
「って、そのせいで先ほど言い争っていらしたんですか?」
そこで気が付いたようにマリアのそんな声があがって私は慌てて首を左右に振った。さらに罪悪感まで持たせるわけにはいかない。
「あっ、それは違うの」
「マリア、この変な女の頭をどうにかしてくれ。もう俺には訳が分からない」
そこで陛下がうんざりとしたような声で溜息をつく。
「変って何よ。私はただっ」
「お二人とも、落ち着いてください。とりあえず椅子に座ってからお話ししましょう?」
また場をわきまえずに声を荒げようとした私にマリアがにっこりと笑顔でそう促してきた。いけない。またやってしまうところだった。それに隣に座る場所があるのに立ったまま話をするのはたしかに不自然で、そうした方がいいと同意して私は陛下を掴んだままだった手を放して二人と一緒にテーブルセットの椅子へと再び腰を降ろした。3人掛けの丸テーブルを囲む。
「で? どうされたんですか?」
まず、状況を把握しようとするようにマリアがそう切り出した。
その問いかけに陛下も一緒になってじっとこちらを見る。どういうことか説明してもらおう、と言いたげな視線だ。
でも、いざ促されるとどう言えばいいのか分からなくて少しの間逡巡した。いろいろ考えた末、下手なことは口走りたくないから簡単に短く説明することにする。
「私はただ彼の失われた感情を取り戻さなきゃって思っただけよ」
その私の言葉にマリアが陛下の方へと視線を向けた。そして困惑気味の顔で小さく首をかしげる。
「失われた感情、ですか?」
「ええ。だって人形みたいなんですもの、この人。笑ってるところを見たこともないし。あそこでみんなの望むまま生きて自分を失ってしまったとしか思えないわ。だから今日はのびのびと楽しんだ方がいいと思ったのよ。ねぇ、マリアもそう思わない?」
「自分を失うって、それはこの方のことを言っているんですか?」
マリアが今度は私に視線を戻してそう問いかけてくる。他に誰がいるというのだろうか。私はコクリと大きく頷いて見せた。
するとマリアが困った顔で苦笑いをする。そしてゆるく首を左右に振った。
「それは誤解ですわ、エリカ様。大臣の皆様からも我が儘だと言われているこの方が自分を失っているはずがないじゃないですか」
「え? 我が儘なの?」
それは一体どういうことだ。
この人、私には我が儘言うなって言ったよね!? それなのに自分は大臣たちを困らせてるってどういうことよ!?
聞き捨てならない言葉が聞こえて私は立ち上がらんばかりの勢いで身を乗り出してマリアにそう訊ねた。
マリアが驚いたように少し身を引いた。
「ええ、まぁ。そうは言ってもエリカ様もご存じのとおりお妃さまを娶らないってことくらいですが、それも自分というものを失っていたら拒めるものではありませんでしょう?」
ね? だから大丈夫ですよとマリアが私に笑いかけてくる。でも、私はその言葉を聞いて納得するよりも先に反感を覚えた。
なんで私だけっ。
私は隣に座り、頬杖をついて話を聞いていた陛下へとキッと視線を向けて睨みつける。
「私には我が儘を言うなって言ったくせに、貴方だって我が儘なんじゃない。責められ損だ」
陛下の眉間に皺が寄った。
「また訳の分からないことで怒り出すな」
うんざりとしたようにため息をつく。この怒りを受け止める気もないようなそのしぐさが私の怒りを膨れ上がらせる。
「訳分からなくない!」
「とにかく、余計なおせっかいは不要だ。もう馴れ馴れしくするな。迷惑だ」
「ええ。ちゃんと分かったわよ」
フンっと鼻息荒く私はそっぽを向きながらそう言い放った。
もういい。こんなやつ放っておこう。
人に偉そうに説教した挙句に無駄な心配までさせやがって。なんかムカつく。
消化しきれない怒りが収まらなくって、とりあえず目の前に置いていたフエトに手を伸ばした。気を取り直して、せっかくマリアが買いに行ってくれたものだから温かいうちに食べよう。
でも、私の手がフエトを掴んだそのとき
「もし、本当に感情を失くすことが出来るのなら楽になれるのだろうな」
隣からまるで心の声が零れ落ちたようなそんな呟きが聞こえて私はハッともう一度陛下を見た。だけどキラキラと輝く髪と頬杖をした腕によって顔を隠されてしまっていて表情がみえない。
私は急に先ほどまでの怒りがしぼんでいくのを感じながら陛下のそんな姿をじっと見つめた。
「なによ、それ」
『ティア、私はもう……』
何故かあのティアとしての最後の日の朝、兄上が浮かべた辛く苦しそうな顔が頭を過る。
あの時、兄上は何を伝えたかったのだろうか。
そして、陛下は何故こんなことを言うの?
訳が分からない。
もしかすると陛下は人形のように感情を失くしてしまうことを望んでいるのだろうか?
何故?
『楽に』なりたいと思うほどなにがそんなに辛いのだろう?
出会って、ちゃんと接するようになって、まだ日の浅い私には分からない。
分からないけれど、
「ねえ」
私は隣に座る陛下に声をかけた。顔を上げた彼が「何だ」とこちらを見る。私はその口元に手にしていたフエトを押し付けた。
「絶対に美味しいから、あげる。ね?」
虚を衝かれたように少しだけ目を見開いた陛下へ私は笑顔を向ける。
なんだかオルスが陛下陛下と言っている理由がわかった気がする。
この人にはなんだか放っておけないものがある。つい、手を差し伸べなきゃいけないような気がしてくるんだ。
例え、それが陛下の意に沿わぬことでも。
「知ってる? 美味しいものを食べられるのって本当はすごく幸せなことなのよ?」