記憶の代償(九)
「こいつ、こんなところで何やってるんだ……?」
たまたま通路で鉢合わせたアルフレッドから預かった報告書をジェルベへ渡すため赴いた執務室で。
オルスはソファで窮屈そうに眉間を寄せ軽く丸まって眠るエリカの姿に首を傾げた。
ノックをしても返事がなかったため勝手に入ってみればまず目に飛び込んできたのがこの姿だ。
確かに今は午睡にもってこいの、窓から差し込む光が心地よい昼下がりではあるが。
なんとなく近付きその姿を見下ろして。
珍しいな、と単純に思う。
最近は王妃としての所用でちょくちょく足を踏み入れはしているようだが、基本的にエリカはこの城に来た当初から無意味に執務室に近付くことも、ましてや入り浸ることなどあまりしようとしない。それは執務の邪魔にならないようにという前世とやらでの教えによるものらしく、実際その認識に間違いはないはずだ。しかし、そんなエリカが何故こんなところで眠っているのか。
そう思った時、カタンという小さな物音と共に続き間の方から資料を一冊片手にジェルベが姿を現した。
「オルスか」
気配でジェルベがいることは察していたから特に驚くことはなく、オルスはそちらに視線を向け預かっていた報告書を持つ手を軽く上げることで返事をする。
するとジェルベはそんなオルスに向けた視線を眠るエリカへと移動させ、その目をすっと眇めた。
そして無言でオルスとエリカの間にやって来たジェルベは少し屈み、相変わらず体調が良くないのか血色の悪いその寝顔を指の背で軽く撫でた後、エリカの体にかけていた布を上にあげてその顔を半分ほど隠してしまった。
それはどうやらあまりジロジロ見るなという無言の牽制のようで。
「出直したがいいか?」
「……いや」
別に何も下心などないという意を込めて苦笑しながら尋ねると、ジェルベはオルスをじっと見つめた後、緩く首を左右に振ってみせた。
オルス自身にはエリカに残している未練など一欠けらもないつもりだ。
だが、普段あからさまに示されることはそうないものの、どうやらあの頃何かを察していたらしいジェルベは未だにオルスに対する警戒を完全に解ききってくれていないのだろうなと感じる時がたまにある。
だからこうしてエリカがここにいることに安心した反面、居合わせてしまったその心中は複雑なところだ。
とは言え。
オルスは「これ」とジェルベに書類を差し出しながらそっと重いため息を吐いた。
念のために一瞬だけ視線でエリカを指して「起きねーよな?」と確認すると、ジェルベは再度エリカの様子を眺め見て「多分しばらくはな」と頷く。
オルス自身が先ほど見たエリカもよく寝入っているように見えたし、ならばまあ大丈夫だろうと判断して書類を受け取るジェルベへ説明を加えた。
「アルから陛下にって預かって来たんだ。こいつの両親に主に接触してる怪しい連中と、それからこっち側の人間をそれとなく接触させて両親から聞き出した諸々をまとめた追加調査報告書だってさ。アルが上がってきた名前が厄介なのばっかだって頭抱えてたけど、ほんと、次から次に大変だな」
ハハッと笑ってはみたけれど当然笑い事で済まされるはずもなく、ジェルベは険しい顔で受け取った報告書に目を走らせるだけだ。
その内容がどういったものなのか中身を見ていないオルスに詳細は分からない。けれど、どうやって小賢しく野心のある貴族たちからエリカの両親を守るか、問題があるらしい当人たちの起こした変な気を収めさせるか、とても難しい駆け引きを要さねばならない問題なのだろう。
それが今後どうなっていくのかは勿論気掛かりだ。
だが、同時に。
オルスにとってはそれよりも、と。
「なあ」
ジェルベが報告書を読み終わるのを見計らってオルスは僅か迷いながらも敢えてさりげなさを装って声をかけた。
「その件で、こいつと揉めたんだって?」
再び視線を戻されて、「アルに軽く聞いた」とオルスが言うと、ジェルベは瞳を伏せそれを認める。
「少しな」
実際は全然少しではなく、エリカに酷く取り乱されたのだと聞いている。
だからそもそもアルフレッドから言われたのはオルスもこの話題でエリカを下手に刺激しないように、ということだった。
だが少しだけ、その時のエリカの様子を聞いて。
本当は少し心配になって、暫く執務室に戻れないというアルフレッドから『代わりに渡しといてやるよ』と半ば強引に報告書を奪い取るようにしてここに来たのだ。
なんだかとても気になって。
これは二人の問題だ。
あまり部外者が立ち入りすぎるべきでないとは分かっている。
けれど、と。
オルスはちらりとエリカのことを考えて念のためだと口を開いた。
「オレが口出しすることじゃないけどさ」
遠慮がちにぼそりと発したオルスへとジェルベが視線を返してくる。
「見放さないでやってくれよな。陛下に捨てられたらこいつ……、見てられなくなる」
「……何故そんなことを言う?」
少し間をおいて。
オルスから目をそらさないまま眉を顰めたジェルベが真剣な眼差しとともに硬い声で向けてきたその問いに、オルスは敢えて軽い口調で答えた。
「こいつに捨てた両親の為に出ていくって言われてさ、怒ったんじゃないかなって」
「そもそも俺はエリカとその両親の本来の関係性を知っているわけではないからな」
けれど案外、あっさりとそう返されたジェルベの言葉に、まあそれもそうかとオルスも思った。
例え、今の関係がどうであれ、エリカにとって彼らは大切な存在なのかもしれないし、ましてや命がかかわってくるのならば尚更その選択自体はおかしくない。
だが、と思いオルスはジェルベを見る。
すると、エリカの傍らに腰かけたジェルベはソファに広がる栗色の髪に軽く触れ、そのオルスの思考を読み取ったように軽く瞳を伏せ更に言葉を続けた。
「確かに、両親の為と簡単に俺から離れることを選ばれて、エリカにとって自分は何なのだろうと思うと勿論苛立ちもする。だが、気持ちを一方的に押し付けてもそれはただ相手の負担にしかならないし、ならば俺がすべきことは怒るよりも少しでも必要とされるよう努力することだと思うことにしたから別にいいんだ。ただそれ以前に……」
深いため息をふと吐き出したジェルベは再び顔を上げて真剣な色をしたその瞳をオルスの方に向ける。
「オルス。俺はそんなに簡単にエリカを見限りそうに見えるのか?」
「は? あー、いや……」
“見捨てないでくれよな”
それはきっと先ほど自分が言ったその言葉に対しての問いなのだろう。
ふざけて言ったわけじゃない。むしろ真面目に言ったことだ。
だが、考えこみながら訥々と零れるジェルベの問いは考えていたものとは違った捕らえ方をされてしまったようで、けれどある意味的確に本質を突いていたものだったからオルスは思わず答えに迷ってしまった。
「エリカにも言われたんだ」
「……何て?」
「俺がエリカのことをもう愛していないと」
「……」
その言葉に、オルスは目をすっと細める。
「そんなことはあり得ないのに。そう思わせてしまった原因は、俺が、懐妊を拒絶するエリカの姿を見たくなくて逃げたせいだとわかってはいるんだ。どうやら今のエリカが心身ともにとても不安定らしいことも。だけど多分それだけじゃなくて……」
「……」
「あの時、こちらの言葉を受け入れず錯乱して泣くエリカを見ていて、少し、怖かったんだ。だんだんと壊れていったアリスを思い出して、今度はエリカまで壊してしまったんじゃないかと。俺はことこういうことにはとことん向いていないんだろうな。愛しているのに。今回の、両親の件だけでなく、王妃とすることでエリカを傷つけることが出てくるのは分かっていたから出来る限りの手は尽くしているつもりだったんだ。守ってやりたかった。けど、実際には足りないことばかりでエリカに負担ばかりかけている。挙句気持ちもうまく伝えられていなくて支えるどころか知らない間に“完璧”でないとと追い詰めていた」
「陛下……」
つと指先で触れていたエリカの髪を一房手に取りジェルべは悲しげな苦笑を浮かべてエリカを見つめる。
「だから少し考える。それでも、どんなにエリカに請われたところで俺はどうやってもエリカを手放してやることだけは受け入れられそうにはないから、せめてエリカに何を与えてやればいいのだろうかと。誤解されていつかもっと傷つけてしまわないように自分がどう変わるべきか」
それはまるでせめて罪滅ぼしにとでも思っているようで、その姿を見ながらオルスは眉根をぎゅっと寄せた。
確かにジェルベは表情も口数も決して多い方じゃない。伝わりにくい部分もある。
だが、オルスの贔屓目などではなく。ジェルベはいつだってエリカを尊重して気遣い、とても大事にしているのに。
なんでこんなにもジェルベこそが傷ついてしまっているのだろう。
そんな、悔しいようなもどかしいような想いで、オルスは手を固く握りしめる。
「陛下は優しすぎるんだ」
ぼそりと、口から洩れたのはそんな感想。
だってそうだ。
一国の国王ともあろう者なら、女なんて好きなように扱っていればいい。相手の感情など慮ってやる必要なんてなくて、もしもジェルベを拒むようなら適当に鍵のかかった部屋にでも閉じ込めておけばいいだけだ。
エリカが相手だとあの兄が問題ではあるが、ジェルべは本来、そんな暴挙だって許されてしまう存在であるはずなのに。
「昔から陛下はそうだ。いつも自分の感情よりも相手の為を思った選択ばっかりしようとする。だから、オレが見捨てないでくれって言ったのはそういう意味でだ。陛下は何も間違ってないし自分を責める必要もない。悪いのはこいつの方だ。こいつが勝手に陛下を信じられなくて不安になっただけだからな」
「オルス……」
そういう風に、無駄に庇わなくていいというようにジェルベはため息を吐きつつ呆れたような眼をオルスに向けてくる。
けれどそうではなくて、とオルスは眠るエリカを気にかけつつも抑えきれなかった分だけ声を荒らげた。
「違う! 陛下だって本当は感じてるはずだ。エリカの歪さを。オレから言わせればこいつは欠陥品だからな!」
「……どういうことだ?」
思わずきっぱりと切り捨てたオルスにジェルベは訝しげに顔を顰めた。
発言の意味を問うその視線に。
オルスは瞳を彷徨わせた。
さすがにここまで踏み込んでいいものかと少し迷ってエリカの方をちらりと見る。
だが、と。
オルスはふぅと一つ息を吐き出し意を決した。
ここまできたら仕方がないと。
本当は余計な介入などせず、二人で解決した方がいいに決まっているけれど。
それでもなんだかこのままだとジェルベがエリカに負い目を感じたままになってしまいそうで。
だからこの際、もしただのお節介になってしまうならそれでいい。
結果的におこがましい自惚れで知ったような口をと、不興を買うようなことになったとしてもそれならそれでもう構わない。
それよりもオルスにとってはジェルベがエリカの気持ちを誤解したままになってしまうことの方が大問題だ。
だから悪いのはすべてこのバカなのだからと開き直ってしまうことにする。
「オレはさ、エリカがここに来た最初の日からなんだかんだで関わってきたんだ。それこそ、陛下がこいつの存在を無視してた頃から、ずっと。だから、陛下の知らないエリカもたくさん見てきてる」
勿論、エリカの全てを、というわけではないけれど。
それでもエリカのことを大抵理解できる程度には関わってきたつもりだ。
だから、誤解させる言い方をしたつもりはなかったのだけれど警戒をあらわに顔を険しくさせたジェルベへ、
「こいつはさ、陛下が思ってるよりずっと、陛下のことが好きなんだ」
と。
オルスはそうふっと笑ってみせつつも、それだだけは前提として分かっていてほしいとしっかりと言い切った。
ジェルべは自分ばかりがエリカを好きだと思っているようだけれど、オルスはエリカのその想いの強さをよく知っている。
だけど。
同時に裏にある弱さも見てきたオルスは浮かべた笑みを消して軽く目線を落とした。
「エヴァンズがここに戻ってきた時、本気で陛下がシーラを妃にすると思い込んでエリカがボロボロに傷ついてたのを知ってる。あの頃から、とっくにエリカは陛下のことが好きだったから。諦められればきっと楽になれたのに、それも出来なくて逃げて避けて、目も耳も精いっぱい塞いで誤魔化してた。それは陛下だって心当たりあるだろ?」
「……」
「さすがにあの時ほどってことはないけど、今までオレは陛下の反応を気にして不安げにしてるエリカを何度となく見てきた。その直接的な原因は確かに全部陛下のせいと言えば陛下のせいだったけどさ。そんなエリカを見ながらオレ、ずっと不思議だったんだ。いつもはなんでも強気に突き進んでいくエリカが、なんで陛下のことだとこんなにも弱気になるんだろうって。オレなりに励ましてきたつもりだけど、本当にすぐ落ち込むし怯えるし自信なんて一欠けらもなくて。恋愛事ってそんなものって言われればそれまでだけど、なんだかなーって。だけど。今はそれも仕方ないことかなとも思ってる」
それは恐らく、本人すらも気付いてはいないかもしれないけれど。
「だってこいつは、愛情っていうものその物をそもそも信用してないんだ」
視線を再びジェルベに戻してオルスは真剣に告げる。
案の定、意味が分からないとばかりにジェルベは顔を顰める。
それも当然だと思う。だってエリカはあれだけ兄からも大切にされているのだから。
だが、それでも、
「こいつの前世はさ、良くも悪くも王女様なんだよ」
つまりはそういうことなのだとオルスは吐き出すように言った。
「確かに前世で培った作法や立ち居振る舞いはアルが言ってた通り今のこいつの強みになってる。この国にとってはアブレンとのつながりも持てていいことしかないけど……。根元をほじくり返すと王女ってのはさ、元からそういう、国と国を繋ぐ役目を負った存在だろ? 自国の臣下に降嫁する王女だって勿論いるけど。女が滅多に生まれないアブレン王家にとってこいつは貴重な駒で、きっといずれは他国の王族に嫁いで母国の平和と繁栄の為にその身を捧げることが必然だって周りから期待されてたはずなんだ。それってつまりどういうことだと思う?」
「……一応相手は娘が他国の王妃となって辛い思いをしないようにと先代のアブレン王が選び抜いたと聞いている。別に駒としてしか扱われていなかったわけじゃないはずだ」
「その選び抜いたはずの相手にエリカは不満そうだったけどな」
今でさえ、ランベールが女たちを侍らせてる姿を見ながら『相変わらずよね。アンジェリーナ様が一番とか言いながら信じられないわ』と眉を顰めているほどなのだ。
当時からとても相性が良かったようには感じ取れないし、果たして良縁だったとは言い難いなと冗談交じりの笑いを零す。
「でもさ、」
それでも多分。
先代のアブレン国王がちゃんと考えて決めたのならばまだ救いはあった縁談であったはずで。
「情勢によっては相手を吟味なんてことすら言ってられない。昔陛下に来てたフルトの王女との縁談のように、どうしようもない状況で嫁ぎ先が決まることだってある。それでその相手にすでに心に決めた相手がいたとしたら? いくら見た目が良くても嫁いだ先の王に愛されるかどうかはわからない。邪険にされるかもしれない。もしそうなったとしても、だ。エリカの存在価値をこの国の貴族どもに見せつけるためだろうけど、今、この国に遠慮なくずかずかと来やがるシスコンじじいとそれを許してる陛下がおかしいだけで、本当なら嫁いじまった王女がどう扱われても、義務さえ果たされていれば母国が口を出せる範囲には限度ってものがあるだろ」
それが王女という存在の結婚だ。
同じ王族同士でも迎え入れるだけの王や王子と嫁ぐことになる王女では立場も条件も全く違う。
「オレさ、あの国境で、こいつの兄が陛下の事情次第では他に側室を娶ってもいいって、前世のこいつはそれを受け入れるよう言い聞かせられて育てられたって言ってるの聞いて、ふざけるなって思った。ああ、だからこいつはこうなんだって。そうと洗脳されて育ったこいつが無邪気に何を夢見れると思う? 初めから余計な夢見せて期待させるよりも、こいつの為に世の中そういうもんだって刷り込んだんだろうなって、そういうのも大事だって理解できなくはないけど。加えて前世ではあのシスコンが先に結婚してるだろ。ずっと二人だった世界に突然邪魔者が現れて“大好きな兄上”の一番でいるわけにはいかなくなってる。“兄上をすごく困らせたの”ってこいつは軽く言ってたけど多分、シスコンじじいが大変だったって言ってた通りそんなに簡単なもののじゃなかったんだと思う。生まれ変わったら生まれ変わったで原因がこいつにあったとしても、こうして捨てられて……。だから、怖がってるんだ。今までずっと望むことも許されず、手元に留まっていてくれるものじゃなかったから。信用できず、いつかは陛下の心まで離れてしまうんじゃないかって、きっと疑ってる」
「……つまり?」
「こいつが自分の弱さに押し負けて勝手に自滅しただけのことだ。陛下が気に病むことじゃない」
「……」
今回のことはただ、元からあった綻びが不幸にもこうして表面化しただけのことなのだから。
「でも、だからこそさ。陛下にはどうか手を放さずに受け止めてやってほしいんだ。前に話してただろ? 陛下と一緒にいるようになってエリカが最初よりずっと穏やかに笑うようになったって。それはさ、陛下が傍にいるようになってなんだかんだでこいつのことちゃんと気にかけて必要な時に手を差し伸べて寄り添って、そうやってこいつのずっと持ってた寂しさを埋めていったからだと思うんだ。陛下がこいつのことちゃんと愛してるのだって。時々、無意識だろけど、わざとつれない態度をとって陛下を怒らせてるエリカを見てると馬鹿だなーって思うけどさ。だけどそれでも求めてくる陛下の反応を確認して安心してる。だからもうちょっと付き合ってやってくれよ。面倒くさいけど。こいつが陛下なら絶対大丈夫だって満足するまでさ。陛下はそれだけでいいとオレは思う」
結局のところ難しいことではなく。
もう少し、お互いが自分に向けられる想いに自信を持てばいいだけなのだ。
オルスに据えていた視線を横に流し、難しい顔で考え込むように少し間を置いたジェルベがもう一度視線を戻し確認するように口を開く。
「それを俺はどれだけ信用すればいい?」
「それは陛下の自由としか」
「……」
「かなり自信はあるけどな。もしもエリカが愛のある結婚を求めていたんだとしたら、食うに困ることなく贅沢をしたいなんて理由でここに来ることを選んだはずがないだろ。なのにさ、じじいから分け与えられた金でもう貧乏人じゃないらしいこいつが『なんだかんだで庶民の頃より働かされてる気がする』らしい王妃なんてものを大人しくやってる理由は一つしかない。本気でただ陛下の傍にいたいからだと思うんだけどな」
「……そんなにエリカのことを理解してるなら、お前の方が俺よりうまく支えられただろうにな」
ぶすりと拗ねたように顔をそらしたジェルベに、まさかそんな風に言われてしまうとはとオルスは思わずハハッと苦笑した。
「オレじゃあ無理だよ」
だけど憮然とした表情のジェルベは照れているというよりも本気でそう思っているようで慌てて弁明する。
「まず、大前提としてこいつだって誰でもいいわけじゃないだろ。好みだってあるし、エリカが陛下に嫌われたくないと思うのはさっきも言ったけどそれだけ陛下のことが好きで、必要としてるからだ。もしオレがこいつに真正面から“お前なんて嫌いだ”って宣言したところでな、エリカは『あら。それは残念だけど、貴方がそう思うなら仕方ないわね』って言うのがせいぜいだろうな。エリカにとってオレはその程度の存在だ。それにオレも、」
うーーんと腕組をして頭を捻り、今、改めて思い返してみる。
「もしかしたら、陛下がうかうかしてたあの隙に、どうにかしてエリカをこっちに向かせる手段はあったのかも知れねえけど。それでも、オレはそうまでしようとは思わなかった。陛下との関係を崩してまで何が何でもエリカを欲しいとは思わなかったんだ。だから陛下がエリカのことをどう思っているか気がついて、もう動かせないって理解した瞬間、オレはその時点で手を引くことを選んだ。そんなオレが“唯一の愛情”を望むエリカを幸せにできたはずがないし、オレはさ、結局のところ、陛下を好きなエリカが好きなんだ。だから陛下とエリカの二人が幸せになってくれればそれでいい」
だからこそきっと、未練も後悔もなく二人にハラハラさせられながらも放っておけず、見守っていたいと思うのだ。
「……優しいのはどっちだか」
一度、瞳を伏せたジェルベはソファのひじ掛けに頬杖を突きながらため息を吐きぼそりとそう呟いた。
「エリカの見る目がなくて助かった」
「そんなことねえよ」
クッと笑ってオルスははにかむ。
そんなことあるわけがない。
エリカの見る目は間違いなく正しいし、別に本来オルスはそこまで優しい人間なんかではない。
ただ。
祖父によって無理やり引き合わされたあの日。
強制されたからでなく、生涯の忠誠を誓いたいと思ったのはそれがジェルベだったから。
素直ではない。
けれど、初めて顔を合わせた時、面と向かって『お前なんかいらない』と冷たく言い放ってきた美しい王子の、その真意を理解したとき、この少年を悲しませたくないと心から思ったのだ。
だから、例え、本当にオルスがジェルベよりも優しく見えたとしても、それはジェルベ自身の“そうしたい”と思わせる力故のもの。
だから、
「オレは、陛下の為に生きていたいだけだからな」
胸を張ってそう言うと、ジェルべはまるで昔のように小さくふっと微笑んだ。
「ならば一つお前に頼みがあるんだが、いいか?」
ジェルベが手を伸ばしたのは一度テーブルに置かれていた、オルスがここへ持ってきたエリカの両親について調べられた報告書。
差し出されたそれを受け取り、囁くように指示された内容にオルスは目を見張る。
そして、
その目的を察したオルスはニッと笑い、恭しく片膝をついて武官として正式な礼の形をとった。
「仰せのままに。我が君」