過ぎゆく街の小さな出会い
――今も昔も、私はずっと町人A。
あるときから、世界は変わった。常に分厚く灰色の雲が空を覆い、同時に全ての大陸に様々なモンスターが現れた。日々とは陽の光を浴びることがかなわなくなり、街の外に出ることもかなわくなった。
それは他でもなく、『このような』世界の設定にありがちな魔王のせいだった。
そして当然のように、この事態に立ち向かう勇者が現れた。
勇者は旅に出て、その道中に色々な街を巡った。城が建つ大きな街から、民家しかない小さな街で、勇者はただ魔王を倒す為だけに街を巡った。しかし、きっと勇者に、何の感慨も無かったに違いない。
それがこの世界の決まりで、守らなければならないルールだった。
勇者が最初からそうであることを決められているように、私もまた、町人Aという役柄を与えられていた。
決まった動きに、決まった台詞。背景と同じように、ただそこにあるモブ。
――私じゃなくても、この役はこなせる。
……それでも、私は町人Aをやらなければならない。この、もどかしい思い。
しかし、それがこの世界の決まりで、守らなければならないルールなのだ。
ある日、ついに勇者が私のいる街へとやってきた。
遠目で勇者の姿を何度も確認したが、勇者は私のところに話しかけに来てはくれなかった。私は薬売りでもなければ、アイテム売りでもなく、宿屋にいる人間でもなかったから、勇者には不要な人間だったのだろう。もっとも、話しかけられたところで私は、勇者にとって得な情報など持ち合わせていないので、それでよかったのかもしれない。
なんで、こんな世界なのだろうか。これはきっと魔王のせいに違いない。私を必要としない世界なんて……。
何かが軋む音が聞こえた気がした。
勇者はその日一泊だけして、街を出るようだった。翌朝になり、勇者が宿屋から出て行くところを、近くになっていた私は見ていた。
きっとマメな性格の勇者じゃないのだろう。疲れているのかもしれない。自分にとって何の利益にもならない言葉しか発しない者などと話している暇などないのだろう。
奥歯をぎゅっ、と噛みしめてみた。
意気地なしな自分。どうせなら、舌を思い切り噛めば、この決まりきった世界でも死ねるかもしれないのに……。
口の中から、何かが軋む嫌な音が聞こえた。
悲しみを形で表してくれるモノですら、流すことは許されない。話す台詞が決まっていて、それ以外の言葉を言ってはならないとは、なんとも残酷な世界だ。
私の前を悠然と歩き去る勇者を引き止める言葉を、私は持っていない。それでも、いずれ世界を救うであろう勇者の姿を拝めただけでもありがたいと思うべきなのかもしれない。
私は所詮町人Aで、名前もなくて、勇者の記憶に残ることもない。私など、勇者がいくつも行き交う街の内の一人で、小さな街のとてもちっぽけな存在。
流れることのないモノを隠す為に、私は俯いた。
しばらくすると、私の視界の端に靴が映った。どこでしつらえてもらったのか、その靴は上品で美しかった。
『この街は、良い所ですね』
はっとして顔を上げると、体の至るところの全てに上品な装飾を纏った勇者が立っていた。
勇者は街を出て行ったのではなかったのか? なぜ今更になって、私に話しかけてきたのだろうか。わからないけれど、それでもとても嬉しかった。
早く、私が言える台詞を言わなければ。勇者に見ほれている場合ではない。
――私には、これしか言えないのだから、早く。
「そうでしょう。私はこの街が好きです。勇者様に気に入っていただけて嬉しく思います」
私の台詞は、あっという間に終わった。
『ええ。では、僕はこれで』
勇者はマントを翻し、再び街の出口へと向かって行った。
少しずつ、私から見える勇者は小さくなっていく。私は何とも言えない寂しさを抱いた。
けれど、勇者を止められない。
なんて、残酷な世界なのか。
私に、勇者という光を与えておきながら、その光を留める為の術はくれなかった。
きっともう、勇者はこの街には二度と戻らない。それでも、私は何も言えない。言ってはならない。
それがこの世界の決まりで、ルールだから……。
――誰がそんなこと、決めたのだろうか?
こんな世界にした魔王? いいえ、そんなことはない。
それなら、『このような』世界を創ったであろう神様? そんな馬鹿な。
それならば、いったい誰が『このような』世界を勝手に作ったのだろうか?
――決まっている。この下らない世界を作ったのは、自分だ。
私が、与えられた台詞以外を勇者に発してはならないなんて、誰も言ってはいない。
下らない掟を作って、下らなくない想いを踏み躙ろうとしたのは、他の誰でもなく自分だ。
「勇者様」
勇者が歩みを止め、振り返った。
「この街を気に入って頂けたのでしたら、魔王を倒してからまた来ては下さらないでしょうか?」
『ええ、それは構いませんが……。しかし、どうして?』
ぎゅっ、と奥歯を噛みしめてみた。あの軋む、嫌な音はしなかった。
「私がまた勇者様に会いたいからでございます」
こんなことを言うのは、許されない世界。
けれど、私は言わずにはいられなかった。
この退屈な世界を作ったのは、私なのだから。
勇者はふっ、と笑った。
『はい。喜んで』
それだけ言うと、勇者は今度こそ旅へと戻って行った。
それから何か経ったある日、宿屋の近くに立っている少女の下に、嬉しそうに笑う勇者が現れた。
少女は、流れるはずのないものを隠す為に俯いた。
しかし今度は、その目からは確かに涙が溢れていた。
勇者は少し困惑した表情になり、女の子を慰めた。
女の子はまだ泣きながらも、笑顔をつくってみせ、
『おかえりなさい』
と言った。
勇者は照れながらも、少女との約束を果たす為の言葉を口にした。
『――ただいま』
今も昔も、勇者が再びこの街に訪れても、私はずっと待ち人A――。