夫の妻に「泥棒猫」と罵られた。でも、私だってずっと妻のつもりだった
霧浜市の火鍋専門店でアルバイトをしていた夜のことだ。
食べ終わった客の鍋を厨房へ運んでいると、通路の脇から男の子が飛び出してきた。避ける間もなくぶつかられ、トレーが大きく傾く。熱い麻辣スープが両腕にかかり、私はその場に尻もちをついた。
あまりの熱さに息が詰まり、声も出なかった。
男の子の母親が慌てて駆け寄ってきた。
「ごめんなさい! この子が急に走り出して……。大丈夫ですか? 腕、見せてもらえますか?」
同僚がすでに119番へ電話していた。女性は私のそばにしゃがみ込み、腕の状態を確かめると、近くに家族がいるかと尋ねた。
「治療費はこちらで負担します。霧浜にご家族はいらっしゃいますか? 付き添える方がいなければ、こちらで手配しますから」
征也の顔が浮かんだ。
夫は家を買うために仕事を掛け持ちしていて、ここしばらくほとんど帰っていない。寂しくないと言えば嘘になる。それでも、二人の将来のためだと自分に言い聞かせていた。
痛みをこらえて首を横に振ると、女性はすぐにスマートフォンを取り出した。
「もしもし、あなた? 今どこ? 瑛太がお店の人にぶつかっちゃって、熱いスープをかぶってしまったの。救急車は呼んだけど、病院のほうもお願いできる?」
それから間もなく、仕立てのいいスーツを着た男性が店に入ってきた。
男性は床に座り込んだ私には目もくれず、母子のところへ駆け寄った。まず男の子の体を調べ、それから女性に怪我はないかと聞いている。
「だから、瑛太を連れてくるなら目を離すなって言っただろ。わざわざこんな混んだ店に来なくてもいいのに」
女性は困ったように笑い、彼の腕を軽く押した。
「たまには火鍋が食べたかったんだもの。もう、私たちは平気だから。先にあの方のことをお願い」
男性は面倒そうにこちらを向いた。
「二人が無事ならそれでいい。賠償の件は俺が――」
目が合った瞬間、彼の口が止まった。
私は床に座ったまま、その顔を見上げた。
家を買うために三つも仕事を掛け持ちしていると言っていた、私の夫。
鷹取征也だった。
1
征也は足を止め、私を見たあと、すぐ隣の女性に目をやった。
今朝もLINEが届いていた。急に夜勤の代わりを頼まれたから、また数日は帰れないという内容だった。それなのに今、彼は見たこともない高そうなスーツを着て、腕には立派な時計までしている。
その時計には見覚えがあった。
以前、デパートのショーウィンドウで同じものを見たことがある。征也がしばらく眺めていたので、私も値札を覗いて、ゼロの数を数え直したくらいだ。
いつかお金持ちになったら買ってあげようか、と冗談を言ったら、彼は笑って首を振った。
「そんなものにお金を使わなくていいよ」
そう言っていた時計が、今は彼の手首に収まっていた。
隣に立つ女性は、上品なバッグを持ち、耳にはダイヤのピアスをつけている。男の子もきちんとした服装で、母親のスカートの裾を引っ張っていた。
私はといえば、赤いスープがこぼれた床に座り込み、制服は油まみれだった。両腕がひりひりと痛み、同僚が流水で冷やしてくれるたび、思わず肩が震えた。
女性が征也の腕に触れた。
「征也、どうしたの? 瑛太にも謝らせないと」
征也は何か言いかけたが、声にならなかった。
女性は夫の顔を覗き込み、それから私を見た。
「……お知り合い?」
「知らないよ」
返事は驚くほど早かった。
征也は自分でも不自然だと思ったのか、袖口を直しながら言い添えた。
「いや、思ったよりひどいやけどだったから、ちょっと驚いて」
私は彼を見つめた。
昔から、征也は何か隠し事があると服をいじる。仕事で失敗したときも、家賃が足りなくなったときもそうだった。
征也は女性の背中に手を添えた。
「紗季、瑛太と向こうに座ってて。もう走り回らせないでくれよ」
女性はその場を離れず、私の前に戻ってきた。
「本当にすみません。鷹取です。よろしければ、連絡先を交換していただけますか? 治療費のことは遠慮なくおっしゃってください」
差し出されたスマートフォンの画面に、一枚の写真が映っていた。
花に囲まれたチャペルで、黒いタキシード姿の征也が、ウェディングドレスの女性を抱き寄せている。
隣に立つのは紗季だった。
二人とも幸せそうに笑っていた。
画面が暗くなるまで、私はその写真から目を離せなかった。
「……あの、大丈夫ですか?」
紗季に声をかけられ、ようやく顔を上げた。
そこへ店長が別のスタッフを連れてやってきた。
「千紘、何やってるんだ。そんな熱い鍋を運んでるんだから、もっと気をつけないと。お客様にかかったらどうするつもりだったんだ?」
店長は私を立たせようとしたが、床に広がったスープを見て、さらに顔をしかめた。
「とにかく着替えてこい。ここも片づけないと――」
「うちの子がぶつかったんです」
紗季が遮った。
「この方は避けようがありませんでした。そんなに叱らないでください。先に病院へ行っていただかないと」
店長は紗季と征也を見比べ、すぐに態度を変えた。
「あっ、そうだったんですね。失礼しました。救急車はもう呼んでありますか?」
「はい。もうすぐ来ると思います」
紗季は再び私のそばにしゃがみ込み、指が動かせるかと尋ねた。何度も謝りながら、スタッフを入口へ向かわせ、救急車が来たら案内するよう頼んでいた。
もしあの写真さえ見ていなかったら、きっと親切な人だと思っただろう。
私は自分の手元に目を落とした。
仕事中は指輪を外す決まりなので、結婚指輪は制服のポケットに入れてある。
水仕事が多くても傷まないようにと、征也があとから買ってくれたものだ。
私はそれを、何年も大切にしていた。
2
救急隊員が店に到着すると、紗季はすぐに道を空けた。
ところが征也は隊員の一人を呼び止め、瑛太のほうを指さした。
「すみません、先に子供を診てもらえませんか。さっきから口をきかなくて。相当怖かったみたいなんです」
隊員は瑛太にいくつか質問し、意識がはっきりしていて目立った外傷もないことを確かめると、もう一人の隊員と一緒に私のやけどの処置を続けた。
征也がまだ何か言おうとしたところへ、紗季が瑛太の手を引いて戻ってきた。
「征也、この子は大丈夫だって。それより、早く診てもらわないと」
担架に乗せられるとき、征也がこちらへ歩いてきた。
紗季たちに背を向け、私にだけ聞こえる声で言う。
「治療費は全部出す。慰謝料も含めて、一千万円は用意する」
私は彼を見上げた。
征也は目を合わせず、財布から一枚の名刺を取り出した。
「弁護士から連絡させる。だから……今は何も言わないでくれ」
名刺を私のバッグに差し込むと、彼はもう一度だけ「悪い」とつぶやき、紗季たちのところへ戻っていった。
一千万円。
つい昨日まで、五万円ほどのエアコンを買うかどうかで悩んでいたのに。
征也は何のためらいもなくその金額を口にし、今は瑛太の襟元を直してやっている。
昨日、霧浜市はひどい暑さだった。
私たちの部屋にはエアコンがなく、夜になっても熱がこもって寝苦しい。ちょうど家電量販店で安売りをしていたので、取り付け費込みで五万円ほどのものを買いたいと、征也に相談した。
電話の向こうで、彼はため息をついた。
「千紘、ごめんな。最近あんまり稼げてなくてさ。家の頭金もまだ足りないし、もう少しだけ扇風機で我慢できないかな。どうしても無理なら、俺がなんとかするから」
そのあと、彼は結局お金を振り込んでくれた。
けれど、すぐに一枚の写真が送られてきた。
古びた作業着を着た征也が、炎天下で飲料水の箱をトラックに積んでいる。顔は真っ赤で、背中まで汗で濡れていた。
私は申し訳なくなって、すぐにお金を返した。
古い扇風機を洗ったら、まだ十分使えるよ。そうメッセージを送ったのを覚えている。
救急隊員が私を店の外へ運び出す途中、休憩室から同僚たちが出てきた。
「千紘、大丈夫? さっき、あの男の人に何か言われてなかった?」
私は返事をためらった。
「治療費、全部払うって。一千万円くらいなら出すって……」
「えっ、一千万円!?」
「そんなにもらえるの?」
別の同僚が小声で言った。
「それなら私がぶつかられてもよかったかも」
店長はすぐに彼女たちを仕事へ戻し、私にはしばらく出勤を気にしなくていいと言った。
病院では改めてやけどの状態を調べられ、傷口を洗浄してから処置を受けた。範囲が広く、皮膚の一部はかなり傷んでいるらしい。今後は熱傷を専門に診る医師の診察も必要になると説明された。
医師は事故の経緯を尋ね、傷口を確認しながら言った。
「かなり深いやけどになっているところがあります。処置を続けても痕が残るかもしれません。痛いでしょうけど、もう少し頑張ってくださいね」
私は小さくうなずいた。
薬が触れるたびに体がこわばり、思わずシーツを握りしめた。医師は手を止め、痛ければ遠慮せず言うようにと声をかけてくれた。
処置の途中で、スマートフォンが震えた。
征也からのLINEだった。
「千紘、やけどはどう?」
「家で待ってる。帰ってきたら話そう」
「ちゃんと説明するから」
三つのメッセージを何度も読み返した。
看護師に腕を少し上げるよう頼まれて、ようやくスマートフォンを脇へ置く。
医師が処置を続けるあいだ、昨日送られてきた写真が頭から離れなかった。
あの炎天下で荷物を運んでいた写真は、いつ撮ったものだったのだろう。
もしかして、私に見せるためだけに用意したものだったのだろうか。
3
灯凪町へ戻ったのは、午前一時近くだった。
タクシーを降りると、古いアパートの駐輪場の脇に、黒い高級スポーツカーが停まっているのが見えた。街灯の下でもわかるほど、車体はきれいに磨かれている。
六階を見上げると、私たちの部屋だけ明かりがついていた。
階段の人感センサー式ライトは、ずいぶん前から壊れたままだ。壁際でネズミの走る音がして、私は手すりにつかまりながら足を速めた。二階を過ぎた頃には息が上がり、六階に着くと、しばらくドアの前で休まなければならなかった。
鍵はかかっていなかった。
征也は居間のソファに座っていた。火鍋店で見たスーツを、まだ着たままだった。
そのソファは、リサイクルショップで千五百円で買ったものだ。片方の座面がへたり、背もたれの布も色あせている。天井には雨漏りの跡が残り、壁際の床板は少し浮き上がっていた。
征也は私を見ると、すぐに立ち上がった。
「千紘、おかえり。病院、どうだった?」
手を伸ばしてきたので体をよけると、肩がドア枠にぶつかった。鋭い痛みに思わず息をのむ。
征也は慌てて手を引っ込めた。
私はバッグをテーブルに置いた。
「説明してくれるんでしょ」
彼は私を見たまま黙っていた。
「聞いてるよ」
征也はしばらく立ち尽くしたあと、ソファに座り直した。
「……ごめん。実家のこと、ずっと隠してた」
「実家?」
「家を出たのは本当だよ。あのとき金がなかったのも、行くところがなかったのも……全部、本当だった」
私は黙って続きを待った。
「千紘に助けてもらったことだって、忘れてない」
征也は膝の上で両手を組んだ。
「そのあと実家から連絡が来て、戻ってこいって言われたんだ。父親の体調が悪くて、会社のほうもいろいろあったから」
「それで?」
「……家が決めた縁談があった」
私は征也の顔を見た。
「紗季さん?」
彼は小さくうなずいた。
火鍋店のスマートフォンに映っていた結婚写真が、頭から離れなかった。
「何年前に結婚したの?」
「四年前」
「瑛太くんは?」
「三歳だ」
椅子に腰を下ろすと、征也が何か言いかけた。けれど私が黙っていると、そのまま口を閉じてしまった。
「じゃあ、私たちは?」
「千紘……」
「六年前、婚姻届を書いたよね。役所には俺が出すって言って、あとから受理証明書も見せてくれた」
征也は俯いた。
「……あれは、役所でもらったものじゃない」
何を言われたのかわからなかった。
「え?」
「婚姻届も、出してないんだ」
「……結婚してなかったってこと?」
彼は答えない。
「征也、ちゃんと言って」
「……そうだ」
冷蔵庫の低い運転音だけが聞こえた。
あの書類を持ち帰った日、征也は小さなケーキを買ってきてくれた。狭い食卓で二人して分け合いながら、これで本当の家族になれたね、と笑った。
受理証明書は透明のファイルに入れ、引き出しの一番下に大切にしまってある。
婚姻届には、結婚後の姓を選ぶ欄があった。私は征也の姓を選び、仕事では当面、矢代のままでいいかと相談した。征也は、職場で旧姓を使うことはできるから、ほかの手続きは自分に任せてほしいと言った。
その後も、健康保険や銀行の名義について何度か尋ねたことがある。そのたびに征也は、仕事が落ち着いたらまとめて手続きをすると答えた。
私は自分の書類も確認せず、その言葉を信じていた。
気づくと、服の裾を握りしめていた。そこへ涙が落ちた。
征也が内ポケットからハンカチを出す。
「千紘、信じてもらえないかもしれないけど、好きだったのは本当なんだ」
「じゃあ、どうして教えてくれなかったの?」
征也は手にしたハンカチを見つめた。
「……別れたくなかった」
「別れたくないから、ずっと結婚したふりをしてたの?」
「ごめん」
彼が近づいてきたので、私は後ずさった。背中が壁に当たり、やけどした腕に痛みが走る。
「千紘、無理するな。傷が……」
征也はそこで足を止め、ハンカチをテーブルに置いた。
「これからは俺が面倒を見る。仕事だって辞めていいし、住むところも用意する。千紘が好きなところで暮らせばいい」
私は彼を見つめた。
征也はまだ話し続ける。
「もう隠すことはないんだから、二人でこれからのことを――」
私は手を上げて、彼の頬を叩いた。
4
征也の顔が横を向いた。
叩いた腕に激痛が走る。包帯に赤い染みが広がっているのが見えたが、構わずドアを指さした。
「出ていって」
「千紘、落ち着けって。傷が開いてる」
「出ていってよ」
彼はまだ何か言いたげだった。
「まだ話してないこともあるんだ。今すぐ許せとは言わない。だから……」
「もう聞きたくない」
征也はようやく口を閉じた。
「……わかった。でも、治療費だけは受け取ってくれ」
彼はスマートフォンを取り出し、弁護士の連絡先が表示された画面を私に見せた。
「三千万円、用意する。必要な手続きは弁護士に任せるから、落ち着いたら連絡してほしい」
私は画面を見なかった。
しばらくして、彼は部屋を出ていった。
ドアが閉まると、私は壁にもたれたまま床へ座り込んだ。包帯に滲んだ血がぽたりと落ち、洗いすぎて色の抜けたカーペットに小さな染みを作った。
その染みを見ているうちに、六年前の雨の夜を思い出した。
あの日は食堂の仕事が夕方に終わり、私は傘を差して商店街を歩いていた。閉店間際のたい焼き屋の前に、ずぶ濡れの若い男が立っていた。
焼き上がったばかりのたい焼きをじっと見ているのに、買おうとはしない。
気になって声をかけた。
「食べたいの?」
彼は私を見上げた。
「……お金がなくて」
「じゃあ、おごるよ」
私はたい焼きを二つ買い、一つを彼に渡した。
紙袋を受け取ったまま、彼はなかなか食べようとしなかった。
「返さなくていいから」
そう言うと、彼は小さく頭を下げた。
鷹取征也。
それが彼の名前だった。
家族と喧嘩して家を出たものの、お金も行くところもないという。
私は児童養護施設で育ち、大人になってからはずっと一人暮らしだった。雨に濡れたまま立っている彼を見ていると、そのまま放っておく気になれなかった。
その夜、私は彼をアパートへ連れて帰った。
半地下にある小さな部屋で、ベッドは一つ、あとは折り畳み式のテーブルがあるだけ。征也にはベッドを使ってもらい、私は床に薄い布団を敷いて寝た。
翌日、彼は熱を出した。
私は食堂を休んでドラッグストアへ薬を買いに行き、お粥を作った。貯金はほとんどなかったけれど、熱のある人を外へ追い出すわけにもいかなかった。
元気になってからは一緒に仕事を探し、そのまま二人で暮らすようになった。
征也は帰りにスーパーの半額弁当を買ってきてくれた。たまにたい焼きを二つ買って帰っては、あの日の借りをまだ返していないと言って笑った。
半年ほど経った頃、彼から告白された。
花束も指輪もなかった。飲み終えた缶ジュースのプルタブを外し、私の手を握った。
「千紘、これからもずっと一緒にいてくれる?」
あまりにも真剣な顔をしているので、思わず笑ってしまった。
「それでプロポーズするの?」
「お金が貯まったら、ちゃんとした指輪を買うから」
彼は耳まで赤くなっていた。
小さい頃、私はいつも迎えに来てもらえる子が羨ましかった。誕生日を家族と過ごしたり、学校が終われば帰る家があったりすることが、羨ましくて仕方なかった。
征也がこれからも一緒に暮らそうと言ってくれたとき、本当に嬉しかった。
私は彼に手を差し出した。
そのあと半地下の部屋を出て、窓のあるアパートに引っ越した。相変わらず余裕はなかったけれど、二人で家具を選び、安売りの惣菜で夕飯を済ませ、冬は一枚の布団にくるまって眠った。
征也はよく、いつか南向きの家を買おうと言っていた。大きな窓があって、できればベランダもある家。
そんなのまだ先の話だよ、と笑いながらも、眠る前にはつい、その家のことを考えてしまった。
今、テーブルの上には征也が置いていった弁護士の名刺がある。
私は床に座ったまま、一番下の引き出しを眺めた。
婚姻届受理証明書を入れた透明のファイルは、そこにしまってある。引っ越すたび、なくさないように別にして持ち運んできたものだ。
引き出しを開けようとしても、手が動かなかった。
どれほど時間が経ったのだろう。
窓の外が明るくなり始めた頃、激しくドアを叩く音がした。
「矢代さん、いらっしゃいますか?」
聞き覚えのある女性の声だった。
私は壁につかまりながら玄関へ向かった。
「はい、どちら――」
最後まで言う前に、頬を打たれた。
二、三歩よろめいて顔を上げると、紗季が立っていた。その後ろには、体格のいい男が四人いる。
昨日の火鍋店では、やけどした私のそばにしゃがんで、付き添いが必要かと気遣ってくれた人だった。
今はまるで違う目で私を見ている。
「昨日、私の顔を見て笑いをこらえてたんじゃないでしょうね?」
5
男二人が玄関から入ってくると、私の両腕をつかみ、居間まで引きずっていった。
包帯の上から強く握られ、痛みに腰が折れそうになる。紗季は靴を履いたまま部屋へ入り、古いソファやテーブルを一瞥した。
「征也、昨夜ここに来たでしょ?」
私は顔を上げた。
「待ってください。私も昨日、初めて知ったんです」
「何を?」
「征也が結婚してたことです」
紗季は鼻で笑い、バッグから写真を取り出して床にばらまいた。
「じゃあ、これは?」
アパートの前で征也にキスされている写真。二人でスーパーへ行ったときの写真。どれも画質が悪く、離れた場所から撮られたようだった。
「調べてもらったの。あなたたち、ずいぶん前からこうだったみたいね」
紗季は私を見下ろした。
「いつから付き合ってるの?」
「私は、征也と結婚したと思っていました」
「そんな話、信じると思う?」
「書類があるんです。受理証明書を見せてもらって……」
「もういいわ」
紗季は男たちへ目を向けた。
「全部壊して」
二人がすぐに動いた。
ローテーブルがひっくり返され、グラスが床に砕け散った。テレビは倒され、棚の扉が引きちぎられる。食器が次々と割れ、長年使っていた折り畳みテーブルも脚が一本折れてしまった。
私は男の腕を振りほどこうとした。
「やめて! お願い、やめてください!」
押さえつける手に力がこもり、傷口が激しく痛んだ。
紗季が近づいてきて、髪をつかんだ。
「征也が結婚してるの、知らなかったなんて言わせないわよ」
「本当に知らなかったんです!」
「子供だっているのよ。瑛太はもう三歳なの!」
頬をもう一度打たれた。
足に力が入らず、私は床に膝をついた。包帯の下で傷が開くのがわかり、視界がちらつく。
紗季の拳と足が、容赦なく体に当たった。
頭をかばって小さくなっているあいだも、家具の壊れる音が続いていた。誰かに腕を踏まれたとき、思わず声が漏れたが、そのうち叫ぶ力さえなくなっていった。
意識が遠のく寸前、ドアの外から女性の声がした。
「ちょっと、何してるの! やめなさい!」
足音が近づいてくる。
「警察呼んだからね! もうすぐ来るわよ!」
次に目を開けたとき、私は病院のベッドにいた。
腕は新しい包帯で覆われ、息をするたび胸が痛んだ。肋骨が二本折れているため、しばらく入院して経過を見る必要があると、医師から説明された。
枕元には花束が置いてあった。
「千紘、起きた?」
征也が椅子から立ち上がり、私の手を取った。
私はそっと引き抜いた。
彼は空になった自分の手を見つめ、ため息をつく。
「昨日のこと、あとから聞いた。紗季には俺からちゃんと言っておく。あいつ、頭に血が上ってたんだ」
私は天井を見つめたままだった。
「紗季もさ、殴ったときに右手を痛めたらしくて。骨折して、下の階に入院してる」
私はゆっくり顔を向けた。
「私に、それを聞いてどうしろっていうの?」
「いや、そういうつもりじゃ……」
征也は鞄から書類を取り出した。
「弁護士に用意してもらった。ちょっと見てくれないか」
表紙には、示談書と書いてあった。
「これにサインしろってこと?」
「紗季も反省してる。もちろん、治療費も慰謝料も払うから」
「私をあんな目に遭わせておいて?」
征也は書類に目を落とした。
「……瑛太がまだ小さいんだ」
「それで?」
「母親がいなくなったら、あの子はどうなる? 千紘が怒るのはわかるけど、ここは何とか……」
私は黙っていた。
征也は書類を少しこちらへ押した。
「昨日、警察を呼んでくれた隣の人もいるだろ。あの人にまで、これ以上面倒がかからないようにしたいんだ」
シーツをつかむ指に力が入った。
隣に住む女性とは、廊下で会えば挨拶する程度の付き合いしかなかった。それでも昨日は、物音を聞いて駆けつけ、警察に通報してくれた。
征也が本当に彼女のところまで何か言いに行くのかは、わからない。
けれど目の前にいる男は、私を六年も騙してきた。
彼は返事を待っていた。
長い沈黙のあと、私はうなずいた。
「……わかった」
征也がほっとした顔でペンを差し出す。
私は受け取らなかった。
「その前に、窓際まで連れていってくれる?」
「今? 先生にあまり動くなって言われてるだろ」
「少し日なたにいたいの」
征也は迷っていたが、やがて立ち上がり、私を支えてベッドから下ろした。
足を床につけるだけで腰のあたりに痛みが走る。彼の腕につかまりながらゆっくり歩くと、征也が窓際に置いてあった椅子を引き寄せ、カーテンを少し開けた。
日差しが手の甲に当たった。
「征也、半地下の部屋に住んでた頃、私が何を欲しがってたか覚えてる?」
彼は答えなかった。
「窓だよ」
あの部屋には細長い小窓が一つしかなく、外は隣の建物の壁だった。昼間でも電気をつけないと薄暗かった。
「引っ越してからは窓があったけど、北向きだったでしょ。いつかお金を貯めて、南向きの家を買おうって言ってたよね」
征也はうつむいた。
「千紘、覚えてるよ」
「ベランダも欲しかったな。晴れた日に布団を干して、花をいくつか置いて」
私は日差しに指先を伸ばした。
「いつになったら住めるんだろうって、ずっと思ってた」
征也は椅子の背を握りしめた。
「……俺が買うよ」
私は答えなかった。
しばらくして、窓のほうを見上げた。
「もう少し、カーテンを開けてくれる?」
征也は立ち上がり、窓の反対側へ回った。
私は膝の上に置いた両手を見下ろした。
包帯の隙間から覗く指先は、まだ赤く腫れている。朝から何度も薬を塗られ、胸の痛みで眠ることもできなかった。
それなのに、征也の前ではもう泣きたくなかった。
窓から差し込む日差しは、思っていたよりも暖かかった。
征也がカーテンを引く音を聞きながら、私は長いこと、その光を見つめていた。
あの朝の記憶は、そこで途切れている。
6
鷹取征也が異変に気づいて振り向いたとき、千紘の姿はもう窓辺から消えていた。
慌てて駆け寄り、伸ばした手は空をつかんだ。
耳鳴りがして、病室へ入ってきた看護師の声さえ遠く聞こえた。
「ちょっと、危ないですよ! 戻ってください!」
看護師が服をつかんでも、征也は窓の外へ腕を伸ばし、千紘の名前を叫び続けた。駆けつけた男性職員二人がかりでようやく引き戻され、その拍子にベッドがずれ、サイドテーブルのグラスと花瓶が床で砕けた。
「先生を呼んで! 救急対応お願いします!」
病室に入ってきた看護師長は、窓の外を確認すると、すぐに救急対応と警察への連絡を指示した。
征也は椅子へ座らされたものの、体を支えることもできなかった。
開きかけのカーテンから日が差し、千紘がさっきまで座っていた椅子を照らしていた。
耳の奥で、千紘の声が繰り返された。
「もう少し、カーテンを開けてくれる?」
征也は両手で顔を覆った。
「千紘……」
しばらくして立ち上がると、病室を飛び出し、非常階段を駆け下りた。
下に着いたときには、救護スタッフが緊急対応を始めていた。周囲の人は離れるよう指示されており、征也も近づこうとして止められた。
「すみません、下がってください!」
「千紘は? 俺はあいつの――」
途中で言葉が詰まった。
スタッフが続きを待っている。
「……知り合いなんです。お願いします。助けてください」
千紘は救命処置のため搬送された。
征也は付き添おうとしたが、待つように言われ、廊下で立ち尽くした。何度もスマートフォンを手に取るものの、誰に電話すればいいのかわからなかった。
紗季が入院している特別病室の前を通りかかったとき、聞き慣れた声がした。
「ほんと嫌になる。病院でこんな騒ぎになるなんて」
紗季だった。
電話で誰かと話しているらしい。
「私もあとから聞いたんだけど、上の階から誰か落ちたんですって。どこもばたばたしてるみたい」
しばらく間が空いたあと、紗季は声を低くした。
「征也も昨日からずっと機嫌が悪いの。あの女のことばっかりで……。もうあの人の顔なんて見たくない。征也もいい加減にしてほしいわ」
征也は勢いよくドアを開けた。
7
紗季は驚いて顔を上げ、征也が立っているのを見るとスマートフォンを下ろした。
「征也? どうしたの、そんな顔して」
ベッドから降りかけた紗季の頬を、征也が叩いた。
紗季は枕のほうへ倒れ込み、しばらくしてから顔を上げた。
「……私を叩いたの?」
征也は肩で息をしていた。
「千紘が、転落した」
「……え?」
「今、手術してる。助かるかどうかもわからないんだ!」
紗季は言葉を失った。
征也は彼女を指さした。
「おまえが昨日あんなことしなければ、あいつは大怪我なんかしなかっただろ!」
紗季は頬を押さえたまま、ゆっくり体を起こした。
「……征也。あの女のために、私を叩いたの?」
「あいつは死にかけてるんだぞ!」
「じゃあ、私にどうしろっていうの?」
征也は何も言えなかった。
紗季はしばらく彼を見つめ、それから小さく笑った。
「私のせいにするんだ」
「俺だって悪かったよ。だけど……」
「当たり前でしょ」
紗季はスマートフォンをつかんだ。
「結婚する前から付き合ってたんでしょう? そんな話、私は一言も聞いてない」
征也は拳を握りしめた。
「だからって、殴ることないだろ」
「あなたはあの人をどう扱ってたの? 今だって、あんな古いアパートに住まわせてるんでしょ?」
征也は顔を伏せた。
紗季は彼から目を離さなかった。
「次に手を上げたら、お義父さんたちに全部話す。会社に知られたらどうなるか、あなたが一番わかってるでしょ」
征也は黙っていた。
紗季なら本当にやるだろう。
征也はずっと、両親に千紘の存在を知られることを恐れていた。榊原家との取引に影響が出るのも怖かった。古いアパートへ帰る前には高い服を着替え、車の鍵を隠し、忙しい仕事の話を用意した。
千紘は一度も疑わなかった。
「……俺が、あいつをこんな目に遭わせたんだ」
ぽつりと漏らすと、紗季は顔を背けた。
「今さら言ってどうなるの。病院に戻って様子を見てきたら? もうここにいないで」
征也は紗季を一度だけ見て、病室を出た。
救命処置が行われている部屋の前に戻ると、表示灯はまだついていた。
征也は壁にもたれ、千紘が南向きの家について話していたときの顔を思い浮かべた。覚えてる、と答えた自分の声まで、はっきり思い出せる。
彼女は知らない。
征也がその気になれば、とっくに買えていたことを。
いつか金ができたら、仕事を辞めてもいいし、水道代や電気代を気にしなくてもいい暮らしをさせてやる。そう約束したこともあった。
今の征也は、会社で何千万円もの契約書に平気で署名している。
それなのに千紘は、五万円のエアコンを買うことさえ、何日も迷っていた。
どれほど待ったのか、覚えていない。
表示灯が消えると同時に、征也は立ち上がった。
医師が出てきた。
「矢代さんのご家族の方ですか?」
征也は口を開いた。
「……一緒に暮らしていました」
医師はそれ以上追及せず、静かに告げた。
「残念ですが、助けることができませんでした。非常に重い外傷で、できる限りの処置はしたのですが……」
征也は動かなかった。
「……そんな」
医師は黙っていた。
「さっきまで話してたんですよ。普通に、俺と……」
征也は医師の袖をつかんだ。
「もう一度、なんとかなりませんか。まだ若いんです。お願いします」
スタッフがそばに来て、手を離すよう声をかけた。
征也はゆっくり指をほどいた。
医師から改めて説明を受けても、頭には何も入ってこなかった。病院側では必要な手続きと関係者への確認が進められるという。
征也は壁際の椅子に腰を下ろし、閉まった扉を眺め続けた。
やがて廊下の向こうから、警察官が数人歩いてきた。
先頭にいたのは、前日、千紘への傷害事件を担当した女性警察官だった。
8
女性警察官は征也の前で立ち止まり、まず名前を確認した。
「鷹取征也さんですね。事故が起きたとき、病室にいらっしゃったんですか?」
征也はうなずいた。
「はい」
「当時の状況を伺いたいのですが、お話しできそうですか?」
征也はすぐに答えられなかった。
財布から古い写真を取り出し、警察官に差し出す。
「これ、俺と千紘です。六年前から一緒にいたんです。あいつ、家族がいなくて……葬儀のことは、俺に任せてもらえませんか」
灯凪町のアパートの前で撮った写真だった。
征也は色あせたTシャツを着ている。隣の千紘は目を細め、楽しそうに笑っていた。
警察官は写真を見ると、静かに返した。
「矢代さんとは、ご結婚されていたんですか?」
「一緒に暮らしていました」
「婚姻届は出されていますか?」
征也は写真を握ったまま、俯いた。
「……出していません」
警察官は手元の資料に目を落とした。
「そうですか。では、配偶者として手続きを進めることはできません。こちらで親族関係を確認して、関係機関と相談します」
「でも、本当に身寄りがないんです」
「その点も調べます。まずは事故の経緯を詳しくお聞かせください」
征也は写真に目を落とした。
「せめて、最後くらい……」
警察官はその言葉には答えなかった。
「鷹取さん、こちらへお願いします」
必要な事情聴取を終えたあと、征也は一人で病院を出た。
会社へも、鷹取家の屋敷へも戻らず、車を灯凪町へ走らせた。
アパートのドアは壊れたままだった。
中は荒れ果てていた。割れたコップが床に散らばり、古いソファは横倒しになっている。カーペットには乾いた血の染みが残っていた。
征也はしゃがみ込み、青い小花模様のついた陶器の欠片を拾った。
茶碗だった。
ここへ引っ越したばかりの頃、千紘に連れられてホームセンターへ行き、二人で長いこと迷って選んだ食器だ。
「一緒に暮らすんだから、そろそろお揃いの食器が欲しいな」
千紘はそう言っていた。いつまでもコンビニでもらった割り箸や使い捨ての容器では味気ない、と笑っていた。
征也は掌の欠片を見つめた。
六年前の雨の夜が浮かんだ。
商店街で千紘が差し出してくれた、焼きたてのたい焼き。
そのあと熱を出した自分のために、仕事を休んで薬を買い、世話をしてくれたこと。就職先が見つからず落ち込んでいたとき、一緒に求人票を見てくれたこと。
湿っぽい半地下の部屋に住み、スーパーの半額弁当を食べた日もあった。冬は一枚の布団にくるまって眠った。
缶ジュースのプルタブを指輪代わりにして、ずっと一緒にいようと約束したことも覚えている。
あのとき千紘は、笑ってうなずいた。
嬉しくてたまらなかった。
実家へ戻ってから、征也はあのアパートへ帰るのがだんだん億劫になっていった。ドアを開けると湿った古い建物の匂いがして、使い込まれた家具が目に入る。
それでも千紘は、いつも部屋をきれいにしていた。
壁際には小さな収納棚が置かれ、窓には自分で丈を直したカーテンが掛かっている。これだけでも少し明るくなるでしょ、と千紘は言っていた。
征也は陶器の欠片を握りしめ、俯いた。
以前、不動産会社から届いた新築マンションの案内を見て、千紘に一室買ってやろうかと考えたことがある。
けれど、どこからそんな金が出たのかと聞かれたら困る。
結局そのパンフレットは会社の引き出しにしまい、千紘には何も言わなかった。
部屋は静まり返っていた。
征也は日が暮れるまで、床に座り続けた。
その夜、鷹取家の屋敷へ戻ると、真っすぐ書斎へ入った。
机には翌日の会議資料と、署名を待つ契約書が積まれていた。征也はそれには手をつけず、便箋を取り出した。
六年前に家出をしたこと。
千紘と出会い、そのあと実家へ戻って縁談を受け入れたこと。
婚姻届受理証明書を偽造し、千紘に結婚していると思い込ませたこと。紗季と正式に結婚したあとも、ずっと嘘をつき続けてきたこと。
さらに、紗季が男たちを連れてアパートへ押しかけた経緯と、自分が千紘に示談を迫ったことも書いた。
関係するメッセージや送金記録、手元に残っていた書類を整理し、警察宛てと記した封筒に入れた。
千紘の遺体は、関係機関による手続きを経て火葬されることになっていた。日程はまだ正式には決まっていないと聞いていた。
征也は最後に一目会いたいと願ったが、認められなかった。
机の上に置いた二人の写真を、長いこと見つめていた。
その夜、征也も自ら命を絶った。
翌朝、屋敷の使用人が異変に気づき、警察と救急へ連絡した。書斎に残された手紙と資料も、警察に渡された。
9
征也の残した資料をもとに、それまで別々に扱われていたいくつかの事件について、改めて調査が進められた。
まず確認されたのは、婚姻届のことだった。
市役所には、矢代千紘と鷹取征也の婚姻届が受理された記録はなかった。千紘が大切に保管していた受理証明書も、正式に発行されたものではなかった。
警察はさらに、メッセージの履歴や防犯カメラの映像、診断書、近隣住民の証言などを調べ、紗季たちがアパートへ押しかけた日の出来事を確認していった。
通報した隣人の女性も、再び事情を聞かれた。部屋から物が壊れる音と助けを求める声が聞こえ、様子を見に行くと、複数の人間が千紘に暴力を振るっていたという。
医療記録には、肋骨二本の骨折と、それ以前に負った重いやけどが記されていた。
裁判になってから、紗季は夫に裏切られたことへの怒りがあったと認めたが、起訴内容の一部については争った。征也が二つの生活を隠していたことや、婚姻届の証明書を偽造していたことも、調査の中で明らかになっていった。
数か月後、判決が言い渡された。
紗季は傷害、住居侵入、器物損壊などの罪で、拘禁刑三年の実刑判決を受けた。
捜査や裁判の内容が報じられるにつれ、鷹取家の会社にも影響が及んだ。
征也が結婚後も別の女性と長年暮らし、偽造した書類で婚姻関係を装っていたこと。そして千紘が傷害事件のあとに亡くなったことが広く知られるようになり、会社の株価は下落した。取引先からは説明を求められ、予定されていた契約の一部も見送られた。
すでに経営の第一線から退きかけていた征也の両親は、再び会社へ出るようになった。
父親は早朝から出勤し、夜遅くまで弁護士や取引先との電話に追われた。母親は家のことを取り仕切る一方で、幼い瑛太の世話もしなければならなかった。
瑛太は父親を亡くし、母親とも離れて暮らすことになった。
最初の頃は、祖母に何度も父親がいつ帰ってくるのかと聞いていたという。やがて何も聞かなくなったが、父親にもらったおもちゃを抱えて、部屋に一人で座っていることが増えた。
征也の母親は、その姿を見るたびに、子供に気づかれないよう顔を背けて涙を拭った。
両家の結婚によって保たれていた仕事上の関係も、一つずつ見直されていった。
* * *
いつから意識が戻っていたのか、自分でもわからない。
気がつくと、私は灯凪町のアパートを見下ろしていた。窓には昔のままのカーテンが掛かっている。
部屋の中に、私の姿はなかった。
体の痛みは消えていた。
私はただ、誰もいなくなった部屋を眺めていた。
窓は相変わらず北向きだった。
朝になると、まず向かいの建物に日が当たり、それから少しずつ通りが明るくなっていく。部屋の中まで光が届くこともあるけれど、長くは続かない。
昔はよく、窓辺に立って新しい家のことを考えていた。
広い家でなくてもいい。冬でも日が入って、ベランダに花をいくつか置けるくらいでよかった。天気のいい日は、布団を干したかった。
征也はそんな家を買ってくれると言っていた。
ずいぶん前から、その気になれば買えたのだろう。
でも、もういらない。
六年前の雨の夜を思い出した。
商店街の軒先で、濡れた服のままたい焼きを見つめていた征也。私が二つ買い、一つ差し出すと、彼は小さく頭を下げた。
あのときの声も、缶ジュースのプルタブでプロポーズされたときの、震えていた手も覚えている。
あの頃、私は本当に幸せだった。
もう戻れないけれど。
もし生まれ変われるなら、今度は日当たりのいい小さな部屋に住みたい。
晴れた日は布団を干して、週末には商店街で焼きたてのたい焼きを二つ買う。雨が降ったら、自分の傘を差して帰る。
鷹取征也とは――
もう二度と、出会いたくない。
(完)




