アヤメの仮葬刷
「アヤメの仮葬刷」
二〇五〇年。情報端末機器は光の速さで技術が進歩している。右手にはスマートフォン、左手には週刊誌。街行く人々はみな、下を向き歩く。それが、冷戦状態の日常だ。PM2.5がかかった青紫色の空も、今では日常になった。世界を襲った感染症がやっと終息したと思いきや、技術が進歩するたびに街には霧がかかっていった。
午後八時。夏の夜は少し涼しい。太陽と同じくらい明るい街の照明が、チカチカと光っている。
「もしもし。…はい。あと三本記事を書いておいて下さい。今、発見しました」
二十代半ばの短髪の女性、菖蒲佳波が、スマートフォンを目の前で持ってテレビ電話をする。歩きスマホはもう誰もがしている事で、感じの悪いものでは無くなっていた。今では感じの悪いものはおろか、歩きスマホをしていない方が常に情報を確認しておらず世間知らずだと非難されている。
『そうですカー、アリガトございます。確認できたら直ぐにまた連絡クダサイ』
「……わかりました。日本語上手になったね、李さん」
佳波はため息をつき、通話を切る。佳波は週刊誌記者である。
世界中で誹謗中傷が相次ぐなか、週刊誌はテレビのニュースでは取り扱えないような情報まで片っ端から載せる、行きすぎた行為をしていた。
佳波の所属している「週刊百日紅」は、その中でもかなりプライベートな行動も見逃さない時代の先端を行く人気雑誌である。週刊百日紅に載った芸能人は、ネットで叩かれ追い詰められ、最終的には活動休止をするほどにも発展するという話が出回っているが、現実はもっとひどかった。最近ではネット内での誹謗中傷で自殺者が急増するという意味の流行語《#第一次世界冷戦》がネット内のトレンド一位を独占して、ニュースでも大問題になっており、かなり深刻な状態になっている。それに大きく関わっている週刊誌記者は、皆からの嫌われ者ものでもあった。
しかし、週刊誌はテレビに出ない事まで知れる為、日に日に購読する人が増えて、今では殆どの人が週刊誌を片手に歩く社会現象にもなり、今では「片手に週刊誌」がマナーになっている。それが半年ほど前のことだ。そんな事があっても、やはり行きすぎた週刊誌記者はかなり嫌われていた。
街の高層ビルには、大型テレビがいくつも並んでいる。最新ニュース、人気アイドルの情報、流行りの食べ物のCM…など、見て損はないもの《だけ》が集まっている。
『こんばんは、午後七時のニュースです。第一次世界冷戦による誹謗中傷で、自殺者がきょう千人を上回りました。この調子で冷戦が続くと、十年後には世界の人口が三〇パーセント減少する見通しが付いています。都道府県別の自殺者は……』
佳波は大型テレビを流し目で見る。テレビの周りには、スマートフォンを持った人間が何百人もごった返していた。
(十年間も冷戦が続くなんて、そんな残酷なことはないに決まってる。…ただ私は、真実を載せているだけ)
佳波の耳に、街中の人々の声が入り込む。待ちゆく人の言葉は、記事のネタ集めに重要な話題が含まれていることがよくあるため、地獄耳は得意だった。
「悪口言うヤツも最低だけど、『悪口言ってたよ』って告げるヤツも最低だよね」
「週刊誌もそれと同じだよ。知りたくない事も載せやがる」
そんな声が、街に響く。佳波は耳を傾けながら、次の記事のターゲットを追う。
『次のニュースです。数々の週刊誌にて取り上げられていた、俳優の綺羅星キラトさんが昨日、事務所の個室で死亡していた事が明らかになりました。警察は自殺として捜査を進めています。死亡動機は誹謗中傷などで…』
佳波は目を丸くした。アイドルに疎い佳波でも知っているようなトップアイドル『綺羅星キラト』が突然自殺したという報道を聞いたら、誰でも驚くだろう。大型テレビの近くにいた人たちほぼ全員が、呻き声と嘆き声をあげる。泣きじゃくっているひと、驚いて声も出なくなっているひと、地面に倒れこんでいるひと……その人たちに《触れないように》、佳波はそろそろと避けながら歩く。ターゲットはまだ近くにいた。
(今は綺羅星キラトの事じゃない。今のターゲットを追わなきゃ)
佳波は息を殺しながら走った。その時だった。
ドン!
「あ、僕…ごめんね! 痛くなかった?」
「…はい。大丈夫です、すみません」
佳波と少年が《ぶつかった》。ニュースで嘆いている人たちを交わすのに必死で、それ以外の人を避ける事を考えていなかった。少年は律儀に頭を下げる。身長や振る舞いからして、佳波は小学六年生くらいだと推測した。
「そ、そっか。僕、あ、ありがとう」
「は、はい」
「あ、うん…あははっ」
佳波は仕事以外で人と話す事に慣れていないため、いつも会話が途中で狂うことがある。
「お姉さん、大丈夫ですか? さっきのでケガしましたか? すみません」
おかしな会話をする佳波を心配して、少年は焦って言った。
「ち、違うよ! ごめんね! そ、それじゃあ」
恥ずかしくなった事と、ターゲットを追わなければいけない事で、佳波は背を向いて走り出した。…厳密には、走り出そうとした。
「……っ!」
その瞬間、佳波の身体は、金縛りになったように動かなくなった。
(──どうしよう、どうしよう、どうしよう)
佳波は汗が止まらなかった。今まで人に触れないようにしてきた佳波だが、それには限界があった。
佳波は、触れた相手の過去…即ち、記憶に入りこむ事ができる。勿論、少し《ぶつかった》でも、その力は発動する。
記憶を読んでいる間は時間が全く動かずに、《自分が言葉を発しない限り》は、ずっとその世界にトリップすることができ、記事を書く事も写真を撮る事も可能だった。
(よりによってこんな時に。アイツが…次の記事が)
だんだん意識が遠くなっていく。ぶつかってしまった少年の過去と未来が、どんどん佳波の脳にぶつかってくる。
『あいつってキモいよな、調子乗らんで欲しい』『秘密だって約束したのに! なんで守ってくれなかったの⁉』『お母さんはいつも貴方の見方だよ』『タカシ、ゲームしよう!』『お母さん買い物行ってくるね』『あっち行ってよ!』『大嫌い!』『欲しがってたプラモデルだよ』『転校生の田中くんです』『お誕生日おめでとう!何がほしい?』『旅行楽しみだね!』『何が辛いの?お母さんになら何でも言ってね』『俺、タカシと友達になれて良かった! 本当だよ』
人生をパズルのように切り取った言葉が、佳波の脳に流れ込む。何となく少年の人生が分かった気がしたが、この際どうでも良かった。佳波はすぐにタイムスリップから戻れるように、全力で叫んだ。
「あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねの~! はひふへほまみむめもやゆよらりるれろわをん~!」
本当は「あ」と言っただけでも戻ることができるが、五十音を全て言ってしまった佳波はかなり焦っていた。ターゲットを見失ってしまう、その事だけを考えていた。声を出したのはタイムスリップ中だった為、人には何も聞こえずに現実世界に戻れることができたが、最後の『わをん~!』は少し聞こえていたらしく、周りの人たちが細い目でじろじろ見ていたが、睨まれるのに慣れている佳波は何とも思わなかった。
(それにしても、何だか見てはいけない物まで見てしまったのかも。情報収集以外に力を使いたくないのに)
知ってしまったことに罪悪感を抱く。佳波が学生のころは、よく『なんで知ってるの?すごい!』と言われるばかりだった。しかし、記者になってからは、『知らないほうがよかった』といわれる機会のほうが何倍も増えていく一方だ。少年は、まだ近くで週刊誌を読んでいた。
「たっくん、どうしたの?もう行こう、お腹空いたでしょう」
少年はぴくりとも動かずに週刊誌を読んでいた。佳波は少し気になって少年を見ていた。
(どうしたんだろう、この子)
母親は浅いため息をつき、やれやれと言った。少年はこんな事がよくあるらしい。
(何なんだ、この子?)
佳波はスマートフォンを握りしめた。まだ、少年は週刊誌をすごい形相でみている。汗はびっしょりと出ていた。
「たっくん、大丈夫?汗が…」
母親のいうことを無視して、少年はパラパラと〈週間百日紅〉をめくっていく。週刊誌なんて子供が見るものではないのに、なんて世の中になってしまったんだと佳波は自分に対して嫌悪感を抱いた。
(この子のお母さん、優しそうだな。私のお母さんは、どこか行っちゃったけど)
佳波の母親は、十年ほど前に姿を消した。母親といた楽しい記憶は残っていても、佳波の前に現れなくなったことの記憶は完全に佳波から消されていた。
(もしかしたら、もう死んでしまっているかもしれない。お母さんが今、この光景を見たらどう思うんだろう)
そんな考え事をしている間に、少年は佳波の担当しているページを一文字一文字目で追いかけていた。
『たっくん!せっかく買ったアイスが溶けちゃうわよ!』
母親が小さい声で怒った。まだ少年は気にせず週刊誌を読んでいる。ハァ、ハァ、と過呼吸になりながら。
「アイスクリーム。しかも限定チョコミント味」
しかし、母親が耳元で囁くと、少年はハッと気がついた。
(やっぱり中身は子供だな)
佳波は少し安心した。最近の子どもは野球やサッカーをしないため、もしやアイスにも興味が無いのかと思っていたが、それほどでも無かったようだ。
「ごめん、お母さん」
少年はやはり律儀だった。親にこんなに素直だったら、いったいどこで反抗するのだろうか。
「そんなに謝らなくてもいいわよ……アイス溶けちゃったら、たっくんのせいだからねー」
「…うん」
少年は何か言いたげに母親についていく。時々『あっ……』と話すチャンスを狙っていたが、鳴りやまないスマートフォンの通知音で母親は気づいていなかった。
「お……お母さん」
佳波はしばらく親子を見守っていた。いったい何を言うのかと、胸がどくどく高鳴っていた。週刊誌、それも自分が書いた週間百日紅を、少年が読んでいる。それは、率直な感想を聞ける絶好の機会でしかない。
「……ねえ、お母さん」
ピロリン、ピロリン。
「あら電話。たっくん、何か言いかけた? 電話の後に聞いてあげるから」
佳波は『えっ』と声を漏らした。少年はもの言いたげに口をぱくぱくさせている。
「はい、もしもし! あらっ、こんばんはあ! ちょっと待ってくださいね。今、子供いるから。またあとで連絡…」
少年は手をがくがく動かす。持っていた週刊誌はどんどんシワがついていく。
「お母さん、お母さん…」
母親は電話を続けている。佳波は一歩も動けなくなっていた。
「お母さん‼」
その瞬間だった。少年は街に響き渡るほどの大きな声をあげた。母親はびくりとして、スマートフォンをガシャンと落とした。少年は落ちたスマートフォンを素早く奪い、過呼吸になりながら大きな声で言った。
「銃が無くなっても、悪口がまだあるからいけないんだ!」
よほどそのことを言いたかったのか、少年はふうと息を吐いた。
「た、たっくん⁉ どうしたの、急に」
街の人が、少年のほうにがやがやと集まってくる。佳波もその一人になって、じっと少年を見つめていた。
「大きな爆弾で大きくは死なないけど、自分で静かに死んでいく。…まるで、静かな戦争みたいだ」
佳波は目を見開いて少年を見ていた。こんなにはっきり真実をいうことができる子どもを、佳波は初めて見た。子どもと大人が逆転してしまったような気持ちになる。
(私は…記者になって、いったい何をしたかったんだろう?)
胸に手を当てて考えてみる。週刊誌記者は、ニュースでは取り扱えないことを沢山載せて、様々な人に影響を与えてきた。それは、凄いことだと佳波も誇りを持っていた。……ただ、記者は真実を追うだけに必死になりすぎている。
(今まで、真実を見ることに罪悪感を抱いたことって、あったっけ)
佳波は少年を見つめる。何かが見えてくる気がしたが、さっぱりわからなかった。冷戦を酷くしているのは、SNSでの誹謗中傷もあるが、要らない情報まですべて載せてしまう記者も『共犯』である。悪口は、どう頑張っても消えることはない。冷戦時代では、人を直接的に殺すなんてことはしない。代わりに、自ら命を落とすように誘導して、間接的に殺してしまうのだ。
「静かな戦争かあ…たっくん、それはね、冷たい戦争って言うんだよ。ハッシュタグ、第一次世界冷戦」
少年の母親は、歪んだ顔で微笑んだ。
「うん、知ってる」
「そっか……」
母親の顔が曇った。それを感じ取ったのか、少年は笑顔で言った。
「ね、ね、アイス、食べたい!」
「……帰ったら、ね」
親子が少しだけ重い足取りで歩いていった。佳波は、それが見えなくなるまでずっと目を見開いていた。野次馬はぞろぞろと少年に背いて歩きだす。
(…真実を《ここ》に書いてしまったら、誰かを間接的に殺してしまうって、分かっているのに)
佳波は立ちすくんでぼんやりとしていた。十数年前の穏やかな町並みは、ここには無かった。見えるのは、スマートフォンに集中する人々、泣き崩れている人々、そして、高すぎて空が見えづらいビルくらいだ。きっと今もどこかで誹謗が飛び交い、どこかで人が人を中傷している。この瞬間も、人が冷戦で命を失っている。それでも、冷戦は続く。そんな『生きづらい社会』の中でも、人々は生きていかなければならない。
佳波は辺りを見渡す。ずっと考え事をしていたため、記事のターゲットがもう視界に居なくなっていることに気が付いた。
(やばい、アイツ見失っちゃった…編集長に叱られちゃう。でも)
ピ、ピ、ピ、プルルル…
佳波は片手に持っていたスマートフォンで電話をかけた。
「あっ、もしもし李さん。ごめんなさいね、アイツどこに行ったか分からなくなりました。記事も書けません」
『哦,是的⁉ 我不明白,为什么⁉』
後輩記者である李・珠蘭は、驚きのあまり日本語が話せなくなってしまった。おそらく、『何でですか!』と言いたいのだろう。佳波はため息をつく。夏の吐息は、少しだけ熱かった。
「すっ、少しくらい、いいじゃないですか。記者は皆が知りたい情報を集める職業ですから」
『……エエ、どういう意味ですカ? でも、私、日本のことは好きでス』
「あはは……」
眉間に皺を寄せ、電話越しで微笑み通話を切った。時刻はもう二十一時だった。人々はまだ昼間かのように出歩いている。最近は昼夜逆転も問題になっているため、次はそのことについて記事を書こうと考える。
自宅のマンションが見えてきたとき、下の階の花崎正人がマンションに入っていく姿が見えた。佳波は咄嗟に木陰に隠れる。力を使う事が怖いため、出来るだけ人とは接触したくないと思っていた。正人は佳波より十歳年上の三十三歳の男で、最近はよく猫背で歩いている。鉢合わせが嫌なため、佳波はしばらく木陰でじいっと待っていた。
「なんか怪しい女の人がいるよ」
「記者かしら、それが違ったらただのストーカーね」
最近の子どもと親は鋭い。佳波は振り向きたい気持ちを抑えて、静かに正人を待つ。およそ一分後に、佳波は歩き始めた。古臭くて動きが遅いエレベーターは、まだこのマンション以外に残っているのだろうか。今ではすべて顔認証などのオートロックで家に入れるため、すべて鍵で管理するのも珍しかった。ドラマでよく見る、記者が住んでいそうなマンションだ。
「ただいまー」
ドアを開けた先には誰もいないが、とりあえず挨拶は言っておく。部屋の隅には、数百冊以上の週刊誌が山積みになっている。佳波は靴を脱ぎ捨て、手も洗わずに畳に転がってスマートフォンを触り始めた。
(あ、李さんからメール来てたんだ……ん、編集長からも。既読にしたくないなあ)
佳波は一つずつメールに返信していく。部下と上司でメールの文面を変えなければならないのは、記事を書くよりも大変な作業だ。
ピロン。
匿名サイトの書き込みに一件のコメントが届きました、と通知が来た。
(こんな時間に私の書き込みをチェックするなんて、暇な人もいるんだな)
佳波は無造作にサイトを開く。
【私はどんな事があっても、記者として情報を伝え続けます。たとえ、今ここで人が死んでいても関係ありません。…でも、誰も知りたくない情報くらいは、見逃してやってもいいと思いますか?】
(あっ、昨日書いたやつだ。恥ずかしい)
書いたことを後悔しながら、画面をスクロールしてコメント画面に移す。この書き込みにどう返事するんだろう、もしかすると否定されるかもしれない、変に拡散されたらどうしようと昔は思っていた。しかし、記者になってからは誹謗中傷が日常になっており、今までにしていた被害妄想がすべて現実になってしまっているため、SNSに対して『自分が傷つきたくない』という思いは捨てなければならなかった。記者がナイフを向けられる事件も数年前にはあったらしい。
「!」
その瞬間、月光が窓から照り、暗かったスマホの画面がセンサーに反応して急に明るくなった。それだけではない。スクロールした先には、佳波をどこかで見ていたかのようなコメントが書かれてあった。
【記者は皆が知りたい情報を集める職業、なんでしょう? 名無しのA】
「えっ」
佳波は背筋が凍った。数分前に後輩の李・珠蘭に言った言葉が、そっくりそのままコピーしているように書かれてあった。
(やばい…これ、ちょっと前の私の言葉だよね? しかも全く同じ。もしかして…)
プライバシーを考えるよりも先に、佳波は仕事を心配した。記者…特に週刊誌記者は、できるだけ目立たずに記事を集めないといけない。もしも、投稿した人が世間をざわつかせる『週間百日紅』の記者だとわかってしまったら、家に押し寄せて怒鳴る人が続出するかもしれない。二〇五〇年の日本は、どんな情報でも見逃さない冷戦時代である。その情報源である記者の身元が特定できたら、すぐさまネットニュースにトピックとしてあげられてしまうだろう。佳波はパニックになり、畳をぐるぐる歩き始めた。
(個人特定された! どうしよう、どうしよう、どうしよう……)
古くて狭い畳がギシギシいってうるさいが、音を気にしているような時間はなかった。
「と、とりあえず非公開!」
佳波はぴたりと止まり、畳に置きっぱなしだったスマホを取ってすぐに非公開ボタンを押した。一気に心が楽になる。まるで何かから解放されたような気持ちになった。
(あ、危なかった…投稿をコピーされていたり写真に撮られていなかったらいいけど)
月が雲に隠れて、一気に視界が暗くなる。
(こんなに夜って暗かったっけ)
街のネオンライトも十分輝いているが、月明かりのほうが何倍も明るかった。
(そういえば…昔もこのくらいの暗さだった気がする)
隣に母親と父親が立っているように感じた。同じ地球にいる……はず、なのに、一人はどこにいるのか分からないし、もう一人は中々会いにきてくれない。
(この世界に悲しみは消えない…っていうのは、分かってるけど)
佳波は思い切り息を吸った。自分の心の中に眠っていそうな涙を、できるだけ流せるように。
(…夜の空気って涼しいな…)
佳波は何度も空気を吸った。緑の匂い、暑苦しいような空気の匂い、窓ガラスの匂い、畳の匂い。それらが混ざって、ここにしかないような匂いが香る。
「何だか、悪くないかも……って、ごほっ!」
その瞬間、煙草のにおいが窓からすごい勢いで入ってきた。それを佳波は思い切り吸ってしまった。
「……⁉ うわ、煙草…最悪」
下の方からだろうか。煙草特有の鼻につく臭いがした。佳波は幼いころから煙草の臭いが好きではなかった。大嫌いというほどでもなかったが。
(煙草、下の階からかな……花崎さん、煙草吸ってそうだし。あと、最近の花崎さんの私への態度がなんだか悪くなっている気もするし……最近うるさくしすぎたかな……)
今日は個人情報特定事件の時に部屋中をバタバタ歩いてしまったし、煙草の臭いに『最悪』と野太い声で言ってしまった。これが下の階に全部聞こえてしまったら、もう合わす顔がなくなってしまう。佳波は投げやりになって、思い切り窓をしめた。佳波は生まれた時からこのマンションに住んでいて、正人は十年ほど前に引っ越してきた。それからというもの、私が床を飛び跳ねると、父親や母親に「うるさい!花崎さんに迷惑よ」とか「花崎さんが怒鳴って部屋に来ちゃうわよ!」みたいな変なことを言われていた。
雲に隠れた月が、また顔を出す。まるで、母親の表情みたいだ。いつもやわらかい表情をしていたのに、もう十年以上も会いにきてくれていない。月光も所詮そんなものだ。もともとは明るいのに、雲にかかってしまったら真っ暗になってしまう。窓を閉めて静寂になった自室に、エアコンの風がびゅーんと佳波に直撃する。
「今の日本は、冷たすぎる」
体感で分かる冷たさは、エアコンの温度をあげれば万事解決できる。でも、心で感じる冷たさや孤独感は、どうやったら暖かくなるのだろう。冷戦を続けているのは自分だと分かっていても、記事を書かないという選択肢が佳波の中にはなかった。
ピロリンリン♪
スマートフォンに一件の通知が来る。世界的に有名なソーシャルメディアのアプリからだった。通知をいちいち消すのが面倒な佳波は、十年ほど前のものまでおよそ千件の通知を残している。今では一つのボタンですべて消すことができるが、長年通知をため続けたせいか、すべて消すのは名残惜しさがあった。
新着の通知は化粧品の広告で、胡散臭さが漂っている。『一週間使っただけでこんなに違う!嘘、この人って五十歳!?』がキャッチコピーだ。映っているモデルの人は、どう見ても三十代前半だ。二十歳近く年齢をあげられるなんて、と哀感を帯びた心で思う。でも、きっと週刊誌も同じだ。本当のことよりも、少しだけ上乗せして大げさに記事を書くことが多い。週刊誌は九割がでたらめな情報だ、という批判意見に、佳波は否定することができない。でも、そんな事もしないと、皆に『見てもらえない』のだ。
(私は過去を見ることができるけど、普通の人は自力で探さないといけないもんな)
ピロリンリン♪ピロリンリン♪
またスマートフォンに通知が流れ込む。
「あれ、また」
…十年前のあなたは、こんなことを思っていました。という題名のメールだ。文字のすべてが嘘くさく自分の十年前なんてなぜ分かるのか謎だった。しかし、占いのようなもので自分の過去を暴くなんて無理だろうという、占いに対する挑発的な気持ちで、佳波は通知のボタンをそろりと人差し指で押した。仰向けでスマートフォンを見るのは疲れてしまうため、佳波は部屋の隅で寝返りをうつ。…この世界に自分しか存在していないような気持ちになった。
――〈読み込み中〉。黒い画面にその文字が映し出される。十年前に買ったスマートフォンは、最新のものと比べてかなり動きが遅い。今では瞬きをする間に処理を終わらせる事ができるが、十年前のものは遅くて十秒、早くて三秒もかかってしまう。退屈になった佳波は、足をタンタンと鳴らしながら無心になっていた。そんな事をしている間に、読み込み処理が終わり、スマートフォンから白いブルーライトが放出される。佳波はろくに当たらないような占いサイトが表示されると思って、細い目で画面を見た。しかし、そこに表示されたのは、雑な文字でつづられた日記のようなメモアプリだった。
「何、これ?」
佳波はむくりと起き上がって、壁にもたれスマートフォンに目を近づける。心臓がどくどくと高鳴って、人の過去と未来を見るよりも強い、変な罪悪感を覚えた。この文章はデータによると、約十年前の二千四十年、八月十五日に書かれていた。明後日で、この文章を書いて十年になる計算になる。佳波は汗がだらだら垂れていた。何か、凄い事が始まるような予感がして、無心でメモアプリの『もっと見る』と表示されたボタンを押してみた。
―――〈読み込み中〉。自分の書いた文章は、自分の過去を覗くことと一緒だ。佳波は深呼吸をした。吸って…吐いて…吸って…吐いて…と、同じ動作を繰り返した。やがて、処理が終わると、佳波はばっとスマートフォンに釘付けになって、数十分前に見た幼い少年のように、表示された未知なる世界の文字を、一文字一文字追いかけていく。
〈二千四十年 八月十五日 水曜日の夜です。正直言って、今日で人生が終わりました。〉
小学生が書いているような幼い文字だ。このメモ帳は、文字のデザインや背景の色などを可愛らしいデザインにすることもできるらしく、十年前に流行っていそうな古臭いデザインにカスタマイズされていた。佳波が中学一年生の時に書いたものだろう。年頃の女子は、小さな失敗をしただけでも『人生終わった』とか『もう死にたい』やら、とにかく大げさに言うものである。佳波はそれを小さな前置きだと捉えて、続きの文章を血眼で読む。
〈本当は日記なんか書きたくない日です。でも、十年後の二千五十年八月十五日の菖蒲佳波さんのために、この文章を書いときます〉
実際にこれを読んでいるのは、ちょうど十年後よりも三日早い八月十二日の今日だが、日記を読む手は止まらなかった。
〈今朝はなんかしんどかったので、お母さんに体調悪いと言ったら、休ませてもらえました。やったぜ!〉
スマートフォンの中で踊っているような散文は、人の過去と未来を読むよりもリアルな情景が浮かび上がってくる。こんな子どもが書いた文章だが、妙に懐かしさを感じた。
(何だろう、この胸が締まる気持ち)
十年前のことなんて、ほぼ覚えていないものだ。母親がいなくなった時の事も、現実の記憶と夢で見た記憶が混ざっておかしな事になっている。
〈私はしばらく、ベッドでぼーっとしていました。お母さんは、隣のリビングでドラマを見ていました。〉佳波は話の流れに着いていこうと何度も同じ部分を読み返す。
〈今朝はなんかしんどかったので、お母さんに体調悪いと言ったら、休ませてもらえました。やったぜ!〉
(『やったぜ』って、体調が悪いのか良いのか、どっちなの)
佳波はくすりと笑った。他愛もないことで笑うのは久しぶりだった。
〈私はしばらく、ベッドでぼーっとしていました。お母さんは、隣のリビングでドラマを見ていました。〉
〈朝ごはんです。アイスを食べました。お母さんは甘いです〉。
情けない自分に微笑みさえ溢れる。スマートフォンの右上に表示されている時刻をちらりと確認する。午後十時を過ぎていた。青白の月が佳波を照らしている。
〈お母さんに、体温計で熱を測ってもらっても、三十六度五分と、正常なものばかり出ます。でも、鼻水がズビズビ出ていたので、遅刻で学校に行くはめにはなりませんでした。でも、今ではなんで学校に行かなかったんだろうと思ってます。〉
どういう事だろうか、と佳波は画面を目にぐいっと近づける。幼い頃の佳波は、未来の佳波に『何か』を暗示しているようだった。もう少し先を読めばわかるだろうか。佳波は手汗をハンカチでふき取りながら、画面をスクロールする。
〈私は昼過ぎまで、ずっと寝てました。体調はもう、滅茶苦茶良くなっていました。もうちょっと寝てようかなと思っていたら、いきなりインターホンが鳴ったので、お母さんはドアの方に近づきました。すると、突然知らない男の人が二人、入り込んできました。〉
「……えっ?」
佳波は思わず声を漏らした。手からスマートフォンを落とす。十年間ずっと綺麗に保ってきた画面が、一瞬にして無惨に割れた。しかし、佳波は何とも思わなかった。息が荒くなる。佳波の記憶が、散らばったパズルが組みなおされるように蘇っていく。十三歳の書いた下手な散文なのに、どんなに売れた記事よりも、どんなに反応をもらえた投稿よりも、感情の重い『何か』を感じた。
(やはり、これは……)
佳波は、もう次につづられる言葉が分かっていた。息を弾ませて読んでいた文章が、いきなり読めなくなった。畳に落ちたスマートフォンを拾って、割れた画面のひびに沿って画面をスクロールしようとしたが、佳波にはできなかった。……その瞬間、佳波が触れた文字が浮き出した。
「う…うわ…あああ‼」
日記の文字が、いきなり眩い光を放出した。スマートフォンで表示できるほどの明るさではない。太陽が輝いているような強力な光が、素早く佳波の眼に入り込む。シュパパ…と音を立てながら。
佳波は驚きのあまり、目を強く閉じた。しかし、目に焼き付いた文字が、佳波に引きついて離さない。
「あ…ああ…お、お母さん…」
十年間ずっと脳裏に閉まっていた記憶がいきなり頭を殴ってきて、十年前に感じていた一秒一秒が、脳に繊細に焼き付けられる。
(そうだ……スクロールする時に、文字を触ったから、過去が頭に……)
佳波は時々、人物だけでなく物や文字の過去と未来を読める事があった。だから、急に十年前の曖昧な記憶をすべて読み取ってしまったのだ。佳波はぽろぽろ涙が出た。
――すすり泣いているお父さん、警察官に連れていかれたお母さん。息を荒くしながら、インターネットで『菖蒲南 殺人犯』と検索しては、違反サイトとして通報していた幼い頃の馬鹿な私。
「なんで覚えてなかったの…?」
――楽しい記憶は覚えていたのに、哀しい記憶はまっさらに忘れていたなんて、都合が良すぎる。
佳波は嗚咽を抑えて泣いた。日記の続きは読まなかった。……続きが分かり切っていたからだ。佳波の周りにだけ涙雨が降り注いで、目の奥に涙の海が寄せては返す。まだ、自分の中に涙が大量に埋まっていたことに気づき、佳波はさらに泣いた。
「お母さん…人を殺して、十年前に、会えなくなったんだ」
―母親の刑期が終わるまで、あと三日。それまでに、私には何ができるだろう。
〈知らない男の人は、警察官でした。お母さんは、突然連れていかれました。お父さんによると、お母さんは二日くらい拘束されて、裁判をして、牢屋に放り込まれるみたいです。頑張って泣かないようにしました。でも、お父さんが泣いていたので、何だか馬鹿らしくなって、一緒に泣きました。この事は、たぶん一生忘れないと思います。でも、できるだけ、思い出したくないです。きっと、明日はクラスのみんなから、犯罪者の娘とからかわれます。SNSでも、誹謗中傷されます。憂鬱です。〉
文章はそこで途切れていた。佳波は部屋の隅に立ちすくんで、青白い月を見上げた。
鳴りやまないスマートフォンの目覚まし音が、佳波の耳を騒ぎ立てる。佳波の目はぱっちりと開いていた。佳波は生まれて始めて、月が沈んでゆくのを見た。どんなに眠れない日でも、午前一時半以降には熟睡できていたはずだったが、今日ばかりは目に隈を作っていた。しかし、眠気などは一切なかった。佳波は一晩中、インターネットで冷戦の事や身内が釈放される時の贈り物を調べていたが、全て思い出してしまったショックで情報が頭に入ってこなかった。
(仕事に行かないと)
佳波は泥のようにへたへたと脱衣所まで歩き、箪笥の中身を漁る。一番手前にあった薄青のシャツと、履きやすそうな黒いロングスカートを手に掴み、無心でそれに着替える。洗面台には、母親の大事にしていたネックレスがまだ無造作に置いてあった。おまけに、十年以上前に油性ペンで書いたらくがきの跡が残っている。昨日の出来事がまだ脳に沁みついて、佳波は気持ち悪い感覚になった。記事のターゲットのことや、編集長からのメールの内容が、ほとんど頭から消えていた。
スマートフォンに表示された時刻は、六時四十五分だった。今から家を出るのは少し早いが、このくらいの時間に行ったら余裕を持って記事を書くことができる。
佳波は玄関までとぼとぼと歩いた。仕事用の茶色いカバンを肩にかけて、サンダルをはく。
「……いってきます」
ドアの後ろには誰もいないが、とりあえず挨拶だけは言っておく。そしてまた、とぼとぼと歩いてから、エレベーターの錆びて黒く焦げたボタンを押した。ギコギコと悲鳴をあげながら、古めかしいかご室が佳波の前に立ちはだかる。ただの古いエレベーターなのに、なぜか今日だけは物語の主人公になったような気持ちになる。
ピロリン♪
一件の通知がスマートフォンに飛び込んだ。しかし、佳波は聞こえないふりをして、そのかご室に足を踏み入れた。――たった一件の通知で、未来なんて変わるものでは無いからだ。また後で確かめれば良いことである。
エレベーターは、ウィンウィンと音を立てながら降下していく。二〇五〇年では考えられないような遅い動作に、気が遠くなるのは日常茶飯事だ。しかし、今回はなぜか、かなり動作が速かった。チーン……と、静かに響く音とともに、エレベーターのドアが開く。
「えっ?」
しかし、そこは一階ではなく、一つ上の二階だった。ドアの先には、暗い顔をした猫背の正人が立っていた。
「あっ…花崎さん! お、おはようございます」
佳波は姿勢を正して、ぺこりとお辞儀をする。鉢合わせが嫌いだった佳波だが、この状態で避けることはほぼ不可能だ。諦めて普通に接する事にした。正人は素っ気なく頭を下げて、すたすたと中に入っていった。小さなかご室に、二人が黙って立つ。朝は早いんですね、とか、暑いですね、など、会話のパズルを並べて悶々としていた佳波だが、その言葉は使われずに時間だけが過ぎていった。
「……」
エレベーターが激しくウィンウィンと音を立てる。佳波は胸元に手をあてた。何か言う事があるかもしれないと思ったが、特に何も思いつかなかった。
(最近は、いろいろな事がありすぎて、ちょっと困るな)
ウィーン……と音が鳴るとともに、エレベーターのドアが開く。正人は小さく頭を下げて、小さなかご室から出た。佳波はぺこりとお辞儀をする。猫背の後ろ姿が、何か心細さを感じた。昔の正人はこんな性格ではなかった。今よりも活気があって、出会った時にはいつも礼儀正しくお辞儀をしてくれるような人だった。十年も経てば健康状態は大きく変わるかもしれないが、人柄は中々変わらないだろう。
(花崎さん、疲れているのかな。いや、もしかして、それってうるさくしている私のせい?)
昨日は散々うるさくしてしまっていた。個人を特定されたようなメッセージや、過去が分かってしまった日記のアプリで、畳をじたばたしたり叫んだり、好き勝手なことをしてしまっていた。
(花崎さんは、それでストレスを抱えてしまっているのかもしれない)
しばらく心なさそうな背中を見つめていたが、正人がエントランスを通り抜けるところで、大きな声で叫んだ。
「はっ、花崎さん!」
正人はびくりと振り返った。佳波はエントランスまで駆けて、もう一度ぺこりと頭を下げる。万が一、正人の過去と未来を読まないために、手を予め背中に隠しておいた。正人は細い目で呆然と佳波を見つめる。佳波にとって、《人と接する》事は《いつか心を読んでしまう》事と同然だが、今の正人を見ていると、放っておけなくなったのだ。
「あの……いつもうるさくして、すみません」
佳波は直球に言った。『言う』よりも『呟く』という表現の方が合っているのかもしれない。記者会見をする時よりも緊張して、小さな声しか出すことができなかった。名前を呼ぶときとは裏腹に、謝る時は声を小さくし過ぎて感じが悪いだとか、ぐるぐると考えながら、頭を下げる。二人の目の前にあるドアは透き通っていて、二人はショーウィンドウのように街の人々から見られていた。正人は気恥ずかしくなり、「ちょっと」と佳波を注意する。
「す、すみません。な、ななな、何だか…元気、無さそうで。私のせいかなと、思ったので。いつもうるさくしてしまって、す、すすす、すみません!」
口下手な佳波は、恥を捨てて喋った。やはり、仕事以外では声が裏返ってしまう。しかし、ここで謝っておかないと、もうチャンスは中々訪れないだろう。体中に汗がびっしょりと出て、体が冷やされる。正人はため息をついた。
「いや……いつも、静かですし……。逆に、騒がしい方が、僕は好きなんですけどね」
「えっ?」佳波は持っていたカバンを床に落とした。最近はスマートフォンやらカバンやら、色々なものを落としてしまう。
「す、すみません! な、何だか、色々ごめんなさいねっ」
急いでカバンを拾いあげて、もう何度したかわからないお辞儀をした。佳波は息を荒くさせる。
「大丈夫ですか」
正人は冷静にカバンを拾って、佳波に手渡した。
「ありがとうございます…すみません。それでは」
行動のすべてが恥ずかしいことばかりで、何も考えることができなかった。恥を捨てるようにドアを開く。
ごちん!
「痛っ!」佳波の頭がドアに打ち付けられた。
(ああ、間違いなく変な人だと思われた)
佳波はそのまま全て投げ出して、正人から一刻も早く逃げ出そうとした。引いてしまったドアを思い切り押して、助走をつけて走り出す。しかしその時、「ぷっ……」と息を吐く音が聞こえた。佳波は何があったのか分からず、首を正人の方へ捻って確かめる。
「あ……! あ、あが、首が……」
首を捻り過ぎたのか、軽く痛めてしまった。そのせいでバランスを崩し、佳波は仰向けになる。このまま床に打ち付けられてしまうと、盛大な骨折になってしまう。
「えっ」正人の声が微かに聞こえた。ああ、もう手遅れだな、と佳波は思った。カバンを落として、ドアにぶつかって、首を捻って、それから次は背中を骨折してしまうなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。母親の刑期が終わりに近づいているにつれて、おかしな事が増えてきた。佳波は目を瞑って、そっと骨が折れることを待つ。
「危ない‼」
後ろから声が聞こえた。スローモーションのように、ゆっくりとした時間が流れる。今なら素早く立ち上がって、骨折を回避できるかと思ったが、体が全く動かなかった。背中と床のようなものが強く触れる。それに、強く痛みを感じる“はずだった”。
「あれ?」佳波は目をぱちりと開いた。目のレンズには、正人の顔が大きく映し出される。強く目を瞑り過ぎていたせいで、開いた時に物凄い光が差し込んできて、佳波はもう一度目を瞑った。正人から、はあとため息が漏れる。煙草臭い口元に、佳波はぐっと息を止めた。目と鼻の機能を遮断したため、今は耳と皮膚しか機能していない。
「ああ、ごめんなさい…煙草臭かったですよね。と、いうか、本当に大丈夫ですか」
佳波はゆっくりと目を開ける。煙草臭いのは苦手なため、息をぐっと止める。正人が十秒ほどその姿を見ていたが、息が続かなくなった佳波は何度も咳をした。
「あはは。煙草、嫌いなんですね。僕も好きって程ではないですけど」
今、置かれている状態が理解できずに、佳波はぼうっと正人を見つめる。床に打ち付けられる筈だった背中は、正人の手に支えられていた。佳波は目を丸くして三秒ほど固まると、悲鳴をあげて立ち上がった。
「すっ…すみません‼ 本当にすみません‼」
正人は、しゃがんだ姿勢のまま、また「ぷっ」と息を吐く。そして、あはは、と笑い始めた。佳波は状況を把握できずにおろおろとした。何か忘れかけている事がありそうだったが、考えている暇は無かった。
「あっ…あはは。ははは! す、すみません、何だか! ははは、ははは…」
正人は糸が切れたように笑った。ショーウィンドウと化したドアは、二人を静かに映した。佳波は呆然と正人を見ていた。こんな姿を見るのは、十年ぶりだろうか。佳波の母親が《普通の母親》だった時に、幼い少女だった佳波と、青年だった正人がすれ違って、お互いに笑いかけた常夏の日。忘れかけていた記憶が、二人の中に蘇る。佳波はじいっと正人を見つめる。
「あっ、はは、はは……」
「す、すみません! 私、ちょっと抜けていて…」
少し前まで暗くどんよりしていた正人がいきなり笑い始めたことに、佳波は混乱してしまう。ちらりと見えた腕時計には、短い針と長い針が七時を指していた。
「あ、いや。なんだか、十年くらい前から佳波さん、《人間らしさ》が無くて。完璧にこなそうとしている…というか。責任感を背負っているというか。近寄りがたかったんですよ。そうでも無かったですね」
佳波は頬に手を当てる。人間らしさなんて考えたことも無かった。しかし、母親が逮捕されてからの記憶は一切無くなっているため、人間らしさを失いかけていたのかもしれない。
「そそそ、そうだったんですか…?」
「あ、別に気にしなくていいんですよ。それにしても怪我しないでよかった」
正人は、花が開花するように微笑んだ。だから花崎という姓を貰ったのかもしれない。
「い、いえ……。ありがとうございました」
佳波は口角を上げ、丁寧に礼をして、今度こそはとドアをゆっくりと押す。正人が出やすいようにドアを開けたままにして、またいつものようにスタスタと歩きだした。
(何か…おかしいような)
何か、矛盾点があるような気がした。しかし、まだ起きて一時間も経っておらず、眠気が少しあったため、よく考えることができなかった。時刻はまだ七時なのに、渋谷の街はがやがやと人でごった返している。
『午前七時五分になりました。きょうのニュースをお伝えします…まずは東京都の自殺者です』
アナウンサーの声が大音量で響き渡った。その音量に驚いた人々は耳を傾け、電線に止まっていた小鳥たちはパタパタと彼方へ飛び立つ。大きな電光掲示板には、今日の自殺者が千単位で表示された。
「大好きなアイドルが死んだっていうのに、百日紅はどうしちゃったのよ‼ 何でもいいから、キラトの情報が欲しいよお‼」
若々しい男女カップルが、涙雨を降らしながら小道を歩く。
「絶対ネタが切れたんだよ。百日紅も大したことなかったんだな」
「でも…キラトお‼ なんで死んだの‼」
女性の方が、《週刊百日紅》の表紙をくしゃりと握りつぶす。表紙のグラビアの顔が歪んで、形が変形する。大好きなアイドルの死よりも、グラビア写真を優先していることに、怒りがこみあげていた。
(綺羅星キラト、死んだんだっけ)
スクランブル交差点から、人がぞろぞろと歩きだしてきた。佳波はその人込みに紛れないように、通路の隙間をゆっくりと通っていく。昨日は誤って少年に触れてしまったため、今回は細心の注意を払ってゆっくりと進んだ。自ら人に触れて過去と未来を見ることは、仕事で情報収集をする時以外はしないと決めている。人間関係の破断や信頼の損失など、デメリットがあり面倒だからだ。
《#第一次世界冷戦》中の夏の朝は、まだ涼しい。佳波の黒いロングスカートが揺れた。数分前に捻り過ぎた右首がずきずきと痛む。しかし、骨折はしないで済んだ。もとはと言えば、正人と居たから起きた出来事ではあったが。
(最近、何かおかしい気がする)
佳波は胸ポケットからスマートフォンと週刊誌を取り出す。最近の日本では、《時代に着いていく》ことが重視されていて、佳波もその時その時の《普通》を装っていた。スマートフォンに浮かび上がったキーボードに、〇七〇三と佳波の誕生日を入力して、小さなネットの掲示板を開く。昨日非公開にした投稿は、特に問題になってはいなかった。佳波は安堵の息を吐く。
(なんでこんな書き込みしちゃったんだろう。記者として情けない)
――おかしい。何かがおかしい。佳波は鬱積した感情を抑えながら、渋谷駅のホームに並んだ。カタンコトンと音がホームに響くとともに、人々がホームに波のように流れてきた。電車に乗りたい人と降りたい人が押し合って、人波が寄せて返す。一人一人に触れないように真剣に交わそうとするが、この状態で全ての人を交わすのはほぼ不可能で、老若男女問わない色々な人に、ぴた、ぴたと接触してしまう。
「あ、あ、あ~」と、人に触れてしまった数だけ、小さく声を発した。接触してしまった人の過去が素早く脳裏を過る。ぐらりと揺れる視界に耐えながら、佳波は電車に乗り込んだ。
『電車が発車します…次は表参道、表参道です』
急に揺れた車内に驚き、佳波は手すりを掴んだ。降車の人が全て出た後、すぐに急いで電車に駆け込んだが、限られた席に座る事が出来なかったのだ。とてつもない人数が乗る上野行きの電車のため、佳波は人に接触しては声を出すことを繰り返していた。
(ああ…こんなの、地獄だ)
周辺の人々の過去は、日常的なものから奥が深いものまで十人十色だった。そのまま、佳波は三十分間の地獄を味わった。
(やっぱり、人と関わる事は止めた方がいいな)
『次は…上野、上野です』
アナウンスが流れた瞬間、佳波は拳を握ってドアの方まで人をかき分ける。触れるたびに、『すみません』と声をあげ、恐ろしい程に読める過去と未来を押し殺した。横からも前からも人の波が押し寄せてくる。車内と他人の過去が目まぐるしく入れ替わり、目まいがした。
「あっ」佳波の背中に人の背中が触れた。すみませんと早口で謝り、あと一メートルほど先にあるドアを目指す。
(あれ…さっき、背中に人が当たったな。前にも、そんな感触があったような)
ドアまでたどり着く事が出来た瞬間、立ち止まって考えた。佳波が生まれつき持っている能力は、『触れた者全員の記憶を全て読み取ってしまう』というものだ。もちろん、老若男女関係なく全人類の記憶を読むことができる。…と、思っていた。
(背中の感触。今朝の出来事。仰向けでこけそうになった時……)
「あ!」佳波はぱちんと目を覚ました。眠気のせいで不思議に思わなかった出来事が、背中を伝わって体中がぞくぞくと震える。腕と足には鳥肌が立ち、嗚咽が出そうになったが、声は抑えた。
―ますます、おかしい!
電車が到着するメロディーが車外に流れる。佳波は叫びだしたくなったが、ドアが開くまで待った。電車が止まるにつれて、佳波たちも揺れる。その一瞬にも二人の乗客に触れたため、二回言葉を呟いた。
プーッ…
ドアが開く。一番その近くに立っていた佳波は、すぐさま電車から飛び降りて上野駅のホームに出ることができた。《#第一次世界冷戦》中の人々は、やはりほぼ全ての人が、片手にスマートフォン、もう片手に週刊誌を持っている。しかし、佳波はそれどころではなかった。前も見ずにぞろぞろと歩く集団をかわしながら、早く人混みから脱出したいという一心で、電車から駅のホームへ、駅のホームから街へ出る階段へと、特急で走りこんだ。
(やっぱり、変なことが起こっている! 触れた人の過去と未来を読めなくなったことなんて、今までに一度たりとも無かったのに)
ダン! と足音を鳴らした。上野…《週刊百日紅・出版社》がある、週刊誌記者の職場。そこまで、あと数十メートルだった。体を動かしていなければ、感情が爆発してしまうと思い、佳波は全速力で風を巻き込み走り抜ける。そんな時でも人を巧妙に避ける姿は、素人の動きでは無かった。どんなにベテランな週刊誌記者よりも素早い…生まれた時から、ずっと、ずっと、人を避けていたような、そんな体つきだ。
(どうしよう、どうしよう! あの時、花崎さんに助けてもらった時…確かに背中に手が触れてた。なのに、記憶が読めていない!)
《週刊百日紅》と袋文字で大きく書かれた看板の目の前にたどり着いた。その建物の周りには、『綺羅星キラトの記事はまだなのか!』や、『私の人生、返して!』などが書かれた、数十枚の白い紙が雑に貼られてあった。
(間違いなく……おかしい。最近、おかしい。……いや、まず、お母さんの刑期が終わるってことだけでも十分非日常でおかしいけれど…)
佳波はドアを勢いよく開ける。その瞬間、数分前までの疲れがどっと降ってきて、佳波は過呼吸になった。
(私…花崎さんの過去と未来が、読めなくなっている!)
それが結論だった。驚きと恐怖で、頬が真っ青になる。
「おはよう、菖蒲さん」
ドアの先には、後輩記者の李・珠蘭と、編集長の佐藤修が椅子に座って待っていた。全身が震えて、声が全く出なかった。床に敷かれた黒いマットの上をとぼとぼと歩きながら、ペコリと頭をさげておく。『週刊百日紅出版社』は、それほど大きくて広い会社ではなく、普通の一軒家に看板が貼ってあるだけの小さな規模だ。それなのに、《#第一次世界冷戦》という流行語が生まれてからは、読者が著しく増えて、どこの本屋にもコンビニエンスストアにも売られているような大人気の雑誌になってしまい、今では売上一位の雑誌になっている。それは悪い事ではないが、そのせいで冷戦を激しくしていると考えている佳波には、少し苦痛だった。
「菖蒲さん。ターゲットの月尾さん、チェックしてくれた?」
佳波は珠蘭の隣にある自席に座ったが、急に声をかけられた為、びっくりして立ち上がった。佐藤は麦茶が入ったカップを自分の机に置いた。佳波は珠蘭の隣の椅子に座って心臓がどくりと鳴る。
「あ、あ! そ、そうでしたね」
月尾というのは、昨晩佳波が追っていたターゲットのことだ。少年にぶつかって過去を読んでしまったことにより逃してしまったが、それよりも重大な事が積み木のようにどんどん重なって、その事をすっかりと忘れてしまっていた。佐藤は普段と変わらない目つきだったが、視線に耐えられなくなった佳波はばっと珠蘭の方を見た。
「わ、わあ!」珠蘭はちょうど女性のグラビア写真を編集していた。それだけでも少し驚くが、それを真剣に見ながら静かに作業をしている珠蘭の姿が面白くて、急に声が出てしまった。目のやり場に困った佳波は間に合わせで時計を見た。午前八時五分。あと二十五分で仕事が始まる。佳波は肩を小さくして、腰を丸めた。謝罪文を考えようと脳内を総動員させたが、まるで出てこない。佐藤は長めの髭をいじる。
(ど、どうしようどうしよう)
まずは謝らないといけないと思い、「あの」と声に出してみた。しかし、その時に限り吃音が出て、中々次の言葉が出せない。
「あ、あっ……あの、あの」
「ターゲット、見失っちゃった?」
佐藤は苦笑いをして、優しく問いかけた。図星を突かれた佳波は、逃げよう
が無く姿勢を正して「は、はい」と言う。次にどんな言葉が発されるのかが怖くて仕方なかった。
「大丈夫だよ、全然大丈夫。もうネットニュースでもSNSでも話題になってないから」
しかし、佐藤は表情を変えずに、カップを手に取り麦茶をすすった。意外だった。もう少し怒られると思ったが、その言葉だけで済んだ。まだ心臓の音がうるさくて、数年前の地震で割れた壁の傷を目でなぞっていた。
「本当にごめんなさい…」
「良いって良いって。読者は最新の記事を待っているからね。月尾は賞味期限が切れたって感じ。もう忘れていいよ。んで、次はこいつ」
佐藤は手をこまねき、パソコンで何かを検索する。佳波は引きつけられるようにパソコンを覗き込んだ。
「あ、あ……」
佐藤が検索したのは、一本の動画だった。佳波は息を飲む。
『一等星も六等星も煌めいて! どうも、綺羅星キラトです』
パソコンの画面いっぱいに、金髪の男の絵が表示される。どこかで聞いたことのある音声が耳に流れ込んだ。……綺羅星キラト。映像の下に、説明が表示されている。これは数年前に投稿されたものだ。綺羅星キラトは男性アイドルで、ファンは十億人。少子化により人口が約七十億人とかなり減った現代では、日本からヨーロッパ、アフリカやオセアニアの小さな国々など全員合わせて、七人に一人がその『綺羅星キラト』のファンであるという事が分かる。あくまでそれは『ファン』の人数であって、『綺羅星キラト』を『知っている』人となれば、何十億人にもなるだろう。
「わ、わあ。声がとっても格好いいですね~」
佳波は気を使って、小さな拍手をした。全く興味が無かったが、きっとこの男が次に書く記事のターゲットになるだろうと思い、綺羅星キラトを黙って見つめた。
『今日は、色々な声を使い分けて愛の言葉を囁いてみま~す!』
パチパチと拍手の効果音が鳴った。どうでもいいと呆れたが、これも仕事だと思い真剣に見た。月が綺麗ですね、あなたを愛しています。そんな言葉が次々と流れていく。これが若者に縛られずに、老若男女が好きと言っていることに、佳波は不思議に思った。
「あの、佐藤さん。この人、昨日、死んだって…」
佳波は佐藤の方を振り向いて言った。佐藤はこくり、こくりと二回頷く。明るかった目が、急に泥がかかったように暗くなった。
「そう。だから記事を書くんだよ」
佳波はいつもの佐藤の顔を見て安心した。そんな暗い形相をしていないと、記者らしくない。
「…そうですね」
佳波の目も、だんだん曇ってゆく。
「菖蒲さんならできると思うんだけど…この記事、お願いできる? 二ページ分」
「はい、もちろんです」
佳波は胸を叩いてやる気を見せる。この記事を書き終わるまでに、佳波の母親の刑期も終わるだろう。ファンが十億人超えの人気アイドルの自殺。人々に影響力を与えられる。
綺羅星キラトは、まだ画面越しで愛を囁いていた。
「お疲れ様でーす! 今日はここまで」
午後六時。大きく肩を伸ばした佳波は、憂鬱な気持ちで椅子から離れた。ずっとパソコンを見ていたせいか、目にもやがかかって二重三重に物が見える。
(綺羅星キラトは架空の名前だし、もう死んでいたんだった……火葬に参加でもしないと触れないの?)
数時間にわたって綺羅星キラトの動画を見てあさったが、死亡動機と見られる事柄は動画内から見つからなかった。SNSでは、綺羅星キラトについて優しいメッセージから誹謗中傷をしているメッセージまで五分五分で投稿されており、一つ一つを切り取って記事にしても価値が無いものになる。故人となったため、過去を読み取ることも不可能だ。
「菖蒲さん、お疲れ様でス! 一緒に帰りましょう」
珠蘭が元気よく言った。
「う、うん…」
重めのドアをゆっくりと開けて、《週刊百日紅・出版社》から出た。今朝はあった文句の貼り紙は、綺麗に剝がされていた。
「はあ…」佳波はため息をつく。
昨日と今日で、色々な出来事が目まぐるしく起こった為、体力の限界に到達していた。今朝は感じなかった眠気が急に襲ってくる。夏の日暮れ時は暑苦しい。十年前の母親の事を思い出したりする。
「記者なんだから…しっかりしないと」
「ん? 何か言いました?」
珠蘭は顎に手を当てて言った。佳波は何でもないよと焦って手を振った。
ピラリ
「あれ、何か落ちましたヨ」
珠蘭が佳波の腕をぽんと触って教える。佳波は急な接触に驚いたが、すぐさま「ありがとう!」と言うことで、出来るだけ過去を読むことを防いだ。二人は後ろを振り返る。
「あー…名刺かな。結構遠くに飛んじゃったかも」
「取りにいきましょう!」
珠蘭は一気に走り出した。
「え、あ…」
名刺は五メートルほど先に飛ばされていた。名刺なんてどうでもいいと思った佳波だが、珠蘭の優しさを捨てたくは無かったため、止めないことにした。
「り、李さん。ごめんね。ありがとう」
佳波も飛んで行った名刺の方へ駆け出した。しかし、そこに立っていたのは、珠蘭だけでは無かった。
「え? 李さん、その方は?」
上背のあるロングヘアの女性が、珠蘭の隣に立っていた。身長が低めの珠蘭と並んで、女性は実際よりもかなり大きく見えた。手には佳波の名刺らしきものを持っている。
「あら、この人が菖蒲佳波さんね。こんばんは」
彼女は佳波の名前を知っていた。見覚えのない人のため、きっと名刺の情報から知ったのだろう。佳波は女性にしばらく見とれていた。つややかな滅紫色の髪の毛が、夕焼けに反射して輝いている。凍ったような冷たい瞳に、抑えられたナチュラルメイク。仕事帰りなのか、しっかりとした黒いスーツに、大きいカバンを肩にかけていた。
「あ、はい、菖蒲です…名刺、拾ってくださり、あ、ありがとうございました」
珠蘭は女性の横で「この方が拾ってくださったんですヨ」とにこにこしていた。
「あなた、百日紅の記者なのね? すごく偶然だったから、ちょっと自己紹介させてほしいんだけど……」
女性は胸ポケットから名刺を取り出す。佳波は嫌な予感がした。また、変な事が起こるのだろうかと、目を細める。女性は丁寧に両手で名刺を見せた。佳波は頭をさげて名刺を受け取る。
「私、週刊ダリアの記者で、紫藤すみれと申します。週刊百日紅には色々言いたい事があるんだけど、丁度目の前にその記者がいるから、ちょっと言わせてもらうわね」
珠蘭は黒目を丸くさせた。口をぱくぱくして何か言いたげだったが、佳波とすみれを邪魔したらいけないと思い、一歩下がり二人を見守った。
「な、なんでしょうか……」
佳波は早く帰りたいという思いで聞く。すみれの冷たい目が、さらに曇った。
「正直言って、私、百日紅の事はずっと前から嫌いだから」
「えっ?」急な発言に、佳波は驚いた。ライバル誌を嫌いだという気持ちはどの週刊誌記者にもありうるが、それを直接伝える事があるだろうか。佳波はため息をついて、横を見た。珠蘭が泣きそうな目で佳波を見ていた。太陽が沈んでいく。空が急に藤色へと変わった。
「あ、あ、あの。ももも、もう私、帰りますんで。…行こう李さん」
佳波は危険を感じて、李を手でこまねいて隣に寄せた。
「ちょっと待って。明日の取材…綺羅星キラトのファンについての。来れる?」
すみれの滅紫色の髪の毛と、藤色の空が重なる。すみれには出来るだけ近寄りたくないと思ったが、綺羅星キラトの取材と聞いた瞬間、佳波の目が光った。
「いきなりどういう事ですか…? 初対面なんですよ」
佳波は冷静に対応する。ライバル誌の記者と一緒に取材をするなんて、うまい話はそうそう無い。すみれは口を釣り上げたように作り笑顔を見せる。
「いや。菖蒲さんとは、対面ではないけど話した事はあるの。それも、つい、最近ね」
「だから、私はそんな覚えは……」
佳波は眉間にしわを寄せる。週刊誌記者は変な人が多い気がするな、と週刊誌記者が思った。すみれは口を開ける。
「菖蒲さん…記事、書きたくないの? 綺羅星キラトの記事……他社も書くんだから」
佳波は反論しようとする口をつぐんだ。すみれは何故か微笑んでいた。
「…行きます」
「ありがとう。取材は明日の九時からだから…あと、隣の子はなんて言うの?」
そう問いかけられた瞬間、珠蘭が急に体を前に乗り出した。
「李・珠蘭でス! 中国出身の、週刊百日紅の記者でス」
まだ日本語が片言な珠蘭を見て、すみれは顔を真っ青にした。佳波は二人をぼうっと見ている。眠気が限界まで迫っていた。
「え……き、記者…? こんなのが?」
佳波は隣を見た。珠蘭が泣きそうな目をしていた。
「ただいま」
今までは、家に帰ると安心感があった。しかし、母親の刑期が終わりに近づくにつれ、段々と緊張感が迫ってくる。――母親の刑期が終わるまで、あと二日。それまでに、自分にとって良い形で迎えたい。その為に、冷戦を少しでも無くさなければならない。佳波はそう心の中で誓っていた。
(私は重要な役目を頼まれたのかもしれない。ファンが十億人のトップアイドルの自殺……その記事を書き終わったら、丁度お母さんの刑期も終わるだろう。あと二日でキラトの記事を書いて、お母さんを迎えに行かなくちゃ)
佳波は畳の中央に寝転がって、割れたスマートフォンを片手に検索履歴を確認する。そこには、《身内の刑期が終わったら》や《綺羅星キラト》で埋め尽くされていた。
(明日の取材で、何かあるかもしれない。とりあえず、紫藤さんに従ってみよう)
佳波は立ち上がって、重い窓を押して全開まで開いた。しかし、かすかに煙草の匂いがしたため、すぐにぴしゃりと閉めた。正人が触れた背中の温もりを再度感じて、佳波は吐息を静かにはいた。その瞬間、眠気が一気に襲ってきて、佳波はぐらりと畳に倒れこみ、泥のように眠った。
ピロロロロ…ピロロロロ…
午前七時。スマートフォンの目覚ましアラームが、佳波の耳元で小鳥のようにさえずった。固い畳の上で寝てしまった為、腰がヒリヒリと痛む。カーテン越しからでも明るく輝く太陽は、《#第一次世界冷戦》という概念を忘れさせてくれるほど、暑苦しく感じた。佳波は横に落ちていたスマートフォンを拾う。熱を使わずに冷えたスマートフォンだけが、冷たさを感じられる。
(すぐに着替えて取材に行かないと…あ、あとお風呂も)
ピロリン♪
通知音が鳴った。画面に目を配ると、また《十年前のあなたは、こんな事を思っている》といったページが開かれた。
(もう、十年前を見るのは懲り懲りだよ…過去なんて見るもんじゃ、ないな)
佳波はスマートフォンを手に持ち、メッセージアプリを立ち上げて『今日は取材に行ってきます』と佐藤に連絡した。そしてすぐにスマートフォンを床に置き、駆け足で脱衣所に行き、風呂に入った。家族で入れるように設計されたバスタブや浴室は、一人で入るには広すぎる。風呂をもう少し狭くして、居間をもう少し広くしてほしいと思った。
(お母さんの刑期が終わったら、私とお母さんで暮らすようになるのかな。それはそれで、楽しいかもしれないけれど)
佳波のため息は、シャワーの音でかき消される。浴室内に設置された小さなデジタル時計には、七時半と表示されていた。
身体を洗い終えた佳波は、速攻で髪を乾かし、黒いスーツに着替える。短い髪の毛がはねてしまわないように、横髪は数本のヘアピンできっちりと留めた。
(よし……完璧)
朝食を軽くとってから、家を出るころには、午前八時になっていた。玄関先のドアを開けて、佳波はたっぷり息を吸う。今は煙草の匂いはしなかった。
「行ってきます」
ドアの後ろに、母親と父親が手を振って『行ってらっしゃい』と言っているように感じた。そして、いつものようにエレベーターで一階まで降りていく。家の前にある巨大テレビには、綺羅星キラトの映像が映っていた。――綺羅星キラト。そのキャラクターが、もう死んでいるはずなのに、やけに近くにいるように感じた。画面の中にいる……という距離ではない。すぐ隣にいるような、そんな距離感だった。
「あら菖蒲さん、こんなところで奇遇ね。さて、取材に行きましょう」
エントランスのドアをゆっくりと開けた瞬間、急に真横から冷淡な声がした。
「え、え……え?」
佳波は目を丸くしたまま硬直してしまう。
「ちょ、ちょっと! そんなにもたもたしてないで、早く行きましょうよ」
すみれは手をあわあわと振りながら走り出した。やはり変わった人だと思った佳波は、ゆっくり跡をついて走る。
「し、紫藤さん。それって本当に奇遇なんですか…なんで私の住所を知ってるんですか?」
明日で母親の刑期が終わるというのに、何もできずに一日が終わる気がして、佳波は既に体調が悪くなっていた。すみれは佳波が付いてきているかを確認しようと、くるりと後ろを振り向く。
「秋葉原」すみれは呟いた。しかし、街中の人々のスマートフォンの通知音でかき消され、佳波の耳には届かなかった。
「な、何か言いました?」佳波はすみれの方に走っていった。
「秋葉原に行けば、大体のファンは見つかるから。適当に写真撮ったりなんなりして早く済ませましょう。あと、少し離れて歩いてくれる? 怪しまれるかもしれないから」
佳波は目を細めて「はい」と頷き、すみれと三メートルほど離れてから歩き始めた。人とぶつからないように、丁寧に歩いていく。そんな佳波も、心の底ではとてつもない緊張と不安を抱えていた。母親に会う為の準備や、綺羅星キラトの情報に、正人だけ過去が読めないという謎。ここ数日前から目まぐるしく起こる《非日常》な出来事に付いていくのは、かなり難しい。
『次のニュースです。国民的アイドル・綺羅星キラトが自殺した事件により、ファンの人々がSNS上で《#第一次世界冷戦》を繰り広げています。一昨日からの自殺者は五十万人で……』
人々は巨大テレビに視線をうつす。佳波とすみれも、少し目を配った。そして、小さくため息を吐いた。とぼとぼと歩いている内に、家から近めの渋谷駅まで到着した。ずっと会話をしない時間だった為、エスカレーターで駅のホームに上がる時に、佳波は少し世間話をしてみる。
「し、紫藤さん。明日の天気はどうなるんでしょうね」
「明日…? 別に、晴れなんじゃないの」
すみれは後ろを振り返らずに言った。
「し、紫藤さん。紫藤さんってどこに住んでいるんですか?」
すみれはいきなり後ろを振り向き、頬を赤くし、口に手を当てる。佳波は一瞬目を疑った。
「そっ、そんなの、なんで言わないといけないのよ。…渋谷、家からちょっと近いから、立ち寄ってみただけなの」
(偉そうだったり、恥ずかしがったり、不思議な人だ)
週刊百日紅のライバル誌である週刊ダリアは、どちらも売上がトップクラスに多い雑誌だ。今は週刊百日紅が売上一位だが、半年ほど前までは週刊ダリアが一位だった。そんなライバルである二人の記者が一緒に取材に行くなんて夢にも思わなかった佳波は、緊張で胸が高まっている。
駅のホームが見えた。渋谷から秋葉原までは距離があるが、大体二、三十分で着く距離だ。またあの通勤地獄が始まると思うと、背中に寒気がした。しかし、九時になれば会社に遅刻をして慌てるサラリーマンがいるくらいで、電車はかなり空いていた。二人はその電車に黙って乗り、少し間を開けて席に座った。
――ガタン、ゴトン。十数年前まではそんな音を鳴らして走っていたが、今ではもうスイスイと音を立てずに走るため、効果音が付けにくい。
(何だか、不思議な感じだ。本当に非日常な事ばかり起こる)
沈黙の時を過ごした。しかし、昨日の朝に聞いた綺羅星キラトの声が、脳内から離れなくなっていた。人々が綺羅星キラトの虜になっているのも、そのせいだろう。
(これが大人気の秘密か…)
佳波はぼんやりとそんなことを考えていた。胸ポケットにしまったスマートフォンが、大きく振動する。きっと、職場か広告の通知だろう。
ブー…ブー…ブー…
佳波は目まいがした。
―――『次は秋葉原……秋葉原です。お降りの際はお忘れ物にご注意ください』
アナウンスが流れた瞬間、スマートフォンを触っていたすみれが急に横を向き、「行きましょう」と佳波の腕を軽く掴んだ。
「……?」
しかし、佳波はしばらくの間、すみれと接触してしまったにも関わらず、動かずにぼうっと前を向いていた。何も考えることができなかった。母親のこと、正人のこと、仕事のこと。溜まっていくストレスや非日常に追いつく事ができずに、佳波はただ脳内に残っている綺羅星キラトの声を延々と流していた。
「あ、菖蒲さん? 大丈夫?」
すみれは焦って何度も佳波の肩をたたいた。そこから、一瞬だけ小さな光が灯った。佳波の脳内に、すみれの過去と未来が何個も映しだされる。
『あら菖蒲さん、こんなところで奇遇ね。さて、取材に行きましょう』『正直言って私、ずっと前から百日紅の事は大嫌いだから』
最初は佳波の知っている過去から見え始めた。佳波の意識はほとんどなくなっていた。それでも、過去はどんどん頭に入ってくる。
『キラトくん……』『綺羅星キラトくんが生きる糧だから!』
少し前の過去とは別に、性格が全く違うすみれが脳内で「キラトくん」と囁いた。佳波は驚いたが、体調が悪いため幻覚を見ているのかもしれないと勘違いをした。
『あ~キラトくんがカッコいい!』『大好き!』『愛してる!』『誹謗中傷している奴は絶対に許さない』『キラトくん…キラトくん…キラトくんキラトくん…』
綺羅星キラトの愛を延々と語られ、佳波は胸やけする。早くこの夢から覚めたいとも思っていたが、本当はタイムスリップをしているだけの為、声を出さない限りどうにもできなかった。すみれの過去は続く。
『あ~キラトくん…キラトくん…花崎奏人くん。本名、分かっちゃった』
聞き覚えのある名字が、過去のすみれの口から放たれた。佳波は夢であると思い込みながらも、「え」と《声を出す》。どういうことなのかを知りたくて、佳波は体を乗り出した。この続きが見たくて仕方なかった。しかし、その瞬間、佳波は恐ろしいくらいの目まいがし、目の前のすみれが二重、三重、四重、五重……と、だんだん見えなくなっていった。
「あ‼」佳波はぱちりと目を開け、控えめな声で叫んだ。一瞬の出来事だった。佳波は今まで起きていた出来事を少し整理する。横にはすみれが座っていた。
「菖蒲さん! もう、早く行きましょう」
すみれはそう言いながら素早く立ち上がり、先に秋葉原駅のホームへ降りていく。
「あっ、待ってください…」
佳波の体調はもう限界まで迫ってきていた。ひょろひょろと歩きながら、何とかはぐれずにすみれに付いていく。頭の中が人々の記憶でいっぱいで頭痛がする。人生を何十周しても足りない記憶だなと佳波は思った。
(さっきの花崎奏人って…もしや、花崎さんの)
心臓が高鳴る。ここ数日の気持ちは、ずっとそうだ。しかし、今は綺羅星キラトの事について集中しなければならない。
「ちょっと、菖蒲さん? 付いてきてる?」すみれは振り返り言う。
「す、すみません!」
佳波はすみれの方へ駆け出した。
絵にかいたような世界に、佳波は息を飲んだ。見上げるほど高いビルの壁や窓には、綺羅星キラトをメインとした二次元アイドルのイラストが数えきれないほど飾られている。しかも、そんな光景が数十メートルほど続いていた。渋谷では自殺者のニュースが流れていた巨大テレビが、秋葉原ではアイドルのミュージックテレビに変っている。そして、まだ明るい午前十時でも、ネオンライトはぎらぎらと太陽のように光っていた。日本で一番明るい街と言っても過言ではない。佳波の三メートル程前に立つすみれは、巨大テレビを見上げて黙りこんでいた。大人気アイドルの自殺事件……テレビには、元気よく歌う綺羅星キラト。
(紫藤さんは、大好きだったんだな)
佳波が恐る恐る声をかけようとした瞬間、すみれはばっと後ろを振り向き、「取材に行くわよ」と言った。目元には、きらりと光る宝石のような涙が少し見えた。佳波はこくりと頷き、周りを見渡す。普段着を着た男性記者たちが、根気強く街の人々に声をかけていた。嫌がっているほど粘り強く情報収集をしている。どうせ、売上が少ない週刊誌の記者なのだろうなと二人は思った。横断歩道越しの、綺羅星キラトが壁に描かれた店から、大きな荷物を持った女性が出てくる。暗い顔をしていた。
(この街は、外観が明るいだけで、冷戦なのは変わりないのか)
そう思った瞬間、すみれは横断歩道をスタスタと渡ってゆき、その女性に近づいた。佳波は動揺しながらも、すみれの後を付いていく。
「おはようございます~。あら…その鞄、素敵ね~」
すみれは女性の肩をぽんとたたいて、人が変わったように包容力のある声で言った。佳波は驚きのあまり、声を少し漏らす。女性は少し混乱しながらも、ぺこりとお辞儀をした。女性の鞄の中には、綺羅星キラトの人形や飾りがいっぱいに詰まっていた。
「あ、ありがとうございます…この鞄、お気に入りなんです」
女性はこれが《取材》の一部だと気づいていなかった。これは、記者の取材方法の一つである。気前が良く、話好きな人。そう見せかけて、会話から記事の情報を引き出していた。
「あっ、このキーホルダー、綺羅星キラト? 私ね、キラトのファンなのよ。だから、ニュース見た時、泣きじゃくったわ」
「えっ⁉ それ、共感します…‼」
女性は泣きながらすみれの手を握る。冷戦が始まって以来、道端で人と人が直に話すのは珍しい光景だった。対面で話せる嬉しさに惑わされ、つい話し過ぎてしまうという罠だろう。佳波は立ち止まってその光景を見ていられずに、沢山いる女性の中の一人に肩にホコリが付いていますよと言いながら接触し、過去へとタイムスリップする。
『キラト死なないで‼ お願い、キラトの声聞かないと生きていけない…!』『やった、飲みたかった限定ドリンク!』『キラト…』
佳波の目の前に、何十倍速ものドラマが爆弾のように降り注いだ。スマートフォンの無音カメラで、その光景を写真に撮る。その瞬間だった。
『花崎奏人、かあ。キラトの本名、普通にネットに載ってるじゃん』
記憶の中で、女性はにやりと笑っていた。
「え」佳波はうろたえた。眩い光が目を刺して、天から地へ落とされるように現実世界へ戻る。ぎらぎら光るネオンライトが目に入り、陽性残像ができた。すみれと女性たちは、まだ仲睦まじそうに話している。
「え~! そんな情報、初めて知った! ありがとう、また会おうね~!」
気が付けば、すみれの取材は終わっていた。女性たちが明るい顔でぞろぞろと去っていく。佳波は唖然とした目で遠くを見ていた。陽性残像の範囲が広く、しばらく元に戻らなかった。後ろから、ふうとため息が聞こえる。
「やっと終わった。じゃあ菖蒲さん、ちょっとカフェで休憩しましょうか」
「そ、そうですね」
佳波は頭を小さくさげる。二人は距離を置いて歩き始めた。その間、言葉を発さずに、最寄りのカフェまで沈黙の時を過ごした。
――チリリリン。
風鈴の音とともに、いらっしゃいませと穏やかな声が聞こえる。静かで木の匂いがする店内に、佳波は安堵の息を吐く。二人は小さなテーブル席に腰を下ろした。
「ここ、よく通ってるの。人も少ないし」
すみれは店員に「珈琲を二つ」と言い、佳波を見つめた。数分前までの偽りの笑顔とは全く違う、冷淡な眼差し。頭上のシャンデリアが接触不良になったのか、一瞬だけチカッと灯りを消した。
「取材誘ったのも、全部この事を言いたかっただけなんだけどね」
佳波は姿勢を正す。ここ数日は変な事ばかり起こっているため、何が来ても大丈夫な気がしていた。
「何でしょうか」平常心を保ち言う。
「昨日言った、百日紅の事が嫌いっていう件」
「お待たせいたしました。珈琲とおまけのキャンディー、二人分です」
会話が途切れた。女性店員がにこやかに珈琲カップとキャンディーを置いていく。二人は頭を下げ、正面を向き合った。小さなテーブルを挟んで、ライバル同士の二人が向かい合わせで座っている。緊張が漂い汗が流れて、珈琲は飲める気がしなかった。
「あの、紫藤さん…」
バン!
すみれが机を叩いた。滅紫と黒で染められた長髪が揺れて、少しみだれる。青白い肌に冷たい目。佳波は前のめりになってすみれを見つめた。静かな空間に、すみれの過呼吸だけが耳に入る。しばらくして、深呼吸をし、息を大きく吸い、冷ややかな声で言葉をつづるように話し始めた。
「私ね…十年くらい前に、大好きだった俳優が自殺したの。十九歳の時だったかしら」
佳波ははっと息を吸った。どうしたら良いか分からず、とりあえず素早く相槌をうつ。
「そ、それは悲しいですね」
「まあ、もう立ち直ったんだけどね。でも、十年前では珍しい、誹謗中傷で自殺したから。しかも、週刊誌のスキャンダルで」
スキャンダル。名誉を汚すような不祥事。週刊誌ではありがちな事だ。本当かも分からない物事は、この世に星の数だけある。それで傷ついた人を、佳波は何度も見てきた。すみれも、何度も見てきた。
「スキャンダル…」
「うん。私の大切な人を奪ったのが、週刊誌だったのよね。雑誌名は……」
佳波は次に出てくる単語を分かっていた。胸がどくんと鳴り、どうしようもないような心の空きを感じる。すみれが息を吸い上げた瞬間を狙い、佳波は机に乗り出して声を発した。
「週刊百日紅…ですか」
すみれは冷めた顔でこくりと頷く。
「そう。だから、その時思ったの。自分なら、週刊誌にそんな事を書かないなって。誹謗中傷なんて、しないなって。だから、記者になったの。自分なら、週刊誌を変えられると思ったの。でも、無理だった。自分も、あの時みたいに、誰かを誹謗中傷で傷つけた。ハッシュタグ、第一次世界冷戦という流行語まで作られて。それに…」
すみれは人間性が無くなったように、坦々と言葉をつづけた。人間らしさを失うという事はこういう事なのか、と佳波は思った。昨日の朝に正人に言われた言葉を思い出す。
「紫藤さん……」何を話そうか、なんて構成も練っていないが、何か言葉は無いか必死に探した。暖かなカフェの空間が、段々と冷房で寒くなる。
「綺羅星キラトを殺したのは、週刊誌記者である私たちなのよ」
すみれは机に頭を伏せて言った。どうしようも無かった。自分が色々なことで悩んでいたのが、とてつもなく小さな事だったと思えるほど、すみれの心と体は冷たく凍り付いていると感じた。
「あの、紫藤さん」何も言えないはずなのに、声が出る。
――何を言えばいいのだろう。何を言えば気持ちが落ち着くのだろう。
佳波には分からなかった。しかし、その瞬間、すみれがむくりと頭を上げて、スマートフォンを触り始めた。
「ふう、何だか心がすっきりしたみたい。ごめんなさいね、愚痴を吐いてしまって。あのね。私、昨日の夜に、菖蒲さんに『会ったことがある』って言ったわよね」
「え、あ、はい」
すみれはスマートフォンの画面を佳波に向けた。小さな文字が並べてある窮屈なサイトが表示されている。インターネットが普及してきた五十年前のサイトのようで、佳波は見覚えがあった。
「これね、二〇〇〇年代に開設されたサイトなのよ。これ、スマホの画面を写真に撮っただけなんだけど、三日前の書き込み」
細い指で画面を拡大してみせた。目を細めないと見えないような小さな文字。佳波は画面を覗きこむ。
「あ…‼」
佳波は驚きのあまり、椅子から立ち上がった。後ろの壁にぶつかって、後頭部がずきずきと痛む。スマートフォンの画面には、三日前に自分で書いた文章が、一昨日に非公開にした文章が表示されていた。
【私はどんな事があっても、記者として情報を伝え続けます。たとえ、今ここで人が死んでいても関係ありません。…でも、誰も知りたくない情報くらいは、見逃してやってもいいと思いますか?】
「あ、あの。これって」
恥ずかしさが頂点に達し、両手で顔を隠す。珈琲の湯気が佳波に移ったようだった。
「これ、菖蒲さんの書いた文章よね? こんな古臭いサイトを見ている記者なんて、百日紅くらいしか無いなって思って。菖蒲さんの書いた記事、過去の事や未来の事しか書かれてないのよ。《現在》を追っていないっていうか」
「そ、それは」図星を突かれた佳波は黙りこんだ。すみれはため息をつく。
「たまたま菖蒲さんらしき人を見かけたから、コメントで言いつけてやったわ。あれ書いたの、私」
画面をスクロールした先には、やはり一昨日の文章がつづられていた。
【記者は皆が知りたい情報を集める職業、なんでしょう? 名無しのA】
佳波は顔から火が出た。週刊誌記者として、何てことをしてしまったのだろうと、過去の自分にあきれ返る。今では非公開にしてある投稿だが、写真を撮られたらもう逃げ場はなくなってしまった。しかも、コメントを書いたのがライバル誌の記者というのだ。
「あっあっあ…あの」言葉がどもる。
「ちょっと、椅子に座ってよ。私、この事を記事に載せる気も無いし、他言もしないから」
「えっ?」
意外な発言だった。佳波はおどおどしながら椅子に座った。
「私ね、ずっと真実ばっかり探して、みんなが知りたい情報とか、そういうの、忘れてたの。十年前の志とか、全部空っぽに忘れちゃって。でも、菖蒲さんの言葉聞いたら、大切なこと、思い出した」
いきなりの事に、佳波はあたふたした。
「えっ、は、はあ、どうも…」
すみれは佳波に微笑みかけ、キャンディーを口内に放り込み、佳波に微笑みかけた。雪のような冷淡な顔が溶けたように、まるで《#第一次世界冷戦》が休止符を打つように。
(……花崎さんが言ってた『人間らしさ』って、こういうこと?)
佳波の目が光った。母親の刑期が終わりに近づくとともに、散らばったパズルが組み合わさって、一つの物語ができるような、そんな気がした。
「本当は昨日、その場で言おうと思ったんだけど……私、ちょっと口下手だから、長くなっちゃった。ごめんなさいね」
すみれは苦笑いをした。きりっとした眉毛が少し緩む。佳波は微笑み返し、キャンディーを咥えた。優しい林檎の味がした。
「菖蒲さん、ちょっと頼みがあるの」
「何ですか?」
すみれは眉間に皺を寄せ、スマートフォンの待ち受け画像を見つめる。
「綺羅星キラトの記事をよろしくね」
「はい。もちろん、紫藤さんも」
カフェの時計は午前十一時を指していた。冷めた珈琲をぐびっと飲んで外に出てみると、数十分前の人混みがすっかりと消えていて、街は静寂に包まれていた。
「さっきまでのは、何だったんでしょう」
「みんな昼食でも食べに行っているのかしら。それとも過疎化?」
適当に答えるすみれに、意外だと佳波は瞠目する。
「最近の若者、家にいる時間が増えてきていますから。私たち、帰省ラッシュしか見ていないのかもしれませんね」
「そうかも。不思議な感じ」
佳波は周囲を見渡した。人がいなければ、取材の仕様も無かった。二人はお互いに苦笑いを掛け合ってみる。
「今日はもう帰ります? 紫藤さんも、予定ありそうですし」
「そうね。私、菖蒲さんの家と逆方面だから、ここで。それじゃあ」
佳波は控えめに手を振って見送った。こんな事をするのは中学生以来だった。まだ、母親が自由身だったころを思いだす。――明日は遂に母親の釈放日だ。曲がり角ですみれの姿が見えなくなった瞬間、妙な孤独感を覚え、身体が震えあがった。誰かに束縛されている、そう感じた。
(明日、お母さんに会える。人を殺した、お母さんに会える。今まで、人を殺した人に何度もふれて、取材をしてきた。だから、大丈夫なはず。なのに)
ふらふらと彷徨い、渋谷方面のホームまで足を運ぶ。昼間なのに暗い地下の空間に、佳波は圧迫感を覚えた。
『綺羅星キラトの自殺事件。SNSでは、週刊誌記者を含んだ冷戦が繰り広げられています』
駅内テレビのアナウンスが静かに語った。佳波は足に錘を付けられているような気持ちになる。胸の鼓動と電車のドアが開く音が重なった。佳波は空いた席に座り、ひたすら電車に揺られる。
『次は渋谷…渋谷です。お出口は右側です』
佳波はいつものように駅から降りて、自宅に向かって数分歩いた。佳波はふらつきながらマンションのエントランスに入る。腕時計に表示された時刻は、まだ午前十一時半だった。ここ数日で、色々な事が起こり過ぎ、時間の進みが遅く感じられている。そして、矛盾点がいくつも生まれた。大切な過去をすっかりと忘れてしまっていた事、あの時に正人の過去が読めなかった事。やはり自分の体に異変が起こっているのかもしれないと、少し不安になっていた。
(取材しようと思ったけれど、特に何も分からなかった。花崎奏人って、何者なんだろう)
佳波はエレベーターの前で立ちすくみ、スマートフォンを胸ポケットから取り出した。検索エンジンに花崎奏人と入力しようとしたが、生まれた時からずっと知っている正人と同姓のため、検索する事を少し拒んだ。
(何だか…頭痛がする)
急に視界が狭くなり、意識が遠くなった。走馬灯のようにぐるぐると他人の記憶が廻り、吐き気が佳波を襲う。ふいに見えたスマートフォンの検索履歴には、《綺羅星キラト 弱すぎ》といった箇条書きの戦争が連なっていて、まるで見えない剣で身体をえぐられているような気持ちになった。
(やっぱり、これは、おかしい。こんなの、みんなが望んだ世界じゃない)
佳波は拳を握った。その瞬間、身体が揺さぶられて、堅い床に仰向けで叩きつけられた。昨日のように正人が助けてくれるのかもしれない、といった一つの希望を抱いて、佳波は意識を失った。
人の感触を、佳波は嫌っていた。表面では優しくて暖かいような感触だったとしても、卑劣な過去と暗い未来が見えてしまっては、急に皮膚は冷たくなる。それは、少しぶつかっただけでも、どんなに厚着をした状態でも、直で伝わってきて、そのたびに佳波はぞくぞくと身体をそそられていた。そしてプライバシーなんてことは気にせず一途に記事を書く。過去と未来に暗いものが無い人は、この世にいないという事なんて、佳波は幼い頃からずっと知っていた。
(なのに、なのに、なのに)
またあの時の感触が佳波に伝ってきている。止まっていた長針と短針が、急に反時計回りにギュルギュルと加速して回っている感覚だ。
(なんで? 誰かが私の背中に触れている。なのに、過去と未来が読めない!)
佳波の目の前には、狂ったように動き回るよく知らない他人の記憶でいっぱいで、汗がびっしょりと垂れていた。
『菖蒲さんのおかげで、大切な事、思い出した』『私、日本のこと、好きでス』『佳波さん、《人間らしさ》が無かったっていうか』『お母さんが、人を殺すわけがない‼ 行かないでよお、おかあさああん‼』
佳波自身の記憶も混ざって、頭が記憶で埋もれて、爆発しそうであった。
――そういったストレスを、全て記事に書いてやりたい。そんな気持ちでいっぱいになって、佳波はぱちりと目を開ける。
「うわああああ‼ …え、あ」
鼻につくような匂いが漂う。煙草を吸っていそうな知り合いを、佳波は一人だけ知っている。
「は、花崎さん?」
「あっ、佳波さん! 意識あった、よかったあ…。救急車呼ばなくて大丈夫ですか?」
佳波の背中が正人に支えられている。どくりと佳波の心臓が高鳴った。背中から伝わる感触は、幼い頃を偲ばれるようなものだった。
(何…この既視感。あと、煙草臭い)
至近距離で煙草の匂いを嗅ぐ事は、人に触れる事と同じほど嫌いだった。佳波は息を止めて、こくりと頷く。やはり、正人の過去と未来を読む事はできなかった。
「し、心配かけてすみません…私、倒れていたんですか?」
「はい。売れないミステリー映画の被害者役みたいに」
正人は鼻でふっと笑う。恥ずかしくなった佳波は、一刻も早く正人から離れようと足を動かした。しかし、足が地に付かない。
「あ、すみません。病院に連れて行った方が良いと思って」正人は佳波をゆっくりと降ろす。エントランスの窓に突き刺さる直射日光が佳波を照らして、目がくらむ。
「…はい。本当にごめんなさい、何だか」
正人はまた笑った。
「最近、佳波さんがドジすぎて、何だか面白いです。あと、何か悩みがあったら、僕が聞きますから」
「え?」
空気清浄機の風がしゅるりと二人の間を過る。佳波は呼吸が続かなくなり、仕方なく息を吸った。
「あ、ほら。昨日会ったときに、佳波さんの目に隈があって。仕事、忙しくて寝ていないのかなって」
佳波は赤恥をかいた。一昨日は全く睡眠をとらなかった為、少し隈ができていたのだ。正人の他にも、編集長の佐藤や珠蘭、すみれとも出会ったが、隈に気づいたのは正人だけだった。
「あ…そんなことまで…ありがとうございます。でも、大丈夫です。もう社会人ですから」
胸を張って言う佳波に、正人は目を丸くしてポカンと口を開けた。
「そうですか? まだ夜中に地団駄を踏んでいるような音が聞こえるので、ストレスがたまっているのかと」
「あ」恥ずかしさとともに、インターネットで投稿した文章の事を思い出し、一つ一つの出来事に追いつけず佳波は真顔になる。
「あはははっ。佳波さん、シュール。悩み事もすっかり消えた気がします。ありがとうございます」
正人は丁寧に頭を下げ、礼をした。十年前と同じような面影が残っていた。
「あ…はい。こちら、こそ」
――ピロリン、ピロリン、ピロリン。
「うわあああ‼」
スマートフォンの通知音が、急に鳴りやまなくなる。予測していない出来事の連発に、佳波は思わず叫びあがった。綺羅星キラトの事を検索し過ぎて、通知が目まぐるしく来るようになってしまったのだ。佳波はびくりと肩をすくめ、全て消去しようと画面を何度も叩く。手汗がすさまじく出て、指が震えた。
「通知、《全て消去》っていうボタンをタップすれば一瞬ですよ」
正人は画面をのぞき込んで、《全て消去》のボタンを探し始めた。画面には、綺羅星キラトの投稿や画像、ニュースが詰め込んである。勘違いを避けたいと思った佳波は、咄嗟に画面を隠そうとした。しかし、正人が「え?」と言う声の方が早かった。
「綺羅星…キラト?」正人はぴくりと立ち止まって、小さくつぶやいた。もう逃げられないと思い、佳波はおとなしく黙り込んだ。
《綺羅星キラト 自殺》《綺羅星キラト 誹謗中傷》という文字が画面いっぱいに浮かび上がっている。週刊誌記者である事を知られたくないと思っていた佳波だが、これだけを切り取って見るとただの嫌味な女性になってしまう。
「あ…あの。これは」佳波は言い訳を考えようとするものの、逃れられるとは一割も思っていなかった。そんな佳波の気持ちとは裏腹に、正午の涼しい隙間風が心を蝕むように通り、昼食から戻ってきた人々のざわめき声が耳を乗っ取る。
「か、佳波さん、綺羅星キラトのファン《だった》んですね」
《だった》という言葉が強調された。フレンドリーだった正人の顔が、急に出会った頃のすみれのような冷淡な顔に変わる。さっきまでの優しい顔が失われて、何事も無かったような光景に佳波は息を飲んだ。血の気が引いていく。指先から皮膚が黄色くなっていっているのが分かった。
「あ、あの。べ、別に、ファン、とかではありません。最近、話題になっていたので、な、なんでかなァと思いまして」
何度も言葉がどもった。スマートフォンの充電残量が少なくなっているのか、画面は暗くなっていた。
「…綺羅星キラトって、誹謗中傷でどのくらい傷ついて、冷たくなって、自殺をしたのかなって思うと、寒気がして仕方ないんです」
正人が言った。その声は、冷戦で大切な人を失ったような、残酷な声だった。
(綺羅星キラトと花崎奏人…そして、目の前にいる花崎さん)
佳波の頭がぐるぐると回る。マンションのエントランスで騒いでいるのは私だけだ、という恥ずかしい気持ちも添えて。
「佳波さん…?」正人が佳波の肩を叩いて言う。もちろん、記憶は読み取れない。苛々とした気持ちが高まった佳波は、正人の方にばっと振り向いた。
「あっ…あのっ‼ 花崎さん!」
聞いてみたとしても、ただの醜い記事になるだけの情報。それをただ聞きたいと思っただけで、佳波は口を開けた。煙草の空気が口に入りこみ、少しむせながら。
「花崎さんって……花崎奏人さんの事を知っていますか?」
その瞬間、正人は目を丸くした。何かあるな、と確信した佳波は、過呼吸になって正人を見つめる。しかし、返ってきた返事は全く違うものだった。
「い、いえ…同姓ですが、し、知りません」
「え?」佳波は心臓が止まったように、膝をがくんと落とす。骨と骨の間に床がぶつかった為、じんじんと痛かった。
――週刊誌記者として、記憶も読めずに、見当も違っていたら、どうやって記事を書けばよいのだろう。
ストレスを溜めたガラス瓶が割れてはじける。最近は、状況だけでなく情緒も不安定になってきていて、佳波は涙を堪えようと必死に瞬きをした。
「か、佳波さん!」正人が私の背中をさすった。
どくん。
妙な既視感が恐怖に変わる。背中をさすられると、胸がざわざわと苦しかった。大丈夫ですか、と正人の声が聞こえる。
「本当に…すみません。私、最近、おかしいんです…」
他人の前で泣いた事が無かった佳波だが、今日ばかりは涙がぽとぽとと流れ落ちて、涙雨が降っている。
「お母さん…明日戻ってくるし…キラトの事、分からないし…色々、いつもは我慢できたのに、今日はなんだか、いっぱいで…ごめんなさい。本当にごめんなさい…‼」
言葉と涙は同じようなものだ。喋りだしたら、泣きだしたら、止まらなくなる。佳波は自分が何をしているのかも分からなかった。正人は立ち上がって、小さく微笑んだ。
「……佳波さん、やっぱり昔から変わらないですよね。我慢して頑張りすぎてしまってます。ちょっとそこで座って、待っていて下さい」
「え……」
佳波はよく分からずにコクリと頷く。涙が止まらない。目の隈はまだ残っていた。スマートフォンの画面はまだ微かに光っている。
《十年前のあなたはこんな事を思っています》
佳波は拳を握りしめた。
――過去を振り返りたくないし、未来も見たくない。
今日、佳波が日記を書くのなら、こう綴るだろう。
(私、何してるんだろ…。花崎さんに迷惑かけて、誹謗中傷もして。明日はお母さんが出所するのに、記事を書かなきゃいけないのに、全く有力な情報が掴めていない。記者失格だ)
佳波の腹がきゅるきゅると鳴った。珈琲一杯とキャンディー一個だけでは、昼食とは言えないだろう。空腹を感じた瞬間、佳波は急に極度の孤独感を覚えて、また涙がこぼれ始めた。人の数だけあるスマートフォン。外からは、その通知音が鳴りやまずにピロリンピロリンと連呼している。
(花崎さん、どこに行ってるのかな)
佳波は小さくため息をついた。《#第一次世界冷戦》中の吐息は、哀しい時の吐息は、少しだけ冷たく感じる。佳波は体操座りをして、膝に顔を埋めた。花崎を待つ時間がとてつもなく長く感じた。
(どうしよう。明日、どうしよう。記事は、どうしよう。綺羅星キラトの事は、どうしよう。花崎さんに迷惑かけちゃった、どうしよう)
考えれば考えるほど、胸が締め付けられる。成人して五年も経ったというのに、心は花崎の言う通り、まだ子供のままだった。
佳波が顔を伏せたまま、数分間の時が経った。その瞬間だった。自動ドアが開く音がウィーンと鳴る。
「佳波さん! 待たせてすみません、これ。コンビニで買ってきました」
奈落の底からふわりと助けられるように、正人が片手を差し出した。手には煙草の箱が握られていた。
「え…た、煙草? 私、吸いませんが…」
正人はえっと呟き手元を見る。びくりと目を丸くして、もう片方の手を佳波に差し出した。
「す、すみません! 煙草は僕のです。佳波さんにはこれ」
「あ……」佳波もつられて目を丸くする。涙がまた込み上げてきた。
「明太子卵焼き味。ちょっと小さめのなんですけど、佳波さんが、好きなやつです。十年前のうるさい貴女の叫び声を聞いていたら、好きなおにぎりの具くらいはわかります」
佳波は震えあがった。今まで生きてきた中で、一番感激していた。十年前、菖蒲家が欠けていなかった頃に、佳波がこのおにぎりの味を叫んで走り回っていた事を思い出す。緊張がほどけたのか、溜まった涙がぽとぽとと流れてきて、正人の方を見た。十年前と同じ眼差しをしていた。
「う…う…うわああああん! う、う…わああん! ず、ずみません、何だか……久しぶりに母親の事を思い出して…」
佳波はわんわんと泣いた。《#第一次世界冷戦》中の世界が、だんだんと暖かくなっていく気すらしていた。
「ははは。おにぎり、濡れちゃいますよ。早く食べちゃってください」
「はい…」佳波は涙をぬぐって濡れた手で、明太子卵焼き味のおにぎりを頬張る。口に広がる明太子と卵の味が、十年前を偲ばれた。
「どうですか?」正人は優しく問いかける。抱えていた不安が抹消するように、佳波の引き詰まった表情は安堵の微笑みに変わった。
「…母親の味がします。卵焼きのところとか、本当に」
佳波は笑顔で答える。正人はぶっと大きな息を吐き、大きな笑い声をあげた。
「あははははっ! 佳波さん、最高! コンビニおにぎりに、そんな思い入れがあったなんて」
「ええ、普通じゃないんですか?」
佳波は真顔で正人を見つめる。正人はしばらく笑いが収まらなかった。しばらくして、佳波もつられて二人でがはがはと笑った。
「そういえば、佳波さん、成人しましたよね。職業は何にしたんですか?」正人は花が咲くような笑顔で尋ねた。米が一粒、佳波の手元のおにぎりから転げ落ちる。
――週刊誌記者と言ったら、どんな顔をするのだろう。
佳波は少し躊躇した。
「…えっと、下手すれば人を葬ってしまうような職業ですよ」
綺羅星キラトの事を思い浮かべながら、控えめに呟く。
「へえ…あ、医者ですか」
「いや、普通のお医者さんならそんな事しませんよ。もっと、こう…心の傷というか…人を凍死させてしまうくらい、冷たいような」
佳波は自分でも何を言っているか分からなかった。血の通っていない滅紫色の肌をつくる職業。その事に自己嫌悪をする。二人は首を傾げて笑ってみた。その時、正人が「あ」と呟いた。
「僕、何だか、分かった気がします。佳波さんの職業」
「そうなんですか」おにぎりを食べ終わった佳波は、プラスチックの袋をきゅっと握った。ゴミ箱に捨てようと思ったが、プラスチックに温情が宿ったような温かみを感じて、手の中に優しく収めておいた。
「みんなを笑顔にさせるような、素敵な物を書いてくださいね。そうすればきっと、花崎奏人の事も分かると思いますから」
正人は心を読んでいるかのように勘が鋭い。ニコチンで汚れ青みのかかったウィスタリア色の唇が、小さく緩んだ。
「そうかも知れませんね」
「…冷戦で亡くなった人々は、二回火葬をされていますから、一回の火葬で済むようにしてほしいです」
下を向いて歩く人々を窓越しに遠目で見つめながら、正人は小さな声で言った。正午の太陽と正人の頭
が重なって、まるで日食を見ているようだった。
「そ、それはどういう事ですか?」意味が分からず、控えめに訊ねる。
「今、街を歩いている人達は《仮葬》されている途中なんですよ。仮に葬るって書いて仮葬です」
そう言って、指でくるくると空書きをした。何を言っているのか分からなかった。正人は続ける。
「周囲から細い目で見られて、誹謗中傷されることって、仮に葬むられるって意味の仮葬と同じだと思うんですよね。使い方は、違うかもしれませんが」
正人は、ははっと苦笑いをした。
「…へえ。確かに、そうですね」佳波も苦笑いをする。しかし、心の奥はずきずきと痛んでいた。自分のしてきた事を、走馬灯のように、しかし酷くゆっくりと駆け巡り、息を弾ませていた。自室の床に積み上げられた週刊誌の一ページ一ページに、仮葬を誘う言葉が刻まれている。小さな悲しみと迷いでいっぱいになり、佳波は胸倉を掴んだ。
(私は、知らない内に誰かを仮に葬っているんだ。たった一冊、雑誌を刷っただけでも)
やがて正人も立ち上がり、自然と佳波の背中をさすった。暖かい手に、懐かしさは残ったままだ。
「佳波さん。兄……いや、綺羅星キラトの記事、待ってますね」
正人は花が咲くように微笑む。すみれの笑い方と、少しだけ似ていた。ウィスタリア色の唇と、艶やかな滅紫の髪を、佳波は心の中で重ねる。
(キラトに対する思いは、みんな変わらないんだ)
いつの間にか、時刻は午後一時を過ぎていた。
《菖蒲さんへ、取材は終わりましたか。そろそろ戻って来て下さい。綺羅星キラトの記事を待っている人が沢山います》
スマートフォンの通知音が、佳波を叩き起こすように怒鳴り響いた。床の上で寝ていたからか、身体がビシビシと痛む。手の中には、正人のくれた明太子卵焼きおにぎりの包装紙がくしゃくしゃになって掴まれていた。
(部屋に戻った後、そのまま寝たんだ。もう午後六時)
一人で住むには広い部屋。週刊誌の積まれた書庫のような部屋。そこに明日、罪を償った母親が帰ってくる。佳波は立ち上がって部屋を一望した。十年前からずっと集めてきた週刊誌が、何百冊も埃を被っていた。新しいものには、必ず表紙に《#第一次世界冷戦》と印刷されていた。
(仮葬しているんだ、私たちは。今の時代は、ちっとも暖かくないな。危险!が続いているくせに、心が冷えてどうするの)
佳波は深く深呼吸をし、大きく息を吐いたとともに、積まれた週刊誌を紐で括ってがしっと掴んだ。両手が塞がった状態で何とかドアを開け、一階まで降りてマンション内のゴミ捨て場に置く。ずしりとした重みが、溜まっていた責任感を晴らしてくれるような気がした。一回の動作で全て捨てられない為、佳波はそれを五回ほど繰り返した。丁度運び終わった後に、ゴミ収集の業者から声をかけられた。
「あ、こんばんは。ゴミ収集に来ました…って、凄まじい量の雑誌ですね。何年溜めてきたんですか」
「十年くらいですかね。過去はもう振り返らない事にしたんですよ。あと、未来も」
業者は動揺しながらも、すいすいとゴミ収集車に週刊誌を入れていった。そのたびに、過去が薄れて空っぽになるような孤独を感じたが、何故だか安心していた。
「いつもありがとうございます」そう一言かけて、佳波は職場に向かった。頭上から鼻につく煙草の匂いがぷんぷんとしていた。
「週刊百日紅、次はやっとキラトの記事書いてくれるって。多分」
「明日、新刊よね。どんな酷い事を書くんだろ」
若い女たちは世間話をしながら通り過ぎる。しかし、佳波は耳を傾けず真っすぐに歩いた。
(お母さんを迎えられるようにも、今日中には絶対に記事を書かないと)
――どうしよう。
佳波の口癖だった。母親が捕まった時、正人を困らせてしまった時、仕事で失敗してしまった時。どうしようと口にすると、暴走してしまう事が何回もあった。
――どうしよう、どうしよう、どうしよう!
佳波はわざとその言葉を脳裏で繰り返した。これなら、どうしようも無い事が起こっても、何とかなるような気がした。
――どうしよう。
ピロリン。通知音が鳴る。一瞬、誰のスマートフォンから鳴ったのかが分からなくなるが、佳波のものだという事が分かった。
(李さんかな。爆睡してしまった事、謝らないと)
佳波は立ち止まって、画面に〇七〇三と自分の誕生日を素早く入力し、通知の内容を調べる。その瞬間、背後にヒヤリとした感触がし、咄嗟に背中を抑えた。周りの人々は声も出せずに床にへたれこみ、画面に集中していて、二足で立っているのは佳波くらいだった。
「え…」割れた画面を指でゆっくりとスクロールし、ネットニュースの一文字一文字を追いかける。先日の少年のように、活字に釘付けになっていた。
《秋葉原で切りつけ事件発生 被害者三人 原因は綺羅星キラトの自殺》
風雲急を告げる文に愕然と肝を突かれ、佳波は何も考えずに秋葉原行きのホームまで駆け出していった。
――どうしよう、どうしよう、どうしよう!
もう、何とかなるとは思っていなかった。気持ちが高鳴って、何とも言えないような最高の気持ちになった。薄明りとともに、秋葉原行きの電車が到着する。野次馬をしに行こうとする人達を潜り抜けて、佳波は一番乗りで列車に乗った。それでも席には座れずに、吊り革に掴まる事になった。
(またあの列車地獄が始まる。もう、どうしよう!)
走って過呼吸になった息を戻す為に、一旦深呼吸をする。視点が合わず景色が二重になり、寒色の車内をぼうっと見つめた。その時だった。背後から小さな手で肩をぽんとたたかれ、「コンニチハ」と窮屈な日本語が耳を通過した。人と接触してしまった佳波は一驚し、「わ」と多少大きな声で叫んだ。記憶を読む事は免れたが、周りから細い目で見られる。電車がぐらりと揺れ、慌てて吊り革を掴みなおした。
「ちょっと、何してるの。菖蒲さん、私よ。あとこの中国人」
聞き覚えのある大人びた声のほうに振り向いた。すみれと珠蘭が仲睦ましそうに隣合わせで座席に座っていた。
「し、紫藤さんに李さん! お二人も、取材に?」
「イエ、私たちは菖蒲さんを待つ為に会っただけでス。二人で取材なんてしません。紫藤さんはまだ私の名前すら覚えていませんし」
珠蘭は失笑した。暫く無言の時が流れたが、すみれが席を譲ってくれ、他人の記憶を読む事無く秋葉原まで電車に揺られた。一人でいたら右往左往してしまい暴走するが、何とか平常心を保って取材の地へ足を運んだ。中々起きる事のない切りつけ事件に、佳波は胸の鼓動が抑えきれなかった。
(都合よく切りつけ事件が起こって良かった。これで記事がすぐに書ける)
そう思った自分が馬鹿で最低だと思った。捨てた週刊誌が、急に恋しくなった。
昼でもギラギラと輝いていたネオンライトは、夜になるとより一層輝きを増している。壁一面に飾られた綺羅星キラトのイラストが、夜の暗さで見えづらい。三人はこれから不吉な事が起きるような気がした。
「菖蒲さん、ここで本当に切りつけ事件が起こったんでしょう?」珠蘭が不安そうに問いかける。
「そろそろ見えてきますよ、多分」
巨大テレビには、綺羅星キラトが大きく映っている。佳波は記事の構成を練った。瑠璃色の夜空が息を飲むほどきれいで、ふうとため息をついた。すみれも佳波の隣に立って、空を眺める。何を考えているのかが全く分からなかった。数時間前に正人から聞いた言葉を繰り返してみる。
「紫藤さん、心を仮葬する記事は書かないようにしましょう」
「え…それってどういう意味?」すみれは案の定首を傾げた。佳波は眉間に皺を寄せて微笑む。
「仮に葬るって書くんです。誹謗中傷されるって、仮に葬るって意味の仮葬と似ていると思いませんか」
「……それ、記者が言うの? 私達、そんな事…」
すみれがそれを言った瞬間だった。
―ドン!
急に視界が暗くなり、「危险!」とネイティブな中国語が聞こえたとともに、ぐるりと視点が逆になった。目の前の小刀が月光に反射して、きらきらと輝いている。
「誹謗中傷しまくっている事、分かって言ってるの? 実際キラトが死んだんだけど」
佳波は震える身体で前を向く。スレートグレイの細いナイフを持った若い女性が、殺意を孕んだ目で三人を見つめていた。佳波とすみれは、李に仰向けで押しつぶされていた。ナイフを持った女性から二人を守ってくれたのだろう。路上に頭を打ち付けて、佳波はじわじわと頭に血が上っていく。
「な、何ですか。綺羅星キラトと私は他人です」
すみれは咄嗟に鞄からマイクを取り出し、震える手で女性に向けた。しかし、ナイフ相手では勝てる訳が無かった。
「に、逃げましょウ!」佳波は仰向けのまま片腕を掴まれ、ずるずると逃げ回るように李に引きずられる。頭の中は記事の事でいっぱいで、ぼんやりと光る月をただ血眼で見ていた。
「待て! 私はまだ言いたい事が」そう言う女性を無視して、二人は事件現場へ急ぐ。
(あれ、さっき、何があったの? しっかりしないと、記者なんだから。皆が知りたい事は何でも調べるんだから。私、最近、おかしい)
―どうしよう。心臓がどくどくと波打っていた。
「ちょっと、菖蒲さんと《李さん》! 私一人、取り残さないでよ! 記事はどうなるの⁉ マイク持ちなさいよ!」すみれは叫んだ。
そのまま数十メートル引きずった李が、急に路上でぴたりと動きを止め、すみれの方向に走り出した。置いて行かれた佳波は、記者の心を取り戻したように李の後について走る。体中に熱が回っていた。珠蘭は鞄からマイクを取り出し、すみれの所まで駆け抜けていく。
「名前覚えてくれて、アリガトウございまス! せっかくですし、ここで取材しちゃいましょウ」
「ありがとう、…李さん」
二人の目の色が変わった。真剣な眼差しで、「綺羅星キラトの関係は何ですか」、「犯行動機は何ですか」と金魚の糞のように付け回していく。佳波はその中に入っていけずに、その場で立ちすくんでいた。
(私、マイク持ってきてないや。人の記憶に飛んで取材をするなんてずるい事、二人の前ではできない)
――みんなを笑顔にさせるような、素敵なものを書いてくださいね。
正人の言葉が心で繰り替えされた。涙がぽつぽつと、コンクリートの上に降り注ぐ。局地的な涙雨だ。
(お父さん、お母さん、花崎さん、すみれさん、李さん、百日紅の読者さん、ごめんなさい。私、やっぱり、記事が書けない)
自分の手を見つめる。週刊誌記者なら、マイクを持つ為、記事を書く為にある手だ。しかし、他人に触れて過去と未来を覗く為にある手が、佳波は憎らしかった。
「菖蒲さん! 早くマイク持って、こっちに来て!」すみれが素早く手招きをする。佳波は足が出なかった。数十メートル先の犯行現場に人がごった返しているせいか、この周りには全く人がいない。力を使っても、騒ぎにはならないだろう。
―どうしよう。どうしよう、どうしよう。
悔しさと情けなさがブレンドされて、ほろ苦い涙雨の珈琲ができる。マイクはおろか、カメラさえもスマートフォンのものしか無い。佳波は震える手でスマートフォンを取り出し、〇七〇三と自分の誕生日を入力してカメラアプリを開いた。ナイフをかわしながら命がけで取材をする二人と、ただ身体に触れるだけで簡単に取材ができる佳波。どうしてもシャッターボタンが押せずに悶絶する。
(マイクが無いんだから、この光景を写真に収めないと…。でも、これを撮る事で、良い事はあるのかな)
――私ね、ずっと真実ばっかり探して、みんなが知りたい情報とか、そういうの、忘れてたの。
すみれの言葉が繰り返された。十年前の事が偲ばれる。知られたくない母親の情報が続々と流れていった事。日常生活に支障が出てしまい、一日中泣いていた事。その時に、いつも背中を撫でてもらった事。それが誰なのかは、まだ思い出せずにいる。しかし、佳波の中では整理がついていた。
「すみれさん、李さん、ごめんなさい…。私、私、もう」
覚悟を決めて告げる。しかし、次の言葉が浮かばなかった。…その時だった。
ばちん!
佳波は平手打ちをくらい、接触した勢いで幾つもの記憶が頭に跳ね返った。
『キラトが大好きだったのに』『死んでほしく無かったよ…』『キラト、ごめんなさい』『もう一度、声を聴きたい』
急な衝撃に驚き、「あ!」と叫ぶ。頬が赤く腫れてずきずきと痛んだ。今の状況に付いて行けず、まだ涙が止まらなかった。現実に戻った佳波の目の前には、すみれが堂々と顔を近づけて立っていた。
「ちょっと、菖蒲さんっ‼ 一体何のつもりなの⁉ 貴方、過去と未来ばっかり気にしてるなって思ってたけど、これほどまでとは思わなかったわ‼」
「え…?」心の奥がずきんと痛む。
「ライバル誌にこんな説教はしたく無いけど、今の菖蒲さん、《現在》を気にしてない! ずっと過去と未来ばっか気にしてる。おかしいって思わないの? 私、まだ取材するつもりだから!」
すみれはそう言い捨てて、すたすたと李の所へと向かった。瞬きもせずその光景を見ていたせいか、カメラのシャッターに収められたように残像が浮かび上がっていた。
「何があったんだ」
「うそ…ここでも切りつけ事件?」
すみれの大声に驚き、野次馬がぞろぞろと集まってきた。人混みが何よりも嫌いな佳波だったが、ここで逃げてしまうと野次馬になってしまうと思い、動く事が出来なかった。
「ちょっと、邪魔なんですけど」
「す、すみません」
次々と集まる野次馬に押しつぶされ、視界が狭くなる。
―どうしよう、どうしよう。
(明日はお母さんが帰ってくるのに。家族も、揃うかもしれないのに。ここで記事が書けなかったら、どこで記事を書くの?)
街中からカメラのシャッター音が響き渡る。白く眩い光がチカチカと反射した。その度に、悔しさと虚しさが胸を絞める。
「あっ! ナイフ、ナイフ…持ってるぞ」
「きゃああっ」
女性がナイフを向けたのか、野次馬達はゆっくりと後ずさりをした。すみれと目が合ったが、情けない自分に耐え切れずに、目をそらす。珠蘭が「あ…」と失望したように呟いた。心臓がずきずきと痛んで苦しかった。
「週刊誌記者が全部悪いんだ…キラトを殺した犯人なんだ‼」女性が暴れる。しかし、ナイフを持つ手は震えていた。
「さっきの女性が言ったけど、お前ら全員キラトを仮葬したんだ‼ こっちはどんだけ苦しんで、泣いたのか、分かってないくせに…」
女性の涙腺に涙が浮かぶ。佳波は十年前の自分と女性を重ねた。珠蘭が泣きそうな目で佳波を見つめる。
がくん。
佳波は肩を降ろした。どうしよう、なんて考える時間も無い。はあ、はあと息を荒くさせながら、女性の方に駆けだした。次にやる事など、何も考えていなかったが、記者として、人間として、やらなければいけない事がある気がした。
「お、おい。コイツ死ぬ気か?」
「いや、記者じゃねえの」
「でも、マイクとカメラを持ってないぞ」
佳波は周囲に接触しないよう一直線に走った。夜風が背中を押してくれるようだった。息を思い切り吸って、大声をあげる。
「あのっ…そこのお姉さん‼ あの、えっと、その…‼」
女性は目を丸くして唖然と佳波を見る。この場にいた全員が声を出せなかった。
「な、何…」
佳波は深呼吸をする。正人から言われた「皆を笑顔にするもの」をずっと考えていた。そして、思った事をそのまま、言葉にして吐き出す。
「あのっ! 綺羅星キラトの大好きな所を、片っ端から教えて下さい!」
その瞬間、ざわっと周りから声が上がった。佳波は続ける。
「それを、記事にしたいんです」
見た人が笑顔になれる記事。佳波にはそれくらいしか思いつかなかった。珠蘭が微かに目を光らせていた。自分でも滅茶苦茶な事を言ったと思った佳波は、恥ずかしくなりおどおどと周囲を見渡す。
「ふざけるんじゃ…ないわよ。そんなの知って、どうせ…」
女性は半泣きで佳波を見つめた。一般人から記者のカメラのシャッター音が鳴りやまない。映画を撮っているようだな、と佳波は思った。
(今日、記事が書けるかもしれない。凄い。どうしよう)
母親と会えるとともに、記者としての仕事をやり遂げる。それが、一番良い結末だ。この数日間が映画になるのなら、タイトルには《仮葬》という文字を入れたいと思った。自分の名前も入れてみたい。数秒間で作った適当なタイトルを心の中で並べる。
(あ…。《アヤメの仮葬刷》ってのは、どうかな)
びゅん。
その瞬間、佳波に向かってナイフが宙を舞った。命の危機が迫る時、情景がスローモーションになるというのはこの事だろう。佳波は自分の所に飛んでくるナイフを血眼で見ていた。
「馬鹿あ‼ もう、言いたくもない‼ もう、どうなっても知らない‼」
女性の声が響き渡る。佳波はその場から動けずにナイフを見つめていた。皆が佳波から目を逸らす。スレートグレイの刃先がやけに輝いていた。
(…あ。刺される)
その時だった。鼻に付く煙草の臭いに、小さく咳き込む。
「佳波さん‼」
一直線に向かっていたナイフが視界から消え、目の前には見覚えのある男の背中が聳えていた。野次馬がきゃあきゃあと喚く。警察が来るのは十五分かかると、その中の一人が言った。
「あの男、自殺する気⁉」
「み、見ちゃダメ‼」
―ぶすっ。
月が雲に隠れる。盾のように佳波を庇った男の掌から、血がだらだらと垂れた。佳波は息もできずに、男から流れるニコチンで汚れた血を見ていた。
「きゃああ‼ 死んだ‼」
「いや、男の手に刺さっただけだよ。死なない」
野次馬は戦時の子ども達のような眼差しを向けていた。これが本当の《#第一次世界冷戦》なのか、と皆がぞっとした。すみれも珠蘭も呆気に取られている。
佳波は男の背中をさすった。読める筈の過去と未来が見えずに、誰でも見える《今》だけが目に映る。
(接触したのに、読めない。花崎さんだ。助けてくれたの)
涙が込み上げてきた。それとともに、自分の情けなさを実感し、嗚咽が止まらなくなる。男は後ろを振り向いた。ウィスタリアの唇、虚ろに輝く瞳。間違いなく、正人だった。ナイフを掴んだ時に手を刺したが、それ以外は無事だった。
「佳波さん、大丈夫でした? キラトの為に、ありがとうございます」
正人はいつもと変わらない笑顔で接す。出血した手を必死に抑えていた。
「は、は、花崎さん…なんで…」
「ニュースに、佳波さんが映った動画が流れてきたので」
珠蘭はその隙に、暴れる女性の理性を取り戻そうと背中をたたく。すみれはその場で二人を凝視していた。
「明日が佳波さんの門出ですよね。だから、頑張ってください。過去よりも未来よりも、《今の日本》を覗いてみてください。きっと何か、見えてきます」
正人はにこりと微笑みかける。まるで、全てを見通しているかのように。
「は、はい…手、ごめんなさい…」
「全然、大丈夫ですよ。…いい機会でもあります、僕の掌に触れてくれますか」
正人はナイフで刺された方の手を佳波に差し出した。
「え、なんで…」
「恐れ多いんですが、どうしても知って貰いたい事があって」
他社の記者や野次馬を放って、恐る恐る手を合わせる。佳波の手と、正人の血が接触した。その瞬間、眩い光がチリリと目を反射し、佳波はその場で正人の記憶に飛ばされた。
『一等星から六等星まで煌めいて! どうも、綺羅星キラトです』
朦朧としている正人の記憶には、最初にそう映し出された。声を出さないように、佳波は静かに遠目で記憶を見つめた。
(読める、読める。なんで? 今まで読めなかったのに)
記憶の中の正人が喋りだした。
『兄さん、本当に食べていけるの? 動画配信者で稼げるなんてほんの一握りだよ』
『大丈夫だって』
正人に兄がいる事が分かり、佳波は顎に手を当てる。ぐるぐると回る記憶に付いていこうと、目を釘付けにした。
『綺羅星キラトって名前、正直ダサいよ。本名でよくない、奏人ってカッコいいよ』
―奏人?
声を発す代わりに、佳波は口をぱくぱくと動かした。
『兄さん、僕もう耐えられないよ。キラトの投稿に百件も悪口が書かれてる』
『でも、優しいメッセージは一万件も届いたよ。別に、良いじゃないか』
―キラト?
もしや、と思う間に、別の記憶で視界が変わった。
(やっぱり、花崎奏人って、花崎さんの)
その時だった。
『うわああん。お母さんが、お母さんが』
『大丈夫だって』
佳波は一驚し、息ができなかった。どこかの公園のベンチに、正人と幼い頃の佳波が座っている。
『お母さん、人殺しだ。私、人殺しの娘だ』
『大丈夫、大丈夫』
正人が幼い佳波の背中をさすった。心臓がどくどくと高鳴って、鳴りやまない。
(うそ。こんな記憶、無い)
反発しようとしても、声が出せない。正人はずっと幼い佳波の背中に触れていた。
『大丈夫。大丈夫だからね』
正人が背中をもう一度さすった。その時、幼い佳波の顔が壊れたように、無表情になった。
『…あれ、私、何に悩んでいたんだっけ』
「わあああ‼」
佳波は耐えられずに叫んだ。何が起きたのかが分からなかった。ただ、正人の優しい眼差しに強い懐かしさを噛みしめていた。
月明りに起こされて、佳波はぱちりと目を覚ます。野次馬が溢れた事件現場に意識が引き戻された。
「え…私、なんで…」
佳波は暫く動けず、正人を見つめる事しかできなかった。
「佳波さん…どうでしたか」
正人は申し訳なさそうに、胸に手を当てた。周囲の騒音が耳に響く。
「どうって…」
「僕の記憶、読めましたか。昔の佳波さんが言ってたんです、読めるって」
「ええ⁉」佳波は思わず叫びあがった。それと同時に、鳥肌が立つような恐怖感を覚える。
―どうしよう。
(周囲にばれた? 花崎さん、知ってるの? 私の過去って、何…?)
佳波はその場で倒れこんだ。気が動転していた。
「記憶が読める? 何だそれ、変なの」
「ナイフが刺さって、おかしくなった?」
「記者ってろくな者がいねえな」
心の底から怒りすら込み上げてくる。血が付いていない手で、正人は佳波の背中に触れた。
「…僕、佳波さんが泣いていたから、ずっと背中をさすっていたんです。暗示をかけるように、大丈夫だって。その内に記憶を読む力が薄れて、血に力が宿ったんだと」
涙が佳波の頬を伝った。感情が付いていけなかった。
「あと…嘘をついてすみません。綺羅星キラトは…」
周りが正人に食いつく。すみれは尚更だった。吐息とともに、正人の口から言葉がこぼれ出る。
「綺羅星キラトは、僕の兄なんです」
きゃああ、という声が佳波の鼓膜を突き破った。その瞬間、ナイフを持っていた女性が二人を目掛けて突進してきた。
「何言ってんのよ‼ もう、嫌だよおお‼ キラトが大好きなだけなのにっ…うるさいんだよお‼」
佳波はひどく冷静に応える。全ての謎が晴れて、安堵すら感じていた。もう、何が起こっても対応できそうだと思っていた。
「菖蒲さん! 切りつけの記事は私が書くから、貴女は好きにしなさい!」
すみれが言った。佳波は大きく息を吸い込み、野次馬に向かって叫ぶ。
「皆さん‼ 私に向かって、殴りかかって下さい‼ 私が記憶を元に記事を書きます‼」
その瞬間、周りから声が上がった。
「何それ、殴る?」
「記憶?」
「やってみようぜ」
野次馬が全員、佳波に向かって走りだした。
――記事が、書ける。
佳波は痛快だった。何百人もの人々が、佳波の肩をぽんとたたく。
「声が大好き」
「歌が上手い」
「顔が大好き」
溢れかえる程の情報が、佳波の脳裏を俊足で駆け抜けた。
(書ける…書ける…書ける‼)
佳波はひたすらメモ用紙にペンを走らせた。記者として活動をしている、と悦びを感じ、涙が流れる。
(…これは、過去でも未来でも変わらない、《現在》の想いだ)
佳波はぐっと拳を握りしめた。
「素敵な物を見せてくれてありがとう。きっと…この記事で、冷たい戦争を温められる」
記憶の中で言い放つ。意識が遠のいて、佳波は現実に引き戻された。
「どうだった⁉」
「本当に読めたのか」
問い詰めてくる野次馬達に、佳波はメモ用紙を大きく広げてみせた。誹謗中傷なんてものは無く、キラトが好きだという思いをただ書き綴っていた。
「わああ~‼」歓声が上がる。ナイフを持っていた女性は、泣きながら警察を待っていた。
「佳波さん。僕、キラトは二回も火葬されていると言いました。でも、仮葬されて冷たくなった身体を、火葬して温めて…今、心の中で生き返ったのかも、しれません」
正人の目元にきらりと光るものが落ちていった。佳波はそれをただ見つめて、泣きじゃくった。
二〇五〇年。情報端末機器は光の速さで技術が進歩している。右手にはスマートフォン、左手には週刊誌。しかし、街行く人々はみな、前を向き歩いていた。それが、冷たい戦争が少し融けたような日常だ。PM2.5がかかった青紫色の空が、佳波にはやけに美しく見えた。朝日が渋谷の街を優しく照らしている。
「紫藤さん、すごい記事になってしまいました…いいんでしょうか」
「ええ? 知らないわよ」
出勤前のすみれと、肩を並べて歩く。佳波は胸をきゅうと掴んで、小さく笑った。しばらく二人で静かに歩く。
「オハヨウございますー。なんだか今日は暑いですね」
珠蘭が後ろから入り込み、すみれの背中をぽんとたたいた。
「あら李さん。暑いのは菖蒲さんのせいよ。冷戦、融かしちゃった」
すみれは人間らしく微笑む。木陰には木漏れ日が差し込み、天使の梯子ができていた。
(記者として、これからも…)
佳波はふいに涙が込み上げた。昨晩の笑顔と、十年前の自分を重ねて、少しにやけそうになっていた。
「あの俳優が死んだ時も、菖蒲さんがいたら…私は変わっていたのかも」
すみれはぼそりと呟く。
「何か言いましタ?」
「ふふ、何も」
佳波は腕時計をちらりと見た。そろそろ、府中市の刑務所へ向かう時間だった。
「あ、あのっ。私、今日は反対方向なので。ここで、さようなら」
佳波は丁寧に二回礼をして、小走りで駅へ向かった。
(どうしよう。私、これから会えるんだ)
佳波は夢中で電車に揺られた。府中市はすぐだった。
「ねえ、なんか今週の百日紅、見てると笑顔になる」
「俺もそう思う。…俺、タカシと友達になれて良かった! 本当だよ」
駅のホームで、そんな話声が聞こえた。
駅から出てすぐに見える、大きく聳える刑務所。佳波は三歩後ずさりをした。
(早く着きすぎたかも)
刑務所に場違いな自分が恥ずかしく、母親が出て来るまでうろうろしていた。明太子卵焼きの味が、まだ口内に残っていた。
「おはようございます、佳波さん」
背後から気配がして、ばっと振り向く。正人がにこやかに立っていた。
「お、おはようございます! ど、どうして…」
「見送りです」
佳波は頬を赤らめた。そして、正人の背中をさすった。
「か、佳波さん⁉」正人は同じく、頬を真っ赤にしていた。
佳波は無言で微笑む。
(仮葬されない、暖かい世の中に)
佳波は拳を握り、刑務所の方へ走った。涙が風に浚われる。目の前には、もう母親と父親が涙ぐんで立っていた。
(…懐かしい光景。最初の言葉、なんて言おう)
陽だまりが差し込んだ。大きく深呼吸をして、佳波は思い切り叫ぶ。
「久しぶり! 今日、暑いね」
終




