第2章:冷たい手のひらの理由
僕と瑠璃の関係に変化をもたらしたのは、親友の佐伯陽太だった。人懐っこく、誰からも好かれる明るい彼は、その人柄から「犬系男子」と呼ばれている。
「橘さ、最近どこ行ってんだよ? あ、こいつが噂の雨宮さん? よお、佐伯陽太。よろしくな!」
陽太はためらいなく瑠璃に話しかけた。瑠璃は一瞬怯えたように身を引くが、陽太は彼女の拒絶に気づかず、軽く肩を叩こうと手を伸ばした。
「佐伯、やめろ」
僕の低い声に、陽太は動きを止めた。
「ん? なんだよ、橘。あ、ごめん雨宮さん、俺、馴れ馴れしかった?」
「……平気よ」
瑠璃は俯きながら答えるが、その手のひらは、本の上で強く握りしめられていた。
陽太は数日間、温かい紅茶ではなく、市販の冷たいジュースを瑠璃の机に置いていった。陽太の優しさは素直で分かりやすい。だが、僕が淹れる温かい飲み物と違い、瑠璃は陽太のジュースに手をつけなかった。
「佐伯のアプローチは、雨宮には逆効果だ」と僕は直感した。彼女が必要としているのは、表層的な優しさではなく、もっと深く、彼女の冷たさを溶かすための、根源的な温もりなのだ。
ある日、図書室の清掃当番が僕と瑠璃になった。瑠璃は布製の手袋をはめて作業を始めた。彼女はやはり、触れること、触れられることを極端に嫌悪している。
古い棚の埃を払っている最中、グラグラと積み上げられていた古い辞書が崩れた。
「危ない!」
僕は咄嗟に瑠璃を庇うように体を寄せた。瑠璃の体と僕の体が密着し、彼女の顔が僕の肩に埋まる。
瑠璃はすぐに跳ねのけ、息を切らして僕から距離を取った。手袋越しにも、彼女の体の震えが伝わってきた。
「……触らないで」
その夜、帰り道を共に歩いた際、僕は思い切って尋ねた。
「なぜ、そんなに触られるのを嫌がるんだ? なぜ、君の手はいつもあんなに冷たいんだ」
瑠璃は立ち止まり、月明かりの下で、その琥珀色の瞳を僕に向けた。
「触れることは、相手を傷つける。……私が、触れると」
彼女の言葉は途切れ途切れで、過去の深い傷を匂わせた。幼い頃、可愛がっていた猫を傷つけてしまったという、彼女の歪んだ思い込みがあることを、僕はその表情から悟った。
その傷を少しでも癒したい。そう思った僕は、無意識に彼女の頭に手を伸ばした。
温かい僕の手に、冷たい影が落ちる。
バシッ――。
瑠璃は反射的に、僕の手を叩き払った。それはまるで、触れようとした野良猫を警戒して、威嚇するように払いのける動作だった。
僕の手のひらは、彼女の冷たい手のひらによって強く打たれた。
「……ごめんなさい」
瑠璃は僕の顔を見ずにそう呟くと、逃げるように走り去った。
僕の心臓は締め付けられ、しばらくその場を動けなかった。手のひらに残るは、彼女の冷たさと、拒絶の痛み。
僕はその時、確信した。「冷たい手のひら」は、彼女が自分と世界の間につくった、氷の檻なのだと。




