第1章:猫と僕と、図書室の秘密
古い校舎の隅に、人知れず存在する場所があった。
通称「猫の書庫」。
正式名称は「旧図書閲覧室」だが、暖房が壊れていて冬は芯から冷え込むこと、そして窓際に時折、日向ぼっこをしに来る野良猫の姿が見えることから、いつしか生徒たちはそう呼び慣わすようになった。
僕は橘悠人。周囲から見れば、愛想の良い優等生だろう。しかし、誰にも言えない秘密がある。それは、放課後になるとこの猫の書庫に来て、ひたすら温かい飲み物を淹れ、孤独を埋めていることだ。
その日も僕は、図書室の隅、古びた給湯スペースで紅茶のティーバッグを蒸らしていた。湯気とアールグレイの香りが、冷たい空気を一瞬だけ切り裂く。この温もりこそが、僕にとっての心の防波堤だった。
紅茶が飲み頃になった頃、ふと窓際を見た。
その定位置には、いつも通り彼女がいた。
雨宮瑠璃。クラスメイトからは「氷の女王」、あるいは「猫っぽい」と噂される美少女。成績は学年トップだが、周囲に壁を作り、誰とも打ち解けない。
彼女は分厚い古い洋書を広げ、窓から差し込む午後の日差しを受けていた。光は、埃の舞う冷たい空気の中を一直線に貫き、まるで彼女の背後だけが、この世界から切り離されているように見える。
そして、その光の中で際立つのが、彼女の琥珀色の瞳だった。黄色味がかった茶色の瞳は、野良猫のように鋭く、しかしどこか遠い場所を見つめているように寂しげで、見る者に畏怖と好奇心を与えた。
僕はマグカップを両手で包み込み、そっと足音を消して、彼女の定位置へと近づいた。
別に話しかけるわけではない。ただ、少しでも彼女のそばにいたいという、僕自身にもよく分からない衝動に突き動かされていた。
ふいに、彼女が僅かに身じろいだ。長い睫毛が震え、その琥珀色の瞳が僕を捉える。
「……何の用?」
声は冷たく、まるで冬の古井戸の底から響いてくるようだ。
「いや、その……」
僕は口ごもり、手元のマグカップに視線を落とした。その時、足元にあった椅子の脚に引っかかり、体がぐらりと傾いだ。
「あっ」
紅茶を溢す、と思った瞬間。
瑠璃が持っていた洋書を床に落とし、反射的に僕の腕に触れた。一瞬のことだった。僕は体勢を立て直したが、彼女の手はすぐに腕から離れた。
「ごめん!」
慌てて謝る僕に対し、瑠璃は微動だにしなかった。彼女は、自分の手が僕に触れたことが信じられない、といった様子で、震える視線を自分の手のひらに落としている。
そして、洋書を拾うため床に手をついた瞬間、僕は見てしまった。
彼女の手のひらが、異様に冷たいことを。
それは、雪の中に放置された石のような、人肌とは思えないほどの冷たさだった。僕は咄嗟に、自分の温かいマグカップを差し出した。
「これ……どうぞ。温かいから」
瑠璃はマグカップを見つめるが、受け取らない。瞳には僅かな動揺が宿っている。接触への拒絶か、それとも僕への警戒か。
「いらない」
きっぱりと、しかし微かに震える声で彼女は言った。
そして、自分の手を強く握りしめた。
僕は諦めず、そのマグカップを、彼女が座る机の上に置いた。
「別に飲まなくてもいい。ただ、この温もりが、少しでも君の冷たさを溶かせたら、って思っただけだから」
そう言って、僕は自分の飲みかけの紅茶を飲み干し、足早に図書室を後にした。
校舎の廊下に出ても、僕の腕に残ったのは、あの冷たい手のひらの感触だけだった。
廊下の冷気が肌を刺しても、僕の腕に残るのは、彼女の冷たい手のひらが触れた一瞬の感触だった。氷のような、拒絶の冷たさ。
翌日、僕が図書室に戻ると、机の上に昨日置いたマグカップが置かれていた。中身は空。綺麗に洗われている。
「……飲んでくれたのか」
僅かな安堵と喜びが胸に広がる。だが、カップを手に取ると、それはすっかり冷めきっていた。
その日以来、僕と瑠璃の交流は、この「温かい飲み物と、冷めきったカップ」を介した間接的なものになった。
僕は毎日、彼女が好むらしいアールグレイや、体を温めるスパイスの効いたチャイを淹れて机に置く。瑠璃は言葉もなく、それを飲み干し、決まって冷たくなったカップを返す。
物理的な接触は依然として拒絶されたままだったが、この温かいものが、僕と彼女の間に通う唯一の温もりの回路だった。
彼女の琥珀色の瞳が、僕の温かい飲み物によって、ほんの少しだけ緩む瞬間を僕は知っていた。それは、この冷たい書庫での、僕だけの秘密だった。




