誰のために生きるのか
電車で隣に座る人も、駅で降りてすれ違う人も、街中で出会う人も、同じマンションで暮らしている人も――私にとっては、すべて「他人」だ。
私は長い間、人の目を気にしながら生きてきた。周囲にどう思われるか、何か言われるのではないか、といつも心のどこかで怯えていた。しかし最近、「みんな他人なのだ」と意識するようになってから、少しだけ心が軽くなった気がする。
そもそも、なぜ私はこれほどまでに他人の視線を気にしてしまうのだろうか。日本では「おもてなしの国」と言われるように、他人への配慮や空気を読むことが美徳とされている。相手の期待や集団の調和を大切にすることで、知らず知らずのうちに「自分自身の考え」を置き去りにしてしまっていたのかもしれない。
そのことに気づいたのは、アメリカに留学した時だった。現地の高校でエッセイを書く際、私はつい“we”という単語を多用していた。自分の考えを「みんなの意見」として表現していたのだ。しかし先生に「“we”って誰のこと?」と尋ねられ、はっとした。「これはあなた自身の意見、“I”で書いてほしい」と言われたことで、自分がいかに無意識に集団の中に埋もれていたかを思い知らされた。
この感覚は、日本の小学生が「みんな持ってる」と言いがちなあのやりとりにも通じている。「みんなって誰?」「○○ちゃんとか…」「あとは?」というやりとりの中で、私たちは自分の本心ではなく、あいまいな“みんな”に頼りがちだ。
本当に他人は、私のことなどほとんど気にしていない。他人の視線ばかりを気にして、自分の本音や価値観を犠牲にしてしまうのは、とてももったいないことだと思う。
他人の評価に振り回される生き方から、何が残るのだろうか。自分の中に「芯」を持って物事を判断することで、少しずつ心に余裕が生まれる。そうして初めて、他人に対しても自然に優しくなれるのだと思う。
今こそ、他人の価値観に流されるのではなく、自分自身の価値観と向き合う時期なのかもしれない。