7.ヤーナックでの新居
夢を見た。忘れていた過去の夢。
――もう少しでいいから、僕に甘えて欲しかった。君が強いことはよくわかっているが、それでも少しは頼って欲しかったよ――
その姿すら忘れたいと思っていた人の声を、はっきりと覚えている。夢は何もかもが曖昧だ。だが、それによって思い出させられた過去は、鮮明にミリアの脳裏に浮かび上がってしまう。
曖昧ならば、見たことすら目覚めた瞬間に忘れてしまえばいいのに。どうして「彼」の夢を見たことを自分は憶えていたのか。彼女はベッドの上で苛立ち、ため息をついた。嫌な朝だ。
「ああ、今日は治療師の方とお会いする日なのに」
心がざわつく。どうにも出来ない過去のことにとらわれてしまって、気が重い。だが、ミリアは軽く頭を振って「こういう時は、鍛錬」と、ベッドから降りた。
当たり前だが、ヴィルマーはもう来ない。だが、ミリアは一人で朝の鍛錬のため、宿屋の裏に向かった。そして、夢を見たことを忘れるかのように、何度も何度も剣をふるい続けたのだった。
ヴィルマーたちと別れてからの一週間は、あっという間に過ぎた。予定通り、宿屋のおかみに「治療術師が来た」と教えてもらい、ようやくミリアは彼に会うことが出来た。治療術師の名はスヴェン。年齢は四十路ぐらいの男性で、護衛の者を2人つけている。なるほど、確かにサーレック辺境伯の領地を行き来するのに治療術師が一人で移動をするのは、先日彼女たちを襲った野盗などがいることを考えれば難しいのだろうとわかる。
「結論から言うと、あなたの怪我は治せます」
「本当ですか」
「はい。ただ、一度にすぐには治せません」
「一度には……? 治癒術は、一度で大体治すか、あるいは治せないか、のどちらかになるのではないのですか?」
「ええ、普通はそう言われていますね」
スヴェンが言うには、おおよその治癒術師が使う治癒魔法は「そういうもの」なのだそうだ。たとえば、魔力が低い者が治せる病気や怪我は軽度のものだ。そして、魔力が高い者が治せる病気や怪我は、それなりに重度のもの。だが、それらは、必ず術を施したその一回ですべてが決まる。
重度の怪我に対して、魔力が低い者が治癒を行った場合、少しだけ治る。だが、たとえば何度かにわけて同じ患部に治癒を施せばそのうち治る……というものではない。治癒術を施した患部は、その術者の術が細胞に刻まれるのか、二度三度の重複を許さない。だが、他の治癒術師が治癒術を施せば、それは効く。勿論、患部の状態に応じて「どんなに回数を行ってもその魔力量では治らない」ことも発生するが。
「わたしの治癒術は特殊なようでして、ひと月ほど経過をすれば、患者の体内に記されたわたしの情報が消えるのです」
なるほど、だから、彼の回診はひと月後なのか、と思うミリア。
「体内に記された情報……それは、スヴェンさんがわたしに術を施した、という情報、という意味ですか」
「はい。ですから、繰り返し治癒を行うことが出来ます。そして、今のあなたの足の状態は、普通の医師や薬師が見ても治らないと言われるでしょうが、多分わたしの術ならばほぼ完治するんじゃないかと思うんですよね。とはいえ、回数が必要です。それから、治療をしている間はあまり激しく動かないこと。それを守れるのであれば、治癒を行いますが」
「わかりました……何回ぐらいかかるのかは、既にお分かりになりますか?」
「そうですね。多分、4回ほどだと思います」
「4回……」
それは結構な時間だ、と思う。4か月。それだけの期間このヤーナックに泊り続けなければいけないのか……ミリアは「ううん」とわずかに声をあげた。
「難しいでしょうかね? 残念ながら、わたしはこのサーレック辺境伯の領地を回るので手一杯なので、他の地方には足を延ばせないのですが……あなたはどこにお住まいですか?」
「普段は王城付近で暮らしております。でも、そうですね。わかりました。ひと月に一度ここにわたしも訪れましょう。いや……旅もあまりよろしくないですね。ううん、とにかく大丈夫です。治癒をお願いいたします」
「わかりました」
スヴェンに報酬について尋ねれば、大体妥当な金額を提示された。今現在持っている路銀で4回分は賄えるが、さて、この先どうしようかとミリアは頭を悩ませる。何にせよ、彼女はまずは1回目の術を施してもらい、その日を終えた。
「ヘルマに伝えて、それから町長に相談に行くか……」
思ったよりも、ヤーナックには長期の滞在になってしまう。そうだ。そこまで腰を据えるなら、レトレイド家にも早馬で手紙を出そう。それから……
(また、ヴィルマーさん達と会えるだろうか)
そんなことを思って、ハッとするミリア。一体今自分は何を考えていたんだろうか。いや、良い友人たちと再会を出来ることを喜ぶことぐらい、何もおかしくはない。そうだ。おかしくはないのだ……。
(長い滞在で困ると思う反面、わたしは浮かれてるな……)
冷静に自分の心を分析するミリア。勿論、それはヴィルマーたちと会えることに心が揺れているせいだが、そう思った途端に彼女はそのことを心の中で蓋をした。すぐに冷静になって、現実的なことへ思考を逸らす。長期で滞在するとなると、宿屋に泊まり続けるわけにもいかない。本当に町長に相談してどうにかなるんだろうか……と、心の中で唸りながら歩みを進めたのだった。
「家を、借りたい……ですか?」
翌日、町長を訪問してミリアは4か月ヤーナックに滞在をする旨を告げ、とはいえ、4か月宿屋に宿泊するのは路銀の無駄だと考えていると話した。もし、ヤーナックのどこかに空いている家があれば、そこを借りたいのだと告げると、町長は提案をした。
「ええっ? 警備隊、ですか?」
「ええ、これは前からどうにかしなければと考えていたことで……本当はヴィルマーさんにお力を借りたかったのですが、ここヤーナックに常駐をする者を手配出来ないのでもう少し待ってくれと言われておりました。しかし、あなた方は4か月もここに滞在するということなので、その間にこの町の警備隊を発足していただけないかと思いまして……あなたたちの腕を見込んでのことです」
「しかし、警備隊と言っても……」
「既に、そういう物を作ろうと言う話だけはあがっていて、名乗りをあげてくれている者もおります。しかし、実際そこには武器を持って戦ったことがない者がほとんどでして……その者たちを、少しでも使い物になるようにしていただくことは出来ませんか?」
ミリアは少し悩んだ。彼女は騎士団長になる以前から後輩の指導をしていたため、その経験を活かせるとは思う。だが、自分の足に負担をかけずに出来るだろうか……と、そこが気になった。
「もし、それを飲んでいただければ、家賃はいただきません。4か月、家を一つただでお貸ししましょう。正直なところ、最近野盗のみならず、魔獣の出現も多く、いささかこの町を守るのに懸念が多すぎてですね……」
本当に困っているようで、町長はため息をつく。彼が出した条件は、正直なところ良い。4か月の家賃がただになるのはとにかくありがたい。それに、確かに4か月という限定で、他の仕事に就くことも難しいとミリアは考えた。彼女は伯爵令嬢ではあったが、長い間騎士団に所属をして職務を果たしてきたため、労働に対する意欲はそれなりにある。それゆえ、悩みはしたものの、最後には町長の提案を受け入れる。
「わかりました。どこまで出来るかはわかりませんが、お力になりましょう」
「おお、ありがたい!」
「とはいえ、失敗をして、追い出されるときは即日ではないとありがたいです……」
こうして、ミリアとヘルマは町の一角にある小さな空き家を借りることが出来た。ありがたいことに、ベッドや調度品などは置きっぱなしになっており、厨房も使える状態だった。ベッドに布団類はなかったのでそれだけは購入しなければいけなかったが、家賃が無料であることを考えれば、その程度の出費はどうということもない。
ミリアはスヴェンがまたこの町に来た時に教えて欲しいと、宿屋のおかみにいくらか金を握らせて二週間滞在した宿屋から空き家に移動をした。ヘルマは「お嬢様! 調理器具もいくらか残っているようですよ! それに、共用の井戸も近くにあるし、良い家です!」と大喜びだった。彼女たちはどちらも調理をそれなりに出来るので、それは朗報だった。
「大きな鉄板があります。わあ、大きなふるいもある。これ、パンを焼けるんじゃないですかね」
驚くほど、厨房が充実している。そもそも、竈がある家はそう多くない。ヘルマはうきうきとあちらこちらの引き出しを開けてはものを取り出して、わぁわぁと嬉しそうだ。
「ああ、それは良いですね。ヘルマはパン焼きは得意でしょうか」
「あまり自信がありません。お嬢様は?」
「以前、遠征に行った先で土砂崩れがあり、団員数名だけが小さな集落に一週間世話になったことがあるの。そこで、教わって何度か焼きました」
「そうなんですね。よろしければ、教えてもらっても良いですか?」
それへ、ミリアは「勿論よ」と言い、まずは買い物をしなければいけないもののリストを書きだした。
「お嬢様は、本当になんでもお一人で出来るんですねぇ。もうちょっとわたしも頑張らないと、お嬢様についてきた意味がなくなってしまうわ!」
そうヘルマは言うが、ミリアは「そんなことはないわ。あなたはよくやってくれているもの」と小さく笑った。それは、彼女の本音だったし、それをヘルマも気づいていたようで「えへへ、ありがとうございます」と恥ずかしそうに笑い返すのだった。