30.完璧な両想い
ミリアはハルトムートを真顔で見つめながら
「笑って、歓迎していただければ、それだけで」
と言って、かすかに口端をあげる。それへ、ハルトムートが「うん」と言って笑みを漏らすのと、ノックの音が響くのが同時だった。開けなくても、声を聞かなくてもわかる。ヴィルマーだ。
「じゃあ、わたしはこれで」
そう言って腰を浮かせるハルトムート。ミリアがノックに「どうぞ」と答えれば、扉を開けたヴィルマーが出ようとするハルムートを見て驚く。
「失礼する……あれっ、兄貴」
「届け物をしただけだ」
そう言って、ハルトムートは軽く一礼をして出ていった。ミリアもそれへ一礼を返す。それ以上の言葉は双方ともに必要がなかった。
ぱたん、と扉が閉まる音。ヴィルマーはテーブルの上に置かれている刺繍が入ったハンカチを見て「母上からのものか」と尋ねた。
「はい。こちらをいただきました」
「うちの家族は気が早すぎるんだよな……」
「とはいえ、ハルトムート様の婚礼にご招待していただくかどうか、それを決めないといけない様子なので」
「あ」
ヴィルマーは声をあげて「そうか」と小さく呟いた。なるほど、彼もミリアと同じでそこまで考えが至っていなかったのか、と思う。
「そうか。今日、ここに来て会ったわけだし、折角だから君も招待したいという話かな」
そう言って、ヴィルマーは先ほどまでハルトムートが座っていたソファに腰をかけた。
「ええ」
「俺は君と結婚をしたいと思っている。どういう形になるかは、話し合って決めたいと思うのだが……素直に話すと、君と結婚をして、親父が言っていたようにサーレック辺境伯領地の一部を統治する手伝いを君にしてもらいたいと思っている。だが、君が手伝いたくないというなら、それでもかまわない」
「……」
「君がレトレイド伯爵領に長く戻りたいと言うなら、それも受け入れる。その、遠距離になるのは正直少し寂しいが、我慢もする。それでもいいから、君と……君に、俺の花嫁になって欲しい。いいだろうか」
そう言って、彼はテーブルの反対側からミリアの瞳をじっと見つめる。破格な相手だ、とミリアは思う。そこまでしてでも、自分がいいと言ってくれるなんて、と今さらながら心が満たされていく。
「わたしでよろしければ」
「そうか。ありがとう。とはいえ、婚約を交わすには、レトレイド伯爵に話をしにいかなければいけないな……」
「ええ。共に来いと、父には言われました」
なるほど、と頷くヴィルマー。
「ヴィルマーさん。あの……少し、自分の心を言葉にすると」
「ん?」
ミリアのその前置きに、ヴィルマーは目を丸くする。それを見ていささか恥ずかしい気持ちにもなるものの、伝えた方が良いだろうと彼女は心を決めた。
「先ほどハルトムート様とお話をして、昔婚約者を亡くしたという話をお伺いしました」
「そんなことを? 何故そんな話になったんだ」
そうヴィルマーは呟いて、それから「いや、何故も何もないか。俺がミリアを連れて来たからか」と苦笑いを見せる。
「何を言われたかはわからないが、兄貴が俺のことをあれこれ想像して君に言ったんだとしたら……それは、多分間違っていると思うぞ」
「そうかもしれませんし、そうではないかもしれません」
そう言って小さく微笑むミリア。
「ただ、わたしにとってはそれが本当かどうかは……さほど重要ではないのです」
「え?」
話がよくわからない、という表情のヴィルマー。ミリアは、そっと自分の胸元に手をやった。
不思議だ。騎士団長としての重責や、騎士としての責務、多くのものたちに立ち向かっていた時より、今の方が緊張をしているような気がする。
心を誰かに伝えることは、やはり難しい。己の心を素直に開示する。それはいつでもできれば避けたいと思っていた。だが、今はそれをしなければ、いや、しようと思う。
(何故、伝えたいと思うのか。それは)
ヴィルマーが好きだからだ。その簡単な答えを口にすることは、少しばかり憚られる。ずっとそうだった。だが、今ならば言えると思えた。
「あなたの過去は、知らなくてもよかった」
「うん?」
「あなたに婚約者がいらっしゃらなかった理由だとか、別にどうでもよかったはずなんです。いつものわたしならば。勿論、過去のことが今に大きな影響を及ぼしているならば、尋ねるかもしれませんが……」
ヴィルマーは眉を顰める。
「今、一緒にいることが一番大切で、今、あなたに婚約者がいるのかどうかの事実だけが大切で、そこに至るまでのことは聞かなくても良いと思っていました。人の過去を探ることは恥ずかしいことだと。でも、どうも、それは理性で思っていただけのようで」
「理性で」
「本当は、心の中で少しもやもやしていたのです。こんな、素敵な方に婚約者がいないわけがない。恋人がいないわけがない。けれど、いないと言っている……と。勘ぐる気持ちが生まれて、それは、恥ずべきことだと思いました。でも……」
ミリアはヴィルマーから目を逸らす。自分の心を口に出すことはいつでも彼女には難しい。けれど、伝えたいと決めた以上は、最後まで。そう自分を鼓舞して言葉を紡ぎだす。
「そんな風に思ってしまうほど、あなたのことが好きなようです。いえ、好き、です」
その言葉を口にして、ようやくミリアは理解をした。違う。心の中のもやもやしたものは、彼の過去に対してのことだけではない。
好きだと言葉に出来ない自分。彼から多くの優しい言葉をもらっておきながら、彼の過去が気になって心がざわめく自分。どうして自分は「いつもの自分」ではないのか。そんなわかりきったことに蓋をしていた自分。
当たり前だ。人は、誰かを好きになった時に、こんなに心が揺れるのだ。わかっていたようで、わかっていなかった。自分がこんな風になってしまうなんて……。
「それを、わからせられました。それだけで、わたしには十分だったのです」
そう言って口をつぐむ。しばらくの間ヴィルマーは何も言わなかった。もしかしたら、ミリアの言葉がまだ続くのでは、と思っていたのかもしれない。それに気づいて、ミリアは「終わりです」と言おうとした。が、その時、ヴィルマーは立ち上がって、ぐるりとテーブルを回ると彼女の隣にすとんと座る。
「たくさん、考えてくれたんだろう。ありがとう」
「えっ?」
「たくさん考えて、そして、伝えようとしてくれたんだろう。その……俺は、知っている。多分、君は胸の内を人に明かさない人だ。今まで、いつも笑顔で牽制をして、人に自分の心の中にあがらせないようにしていた。そういう人なのだと思う」
そう言われたのは初めてだ。だが、多分そうなのだろうとミリアは思う。そして、それを理解して退いてくれるヘルマやヴィルマーに甘えていたのだとも。
「だから、そんな君が俺にここまで胸の内を見せてくれることは、心底嬉しい。嬉しいし、可愛らしいと思う」
「かっ……」
「君は勘違いをやっぱりしている。君は可愛げがある女性だよ。だけど、それは俺の前だけでいい。そうしてくれないと……」
そこでヴィルマーは口ごもった。ミリアは軽く首を傾げ、彼の顔を見上げる。
「そうしてくれないと……いや、これは自分以外のすべての人間への嫉妬だな……ううん、俺は、君のことになると少しおかしくなってしまう」
ううん、と唸って「すまん」と言うヴィルマー。その様子がおかしかったので、ミリアは軽く微笑みを見せた。
「奇遇ですね。わたしも、どうも少しおかしくなってしまうんですよ。あなたのことを考えると」
「それは、あれだ」
「?」
「完璧な両想いってことだ。そうだろう」
雑な結論だ、と思う。だが、確かにそんな結論しかない。他に何も自分たちにはありやしないのだ。ミリアはおかしくなって「ふふ」と笑う。
「そうですね。完璧な両想いというやつです」
「いいことだ。うん。とてもいい」
語彙がいささかなくなったようなヴィルマーの褒め方がおかしくて、更にミリアは声を出して笑った。それへ、彼は「真面目な話だぞ」と、少しばかり拗ねたように言う。
「時間はかかるが、帰りは馬車で帰ろう」
「どうしてですか?」
「少しでも早く、君の足が治るようにだ」
「そこまでは……」
「少しでも早く君の足を治して、少しでも早くレトレイド伯爵領に行って婚約の許可をとりたいんだ。な。いいだろ」
そう言われれば、確かに彼が正しい気がする。実際、乗馬も長くしていれば、足に負担をかけてしまう。気を使って休憩を多くとりながらここまで来たが、多少気にはなっていた。
「では、お言葉に甘えて」
「うん。もっと、甘えてくれてもいい。いくらでも、何度でも」
「……あなたにだけ、ですよ」
ヴィルマーは手を伸ばして、ミリアの片頬に触れた。そして、自然にミリアに優しいキスをする。もう何度も数えきれないほどしているような、そんな錯覚を抱くミリア。まるで彼とキスをするのが当たり前のようだと教え込まれたように、素直にその唇を受け入れられる。
(なのに、毎回気持ちよくて、どこか穏やかで、でもどこかはそわそわとして……)
やがて、離れていく彼の唇を追って軽く下唇をついばめば、ヴィルマーは笑って「そうやって、君からキスだけでも追いかけてもらえるのが、好きだ」と言って、もう一度唇を重ねた。
そうだ。自分は彼には貪欲になる。欲しいと思っている。それをうまく言葉に、うまく態度に出せないから、こうやって与えられた時にもっと欲しいとねだってしまう。
(なんて、幸せなことなんだろうか)
そして、ねだれば必ずヴィルマーは与えてくれる。その甘やかしに自分は慣れてしまった……ミリアは心がじんわりと熱くなっていくことに気付き、それを十分に味わった。




