希望の旋律
あなたは夢を持っていますか?
誰もが一度は心に夢を思い描いたでしょう。
それは社会的な名声を得ることであったり、
世界的な発明をするような、とても大きな夢だったのかもしれません。
もしかしたら、そんな大きな夢ではなく、もっとささやかな夢だったのかも知れません。
ならば、もう一度――あなたに問います。
あなたは夢を持っていますか?
昼の熱気が夜になっても余韻を残して街を包み込む。夏本番の今、まだ六時を少し回ったぐらいなので空も明るく、道行く人々もあまりの蒸し暑さに、げんなりとした表情を浮かべている。
そんな街中に弓阪茉美は、周りとおなじように蒸し暑さにヘキヘキとした表情を浮かべて歩いていた。
「ほんとに暑いなぁ・・・・・・」
言葉にしたところで、暑さがどうにかなるわけでもなく、茉美は夏物の手提げカバンからハンドタオルを取り出して、額に浮かんだ汗を拭う。
金曜の夜――街行く人々は、それぞれの目的に向かって歩いてゆく。家路を急ぐサラリーマンたち。学生風の少女たちは数人で群れをなすように歩き、どこかへ遊びにでも行くのか楽しそうにはしゃいでいる。また、カップルたちはパートナーとの週末を心待ちにしていたように夜の街へと足早に歩いてゆく。
「あ~あ・・・・・・週末なのに何で私は一人なのかなぁ・・・・・・」
そんな人々の群れを見ながら、茉美は小さくため息を吐く。
茉美は今年の春に高校を卒業して、中小企業に勤めだした新人OLだった。入社してから5ヶ月――仕事は忙しく、毎日が時間に終われるような日が続き、気がつけば夏も中盤を迎えようとしていた。
「ほんとなら・・・・・・今ごろアッちゃんと、夕御飯を食べてるはずだったんだけどなぁ・・・・・・」
人の群れから少し離れた場所で立ち止まると、茉美はぼやくように呟いた。
本当なら、今日は同期で入社した小早川歩美と軽くウインドショッピングをした後で、ファミレスで夕御飯を食べる約束をしていたのだが、歩美に彼氏から突然電話がかかり、今日の予定がなし崩し的に流れてしまったのだ。
「まあ、仕方ないか」
良い意味でも、悪い意味でも茉美は気分の切り替えが早く、仕方ないものは仕方ないと割り切ると、人波に流されるように繁華街へ歩みだす。せっかくの週末なのだから、このまま家に帰るのはもったいないので、一人でウインドショッピングでもして行こうと思ったのだ。
繁華街は光りに溢れている。色とりどりの照明が瞬き、ガラス張りのショウウインドウの向こうには、澄ましたマネキンたちがブランド物の衣服を身に着けて、その姿を誇示している。
そんな繁華街の中を、どれぐらい歩いただろうか。ふと気づくと茉美は繁華街の外れまで来ていた。
「あれぇ・・・・・・」
自分的にはこんな場所に来るつもりはなかったのだが、なにぶん働き始めてからくるようになった場所なので、どうやら曲がる路地を間違ったらしい。
だが、迷子になったというわけでもなく、ビルとビルとの合間から駅ビルが見えているので、そちらに向かって歩いていけば帰るには困りはしない。
「もう、八時か・・・・・・」
腕時計に目を落とすと、茉美は独り言のように呟く、それほど時間が経ったような気はしなかったが、一時間以上も繁華街の中を歩いていたようだ。家までの道のりを考えると、そろそろ帰らなくてはならない。ただでさえ、最近帰りが遅く両親に心配をかけているのだ。
そう考えると、茉美は「よし」と誰に言うでなく言葉を発してから、駅ビルを目指して歩き出す。繁華街を通っても良いのだが、路地裏を抜けていったほうが早く思えて、茉美はビルの谷間に見える駅ビルのほうへ、ズンズンと歩いてゆく。
と、そのとき路地裏には場違いな建物が目に入った。
背の高いビルにはさまれるように建ったレンガ塀のこじんまりとした建物。古めかしい木枠の扉に、小さなショウウインドウ。
「何の店だろう・・・・・・」
生来の好奇心から茉美は足を止めると、ショウウインドウを覗き込む。
ショウウインドウの中に並べられているのは古めかしそうなアクセサリーだった。そしてその横には、これまた古そうな板に『Ο ξένος』と書かれた看板らしき物。
「アンティークショップ・・・・・・かな」
並べられた品揃えから何の店かを察すると茉美が呟く。
もともと茉美はアンティークと呼ばれる物が好きだった。友達同士でいると、そういった店に入る機会もなく、いつかはそういった店にゆっくりと行きたいなぁ、と思っていたのだ。
「う~ん・・・・・・あんまり長居しなかったらいいか」
さいわいいショウウインドウには照明が照らされているので、まだ閉店していないのだろう。そう思うと、茉美は古めかしい木枠の扉を押し開いて店内へと身を滑らせた。
店内に足を踏み入れた瞬間――茉美は自分がひどく場違いな場所に来てしまったのではないかと感じた。
ゆったりと流れる聞いたことのあるようなクラッシック音楽。落ち着いた控えめの照明。そして絶妙な配置でセッティングされたアンティークの家具や絵画。そこは、まるで中学生のころに学校の行事で訪れた美術館のような雰囲気だった。
場違いなところに来てしまったという自覚はあるものの、このまますぐに店を出るのも何となく気恥ずかしく、茉美は意味もなく店内を見渡した。
店内はそれほど広くない。八畳ほどのひろさだろうか。アンティークな品物たちは、ジャンルごとに区分けされれているものの、それぞれが絶妙にお互いを良い意味で強調し合っている。
「高いんだろうな・・・・・・」
品物には値札がついておらず、おそらく何十、もしかしたら何百万もするかもしれない品物に圧倒されながら、茉美は奥へと足を進める。丁度、店の奥にガラスのショウウインドウが配置されている場所で、ふと立ち止まる。
ショウウインドウの中には、ペンダントやネックレス、指輪などが綺麗に配置され、それぞれ英語のような文字が書かれた小さな木の板が寄り添うように並べられている。
「綺麗だなぁ・・・・・・」
並べられたアクセサリーの美しさに茉美がつぶやく。真新しいもにはない、時代という香で彩られたアクセサリーたちはより一層輝いて見えた。
と、アクセサリーを見ていた茉美の目が一点で留まる。貴金属の中に、ぽつんとたたずむ木箱が目に入ったのだ。それほど大きくない。片手に乗るほどの大きさだが、表面には美しい飾り彫りが施されている。アクセサリーとは違い、その小箱のまわりには文字が書かれた木の板もない。
「そのオルゴールがお気に召しましたか?」
と、不意をつくように低いが聞き取りやすい青年の声が、茉美の耳朶をうつ。
「えっ・・・・・・」
茉美は驚いたふうに声がしたほうへ目を向ける。
そこにいたのは、セピア色のワイシャツに黒のスラックスをラフに着こなした二十代半ばの青年だった。
顔立ちは細面で整った鼻梁に薄い唇。縁なしのメガネの奥には優しい笑みをたたえた茶褐色の瞳。まるでメンズ雑誌から飛び出てきたような面持ちの青年だ。
「このオルゴールは大変珍しい物なんですよ」
青年は、茉美の驚いたような様子を気にせず、ショウウインドウを開けると中から木箱を取り出す。
「そう・・・・・・なんですか・・・・・・」
青年の整った顔に目を奪われながら茉美は上の空で答えた。
「ええ。お客様はギリシャ神話を知っていますか?」
青年は優しく微笑みと、一度オルゴールに目を向けてから、茉美に目を向けた。
「少しは・・・・・・でも、そんなに詳しくは知りません」
突然、ギリシャ神話と聞かれて茉美は驚いたが素直に答えた。
「そうですか。このオルゴールは【パンドラの箱】と呼ばれていましてね。お客様はパンドラの物語をご存知ですか?」
「いいえ。知りません」
「パンドラというのは、ギリシャ神話にでてくる女性の名前です。パンドラはもっとも神々に愛された女性として、愛と美の女神アフロディーテからは美貌を、平和と戦いの女神アテナからは知恵を、光り輝く神アポロンからは類い稀なる話術を、そして様々な神々から身にあまる恩寵を受けました」
そこまで話すと青年は手の上の木箱に目を落とす。
「恵まれた女性なんですね」
茉美が素直にそういうと、青年は優しい笑みを浮かべて、小箱から茉美に目を戻す。
「そうですね。パンドラは恵まれた女性でした。ですが、様々な恩寵を与えた神々の中にあってプロメテウスだけが、彼女に小さな小箱を与えました。そして『どんなことがあってもこの小箱を開けてならない』と言ったのです」
「開けてはならない・・・・・・?」
もし自分がそんな立場になったとしたらどうするだろうかな、と考えながら茉美が言う。
「そう――開けてはならない小箱。それを与えられたパンドラは、様々な恩寵を与えてくれた神々の言葉として、それを守ることをプロメテウスに誓ったのです」
そこまで言うと、青年はちょっと困ったような、何とも言えない淡い笑みを浮かべた。
「それでどうなったんですか?」
すんなりと話が終わるわけがないと思い、茉美は先を促すように問いかける。
「パンドラは確かにプロメテウスの言葉を守り、その小箱を家の中で、もっとも見つかりにくい場所に隠しました。何年も・・・・・・何年もね。そして、そんな小箱のことさえも忘れてしまっていたある日――ふとした運命の悪戯か、その小箱がパンドラの目の前に出てきてしまったのです」
「それで、小箱を開けてしまった?」
やっぱりという思いを胸に、茉美が言う。
「そのとおりです。プロメテウスに、あれほど開けてはならないと言われていたのに、魔がさしたのか、それとも好奇心に負けてしまったのか。それは分かりません。ですが、パンドラは、その小箱を開けてしまったのです。そして――その瞬間、開け放たれた小箱の中から・・・・・・」
そこまで言うと青年は言葉を切り、茉美の瞳を見つめる。
「何が出たと思いますか?」
そして問いかける。
「えっ・・・・・・わかりません」
茉美は少し考え込んだが、すぐに諦めたように首を振り答えた。
「小箱の中からでたのは『妬み』『恨み』『嫉み』『憎しみ』といった負の感情。『飢餓』『災害』『病』といった人にふりかかる脅威。そして人がもっとも恐れる――『死』。そう――プロメテウスがパンドラに与えた小箱には、それまで神々が自ら似せて作った人間が味わったことのない闇の領域が詰め込まれていたのです」
青年は静かな口調で言うと手の中の木箱を、そっと撫でた。
「どうして、プロメテウスはパンドラに、そんな危険な小箱を与えたんですか?」
茉美にはプロメテウスの行動が理解できなかった。自分以外の神々はパンドラに、様々な恩寵を与えたのに、なぜプロメテウスはパンドラにそんな危険な物を与えたのだろうか。
「さあ、どうしてでしょうね。でも、私はプロメテウスが人を信じたかったんじゃないかな、と思いますよ」
「信じたかった?」
「そうです。人は神々の恩寵などなくても、自らの力で生きていけるのだと信じたかったんだと思いますよ」
「よく・・・・・・わかりません」
茉美は本当に意味が分からないといったふうに首を振った。信じたかったからこそ、人間にとって危険な物を与えるという行為が理解できなかった。
「パンドラが開け放った小箱からは、一つ、また一つと災厄が飛び出し、それは瞬く間に世界へと広がりました。自らが犯してしまった罪を嘆き悲しんだパンドラは、冥府の最深部にあるという無限回廊に身を投じたといいます」
そこまで言うと、青年は茉美の手を取り、その手のひらに小箱をそっと置く。
「えっ?」
茉美は手のひらに乗せられた小箱と青年の顔を見比べる。
「この小箱は【パンドラの箱】を模して作られた物・・・・・・開けてみますか?」
青年は不可思議な笑みを浮かべるとそう言う。
「あたしが・・・・・・開ける・・・・・・?」
ひどく驚いたような顔で茉美が呟く。災厄が詰まっていた箱を模して作られた箱を自分が開く? そんなことをしていいのだろうかと思った。
「貴女は本当に素直な人なんですね。いま、災厄が詰まっていた箱を自分が開いていいのかな、と思ったでしょう?」
青年目元に優しげな笑みを浮かべて、茉美を見つめる。
「え、いや・・・・・・その・・・・・・」
青年の口調と表情から、別に自分が馬鹿にされているわけではないと感じたのだか、それはそれでどういった意味でとればいいのか分からず、茉美はしどろもどろに意味もなくつぶやく。
「大丈夫ですよ。その小箱には災厄は入っていません。その小箱に入っているのは、【パンドラの箱】から最後に飛び出たもの」
「最後に飛び出たもの・・・・・・?」
それが何なのか茉美には分からなかった。
ありとあらゆる災厄の中から最後に出たもの。それはいったい・・・・・・。
「これは本来売り物ではないのですが、貴女が気に入ったのならお貸ししますよ」
青年はそう言うと魅惑的に笑った。そう――それは人を引き付けて離さない笑みだ。
「で、でも大事なものなんでしょう?」
確かにその小箱が気になったのは事実だ。だが、話を聞くと価値がある大事な物のようだ。そんな物を借りてよいのだろうかと思えた。
「アンティークというのは、必要としていてくれる人の元にあったほうが幸せなんですよ。今の貴女はこの【パンドラの箱】を必要としている。そして、この【パンドラの箱】も貴女の元へ行きたがっている。だから、お貸しするんです」
「でも・・・・・・」
それでも躊躇するかのように茉美は口ごもった。
「わかりました。こうしましょう。ただでお貸しするのはやめます。この【パンドラの箱】をレンタルという形でお貸しします。レンタル料は千円。それならいいでしょう?」
「えっ・・・・・・ええ・・・・・・それなら・・・・・・」
半ば青年に押し切られるような形で茉美は頷いてしまった。
それを見て青年は満足げに頷いて見せた。
茉美は一度、青年に小箱を返すと財布から千円札を取り出して青年に手渡す。
「ああ、そうだ。この小箱をお貸しするうえで一つだけ言っておくことがあります。もし貴女が【パンドラの箱】を必要としなくなったら、その時は貴女の知らないうちに消えるかも知れませんが驚いたりしないでくださいね」
青年は小さな紙袋に入れた小箱を茉美に手渡しながら思い出したように言う。
「知らないうちに消える・・・・・・?」
青年の言葉の意味が分からず、茉美はキョトンとした表情を浮かべた。
「その時がくればわかりますよ」
青年はそういうと優しげに微笑んで見せた。
「はあ・・・・・・」
その時がどんな時なのかはわからなかったが、茉美は手渡された紙袋を手提げカバンにしまうと、「それじゃあ」という言葉を残して、その店を後にした。
茉美が家に帰ると、もう九時を過ぎていた。母親に何か言われるかな、と思ったがちょっと不機嫌そうなそれでいて心配していたような顔されただけで何も言われなかった。茉美はこれ幸いと夕食を手早くすませるとシャワーを浴びて、そくさと自分の部屋へと引きこもった。
「ふう・・・・・・」
ベッドの縁に座ると、茉美は濡れたセミロングの髪をタオルで拭きながらため息をつく。本当ならドライヤーで一気に乾かしてしまいたいところなのだが、最近髪の毛が痛んできているので時間があるときはなるべく自然乾燥にまかせるようにしているのだ。
「やっぱり早く帰らなきゃいけないよね・・・・・・」
母親の顔を思い出しつぶやく。働き始めたころは、少しでも帰るのが遅くなると、あれこれと理由を聞いてきたのだが、最近ではあまり口に出しては言ってこないが、今日のように心配そうな顔をされてしまう。
「でもなぁ・・・・・・」
そう思う反面で、もっともっと遊びたいという気持ちも強く、どうしても遊びを優先してしまう自分がいるのも事実だった。
「う~ん。どうしたらいいんだろう・・・・・・」
髪の毛もだいぶん乾いたので拭く手を止めて、しばしの間考え込む。だが、名案が浮かぶわけもなく、茉美は軽く肩をすくめると、ベッドから立ち上がり、ガラステーブルの前に座り込む。テーブルの上には電化製品のリモコンと最近買い求めたアロマテラピーのセットが置いてある。
「気分転換でもしよう」
アロマテラピーのセットに手を伸ばすと、茉美は手際よく準備に取り掛かる。もともとは知り合いが持っていたのを見て、なんとなく買い求めたのだが、使ってみると意外と気分転換になることに気づいて、それから結構はまっているのだ。
「よし」
全ての準備が整うとローソクに火を灯す。しばらくの間、ローソクの炎を見つめていたが、やがて部屋の中にほのかに甘い香りが漂いだすと、ベッドにもたれかかるようにして全身の力を抜く。アロマテラピーに詳しい友人は、それぞれの香りには色々な効用があるといっていたが、茉美はあまりそういったことを気にせず、自分が気に入ったエッセンシャルオイルを使うようにしている。
こうしてアロマテラピーの香りを楽しみながら、ぼんやりとすることが日課になってきているのだが、こうしていると今日あったことが頭の中に浮かんできて、一日が終わっていくのだと感じられてほっとするのだ。特に働くようになってから色々と考えることが多く、一日の出来事を整理するのに丁度良かった。
いつものにように職場であったことをぼんやりと思い出していると、ふとあの不思議な雰囲気の店でレンタルした【パンドラの箱】のことが頭によぎる。
「【パンドラの箱】・・・・・・か」
一度頭の中に、そのことが浮かんでしまうと、茉美はどうしてもそれが気になってしまい、ベッドサイドに置いてあったカバンの中から【パンドラの箱】を取り出す。
「災厄が詰まっていた箱・・・・・・か」
青年の言葉を思い出しながら、茉美は手の中の【パンドラの箱】に目を落とす。
小箱全体にきめ細やかな彫り物が施され、華美ではないが適度に宝石などがあしらわれている。とても災厄が詰まっていた箱を模して作られたような雰囲気はない。
「・・・・・・」
手の中の【パンドラの箱】を見つめながら、どうして自分はこの小箱が気になったのだろうと、茉美は思った。ガラスのショーウインドウの中で貴金属にまぎれてひっそりと置いてあった箱。それがどうして・・・・・・。
あの青年は、茉美にこの箱が必要だと言っていた。だからお貸しするのだ、と。なぜ自分にこの箱が必要なのだろうか。それ以前にあの青年は、どうして茉美がこの箱を気になったのかわかったのだろうか。
「あっ、そういえば名前聞くの忘れてなぁ・・・・・・」
青年のことを考えていると、茉巳は遅まきながら、あの不思議な青年の名前すら聞いていなかったことに気づいた。
「まあ、今度行ったときにでも聞けばいいか」
そう考えると茉美は小箱をテーブルの上に置く。
「災厄の後からでてきたもの・・・・・・か」
青年の思わせぶりな言葉を思い出し、茉美はふと考えた。
災厄――人にとって逃れようのないものたちが出てきてしまった箱から、最後に何が出てきたのだろうか。
「なんだろう・・・・・・」
ぼんやりと考えながら【パンドラの箱】を見つめる。
『貴女にとって必要なもの』
と、自分以外に誰もいないはずの部屋の中に異質な声が響く。
「だれ!?」
ぼんやりとしていた茉美の意識が一瞬で覚醒する。そして驚いたように声がしたほうへ目を向ける。
そこに女がいた。まるで血管すら透けて見えてしまうのではと思えるほど病的に白い肌。細面で繊細だが、どこか憂いを秘めたような顔立ち。病的に白い肌と対をなすような漆黒色の髪の毛は腰まで伸び、身に着けている服はまるで喪服のように黒く、身体にフィットしたワンピース。
その女は先ほどまでの茉美のようにベッドの縁に軽く腰を掛けて、どこか悲しみのようなものを浮かべた黒曜石に似た瞳を茉美に向けて佇んでいた。
「誰なの?」
突然現れたはずの女に、茉美は不思議と恐怖心はわかなかった。
『悩んでいるのね』
女は茉美の言葉に答えず、つぶやくように静かに声を発する。
「悩み・・・・・・?」
女の言葉に茉美がつぶやく。
『そう・・・・・・私にはあなたの悩みがわかる。そしてそれは私の罪・・・・・・』
「わたしの悩みが・・・・・・あなたの罪・・・・・・?」
茉美には何がなんだが良くわからなかった。なぜ自分の悩みが、目の前にいる女の罪なのだろうか。
『そう――貴女の悩みは私の罪。だから、私はあなたの前に現れた。それが私の贖罪だから』
女はそう言うと茉美の顔をじっと見つめる。
「贖罪・・・・・・?」
『さあ、見つめて私の瞳を――そしてもうひとりの自分と話して・・・・・・』
女の漆黒色の瞳が淡く黄金色に光りだす。
「えっ、なんなの・・・・・・」
女の瞳を見つめた瞬間――茉美はまるで身体が痺れてゆくような感覚にとらわれる。
『貴女なら、必ず答えを探せるわ』
女の声を聞きながら、茉美は意識が遠のいていくのを感じた。それはまるで眠りに落ちるときのような安堵感と一抹の寂しさに包まれるような不思議な感覚だった。
何もなかった。
暗闇が全てを支配する世界。
何処までも続く暗闇の静寂の中に茉美は存在していた。
「ここは・・・・・・どこ・・・・・・?」
茉美がつぶやく。自分がいる場所が理解できなかった。ほんの一瞬前まで自分は確かに自室にいたのだ。
そして、あの不思議な女の瞳を見た瞬間――意識が遠のいて気づけばこの暗闇の中にいた。
『あなたは何がしたいの?』
声がした。
それはとても聞き慣れた声だった。
どこにいても聞こえる声。
自分が存在している限り聞こえてくる声。
「わたしの・・・・・・声・・・・・・?」
唐突に茉美は思った。
その瞬間――目の前に自分自身が現れた。
いや、それは鏡に映る自分だった。全てが左右対称のもう一つの世界の自分自身。
『あなたは何がしたいの? 何をするの?』
鏡の中の『茉美』が問いかけてくる。
「何がしたい・・・・・・? わたしは・・・・・・」
茉美は呆然とつぶやいた。
『そう――あなたは悩んでいる。だからワタシと会話をするために、この世界へきた。ここはあなたの心の中。ワタシは、あなたの影。抑圧され葛藤の中で生まれたもう一人のあなた自身』
鏡の中の『茉美』は無表情に言葉をつむいだ。
「もう一人のわたし・・・・・・」
茉美の中で何かがドクンと疼く。心の奥底で何かが目覚めるように。
『さあ――あなたが心に秘めていることを見せてあげる。そして悩み、考えて・・・・・・自分が進むべき道を探すために』
鏡の中から『茉美』の腕が抜け出し、そして茉美の額にソッと触れる。
「なっ、何なの・・・・・・これ・・・・・・?」
茉美の脳裏に様々な映像が映し出される。
職場で仕事に励む自分の姿。
友達と遊んでいる姿。
誰かに恋をしている姿。
家族との憩いの時を過ごす姿。
何気なく過ぎてゆく日々。時には笑い、時には悲しみ、時には怒り、流れるように過ぎてゆく日々。
「これがわたしの・・・・・・悩み・・・・・・」
茉美は漠然とそう思った。
それは厳密に言えば悩みではないのかもしれない。
不安――なのかもしれない。
毎日繰り返されてゆく日々。今日と同じ明日がやってきて、またそれが続いてゆく。
その中で自分は何のために存在しているのだろうか。何をしたいと考えているのだろうかと、ふと不安になってしまう。それが茉美の心の奥底にあった悩み――不安だった。
いつも心のどこかで何かをしたいと思っていた。でも何をしたいのか、それが自分自身でも分からない。誰にも相談できない。いや、相談してもしかたのないことだった。何かを決めるのは自分自身。ほかの誰でもないのだ。誰かが言ってくれた言葉は助言であって、答えではない。
『このままの生活を続けるのも、あなたの人生。あなたが選んでゆく人生』
鏡の中の茉美が言う。
「このままの生活があたしの人生・・・・・・」
茉美の口からつぶやきがこぼれる。
そんな人生もいいかな、と茉美は思った。何も考えずに今を生きてゆければ、それほど楽なことはない。
ただ、それは前へと進むのではなく、その場で立ち止まることではないのだろうか。そういった人生が悪いとは思わない。世の中の大半の人達は、そういった人生を送っているのだ。大なり小なりの悩み――不安を抱きつつ・・・・・・・
「でも・・・・・・」
茉美の心の中で何かが囁く。
悩み――不安を抱きながら生きていていいのだろうか。その不安を越えた先には、もっと違う自分自身がそこにいるのではないだろうか。
『あなたは何がしたいの?』
鏡の中の茉美が問いかけてくる。
その問いかけの答えこそが、茉美が求めるものだった。自分が何をしたいのか、それを考えなくてはならない。
「わたしは・・・・・・」
茉美の意識が深く沈んでゆく。
意識の奥底で眠る何かを探すために・・・・・・。
様々な自分が浮かび上がってくる。
今の生活を続ける自分。
職場で元気に働く自分。
恋をして愛を知り笑顔に溢れる自分。
家族と共に穏やかな休日を過ごす自分。
無数の茉美が、それぞれの場面にいた。だが、そこにいる茉美は、現実の茉美と違っていた。今の自分にはない何かを得たような、そう――自信に満ちているような姿。
『不安の中で迷い悩むのが人生。でも、その不安の中から自分にとって大切なものを探し出せたとき、人は全てを受け入れられるわ』
鏡の中の茉美は静かな目で茉美を見つめる。
『あなたは何をするの?』
「わたしは・・・・・・わたしは・・・・・・」
何かが茉美の中で形作られる。
それは幾度となく考えては消えてしまっていたもの。
そう――自分は夢を探していたのだ。
自分の全てをかけてでもやりたい夢を探していたのだ。
誰かに「君の夢は?」と聞かれるたびに、茉美にはそれに答えるものがなかった。周りの人たちは夢を持ち、あるときにはそれを茉美に目を輝かせて話してくれる。そんな話を聞くたびに、自分にもそんな夢があればいいな、と思っていた。だが、そう思えば思うほど茉美は自分ひとりだけが、なにか取り残されているような気になっていた。
『あなたの悩みはワタシの悩み。あなたは何が悩みなのかが分かったみたいね。なら、何をするべきかが分かったはず』
鏡の中の『茉美』が言う。それは問いかけでもなく、また確認でもなかった。
なぜなら鏡の中の『茉美』も、今という現在を生きる茉美と同一の存在なのだ。
「ええ」
茉美ははっきりとした声で応えた。
自分にしかない夢を見つけること。それが茉美がしなければならないこと。他人の夢を聞いて、そんな夢をもてればいいと思うのではない。自分自身が他人に自慢できる夢を探し出すのだ。
もしかしたら、その夢を達成することはできないかもしれない。その夢の半ばで挫折するかもしれない。でも、たった一度の人生なのだ。その人生の中で夢を持てずに、無為に日々を過ごすより、自分にしかできないなにかを探しながら生きていくほうが良かった。それがたとえ、泣きながら、道に迷いながら進んでいかなければならないとしても・・・・・・。
と、目の前の鏡にヒビが走る。
『あなたはワタシ。ワタシはあなた。一つの道を歩く二人の自分。あなたの進むべき道がワタシの道。ワタシの進むべき道があなたの道。ワタシはあなたの中にいるわ』
鏡はチリのように砕け散り、茉美の身体を包み込むように舞い降りる。
『貴女は悩みの中から答えを探しだしたのね』
茉美の耳に、あの女の声が響く。それと同時に目の前に黒いワンピースを着た女が姿を現す。
闇の中にあって、女の姿はあまりにも美しく、そして儚く見えた。存在しているが、それは紙一重の危うさのうえにあるような。
「うん」
茉美は自分でも驚くほどはっきりと答えられた。
今までの自分なら、こんなにはっきりと答えられなかっただろう。なぜなら、今までの自分には自信がなかった。だが、今は違う。自分が何をしたいのかが分かったのだ。
『そう――それなら、貴女にはこの箱を開ける資格があるわ』
そういって、女はあの箱を取り出すと茉美に差し出す。
「この箱をわたしが開ける・・・・・・?」
茉美は少し驚いたように、女の顔と箱を見比べた。
様々な災厄が封じ込められていた箱を模した【パンドラの箱】。それを開ける資格が、なぜ自分にあるのかが分からなかった。
『この箱には災厄の中から最後に出てきたものが入っているわ。そして、それは今の貴女にもっとも相応しいもの』
女はとても優しく笑って見せた。それは茉美の想いを祝福しているかのようだった。
「わたしに相応しいもの・・・・・・」
茉美は女の手から箱を受け取り、自分の手のひらに乗せると、じっとそれを見つめた。
『さあ、その箱を開けて。貴女のために・・・・・・そして貴女が許してくれるのなら、私のためにも・・・・・・』
女はそう言うと茉美の顔を見つめた。
「わたしとあなたのため・・・・・・」
茉美は箱のフタにそっと手を添えた。
心臓の鼓動が早くなる。飛び散った災厄の中から最後に出てきたもの。それが今――目覚めようとしているのだ。
『――さあ・・・・・・』
「開けるわ」
茉美はそう言うと、ほんの少しフタをずらし、そして――思い切ってフタを開いた。
その瞬間――
今までに茉美が聴いたこともないような妙なる調べが箱の中から流れ出す。
「この音色は・・・・・・」
茉美は呆然とつぶやいた。
箱の中から流れ出す調べは不思議なことに、聴いたことがないはずなのに、どこかで聴いたことがあるような、そんな懐かしさに満ちた調べだった。
それはとても昔――まだ自分が自分であると認識できなかった頃の記憶の残滓に残る音色。
『ああ・・・・・・これこそが、私が探し続けなければならないかけらたち・・・・・・』
女は茉美の手から箱を取ると、そっと己の胸に押し当てる。その頬に一筋の涙が流れる。
「あなたはいったい・・・・・・?」
箱を胸に押し当てて涙する女に茉美は問いかけた。
『私はパンドラ――永劫の闇の中で己の犯した罪を償うもの』
女――パンドラはそう答えると儚げに微笑み、箱から流れ出す音色に合わせるように澄んだ声で歌を紡ぎだす。
――そっと見つめて 闇の中で
どこかでなくした 大切なかけら
胸の中に広がる 夢幻の想い
昨日の自分に 黄昏をかさねて
明日の自分に 未来をかさねて
連なりあう 夜明けの向こうに
貴女の信じるものが 必ずあるから
心の翼で どこまでも飛んでゆこう
私が私でいるために あなたがあなたでいるために
だから見つめて 闇の中で
遠くに見える あの灯火めざして
求める道を 見失わないように――
パンドラの歌声に包まれながら、茉美は自分の意識が遠のいていくのを感じていた。
それは眠りに落ちるときのような安堵感と希望に満ちたものだった。
「うっ・・・・・・う~ん・・・・・・」
目にかかる眩しさに茉美の口から小さなうめきがもれる。
「ふぁわ・・・・・・」
眩しさに耐え切れなくなったのか、茉美は大きく欠伸をすると瞳を開く。
焦点の合わない視界にカーテンの隙間から入り込む太陽の光がはいる。
「あれ・・・・・・もう朝なの・・・・・・」
ぼんやりとした意識で辺りを見渡す。目の前にテーブルがある。どうやら昨日はベッドに入らず、テーブルに寄りかかるようにして眠りついてしまったらしい。
「何でこんなところで寝ちゃったんだろう・・・・・・」
茉美は昨日の夜のことを思い出そうとするかのように小首をかしげる。
「昨日は確か・・・・・・アロマテラピーをしてて・・・・・・それから・・・・・・」
そこまで考えた瞬間――茉美は辺りを勢いよく見渡す。だが、誰かがいるわけもなく部屋の中は静まり返っている。
「あの女の人は・・・・・・?」
昨日の夜、突然目の前に姿を現した女――パンドラの姿はなかった。
「あれは夢・・・・・・だった?」
パンドラとの対話。
鏡の中の自分との対話。
それらは夢だったというのだろうか。
現実的に考えればそうとしか考えられなかった。だが、そう思うにはあまりにも生々しい体験だったように思える。
「あっ・・・・・・!?」
茉美は驚いたように声を上げた。
無かった。
昨日の晩まで確かにテーブルの上に置いてあったはずの【パンドラの箱】が無くなっていたのだ。
「どうして・・・・・・?」
もう一度部屋の中を見渡してから、【パンドラの箱】が置いてあったはずのテーブルの上を凝視する。だが、そこには何も無い。まるで初めから、存在していなかったように【パンドラの箱】は消えていた。
「――もし貴女が【パンドラの箱】を必要としなくなったら、その時は貴女の知らないうちに消えるかも知れませんが驚いたりしないでくださいね――」
不意にあの青年の言葉が茉美の脳裏に蘇る。
あの青年は茉美が【パンドラの箱】を必要としなくなったら、知らないうちに消えてしまうと言っていたのだ。
「あたしが必要としなくなったから、あの箱は返った・・・・・・」
現実的に考えれば納得できるようなことではなかったが、茉美はそれを気にしなかった。何が自分にとって大切なのかが、茉美にはわかっていた。
すくなくとも、それはあの【パンドラの箱】ではなく、これから探してゆく自分自身の夢なのだから・・・・・・。
「――今回は早かったね」
静かな店内に青年の声が響く。
その手の中には、【パンドラの箱】を模して造られたという箱があった。
「あなたがメロディを奏でなくなる日はいつくるんだろうね」
青年はゆっくりと箱のフタを開く。
静かなメロディが流れ出す。
それは茉美が聞いたものと同じものだった。
「――そうか・・・・・・そうだね。あなたがメロディを奏でなくなる日は遠く久遠の時の果て・・・・・・か」
青年はまるで誰かに問いかけるように口を開く。
しばらくの間、青年は箱の中から流れ出てくるメロディに耳を傾けていたが、やがて箱のフタを閉じる。
「さて、次の借り手が現れる時までしばしの眠りへ・・・・・・」
青年はそう言うと箱をショーウインドウの中へと戻す。
そして静かになった店内の中で優しい笑みを浮かべると、新たな客の到来を待ち始めた。
パンドラの箱から最後に飛び出したもの。
それが何なのかあなたには分かりますか?
それは、それぞれの人が持っているはずの想い。
あなたにとってパンドラの箱から飛び出した最後のもの。
それは何になるのでしょか・・・・・・?
〈了〉