56 この世界
翌日もアロイスに会いに行った。次の日もその次の日も。
五日目に会いに行った時、アロイスキツネは私を見て猫みたいに毛を逆立てて威嚇した。
「アロイス、私よ。昨日も来たでしょ、忘れちゃったの?」
そうっと近づいて、精一杯手を伸ばす。私の手の匂いをしつこく嗅いで、ようやくアロイスキツネはこの得体のしれない生き物に敵意が無いと判断した。
その翌日にはこんがり焼いたチキンを持参した。キツネはチキンに興味津々だったが、やはり私の匂いを確認してからやっとチキンにかぶりついた。
今までの逆で、チキンを食べたら人間に戻るのではないかと期待したけれど、そんな思惑は脆くも消え去った。
チキンで満足したキツネを抱いて石畳をゆっくり歩き、泉の傍までやってきた。
「この泉はね、自然と湧き出て来たんですって。不思議よね、山や森の中でもないこんな場所に泉が湧くなんて」
私の言葉はもうアロイスの耳には届いていない。分かっていても私は話し続けた。そうすればいつか返事が返ってくるような気がするから。
「あなた、ここで水遊びをするのが好きなんですって? ハーリン先生が言ってたわ。でもびしょ濡れになった体を拭かせてくれないってぼやいていたわよ」
キツネはずっとぺろぺろと毛づくろいをしている。私が名前を呼んでも顔を上げる事はない。
「アロイス、アロイスってば……うっ、うう。やっぱり、やっぱりあの時すぐに言えばよかった。私もアロイスが好きだって、切なくて苦しくて、あなたを想って涙がこぼれるくらいに、アロイスが好きだって」
泣き崩れる私の膝から、迷惑そうにキツネは逃げた。
そうよ、こんな事になると分かっていたら、たとえこの世界に干渉してしまうとしても、自分の気持ちを伝えておくんだった。
「ハ、ハズレの残念キャラとモブ悪役令嬢なんていい組み合わせだったのにね」
「大丈夫ですか? 何が外れだったんです?」
ハーリン先生が心配そうに立っている。まだ取れない頭の包帯が痛々しい。
「あ、ハーリン先生。い、いえ、チキンを食べても変化がなかったので」
しゃくりあげながら返事する私に、先生はハンカチを差し出した。そして私の横に腰を下ろしてため息をつくように呟く。
「そうですか……」
キツネは毛づくろいを終えて遊び始めた。楽しそうに大きな蝶を追いかけまわしている。
「あの、ハーリン先生はなぜここに……アロイスの傍にいるんですか?」
「……スターク君がキツネに変えられた所を見てしまいましたからね。今回の事が全て収束するまで、療養という名の元に拘束されているのです。まぁ実のところ、彼を見守りたいと申し出たのは自分なんですがね」
ハーリン先生はキツネに変えられてしまったアロイスを気の毒に思っているのね。そうだ、教会で火事があった時、アロイスと一緒に私とクレアを助けてくれたのもハーリン先生だった。きっと先生も何かと縁のあるアロイスに思う所があったんだわ。
何か言おうとした先生が突然、跪いて頭を下げた。振り向くと国王陛下が側近を一人連れて立っている。私も先生に倣い、頭を下げる。
「ラスブルグ国王陛下にご挨拶申し上げます」
「ああ、そう畏まらなくてよい。そなたはクリコット伯爵令嬢か、此度は大変であったな。足の具合はどうだ?」
「ご心配いただきありがとうございます、無事回復いたしました」
「そうか、それは何よりだ。それと……我が息子の愚挙を詫びねばならん。そして、私も同罪なのだ。そなたとの婚約破棄を申し入れられた時、私は許諾してしまったからな、愚かにも」
「へ、陛下、どうか頭をお上げください。婚約は両親が決めたものですし、あのジェリコ殿下ですから、私、あまり好意を抱いておりませんでした。だから、全然気にして……ㇵッ」
あああ、何てことを言っちゃったんだろう。失礼にもほどがあるじゃない。いえ、失礼どころじゃないわ、不敬よ。不敬罪になっちゃうわ!
慌てて口を押えてももう遅い。陛下は目を丸くして私を見ている。
「ははははは」
愉快そうに陛下は笑う。今度は私が目を丸くする番だった。
「へ、陛下?」
「『あのジェリコ』とな。いや、そう思うのも無理はない。ジェリコは妃が甘やかし過ぎたのだ。浅慮で愚かなまま成長してしまった」
陛下はハーリン先生に振り向いた。
「ジェリコは惜しい事をした、そう思わぬかハーリン」
「はい、全くもって」
先生はそう言って、私に優しい笑顔を見せてくれた。
陛下がここへ来た目的はアロイスのようだった。蝶を追いかけるアロイスに近付き、その様子をじっと見つめている。何だろう、陛下の表情には悲哀が漂っている。陛下もハーリン先生と同じようにアロイスに同情しているのかもしれない。
陛下が去られた後、私も離宮を後にした。本当はずっとアロイスの傍に居たかった。心のどこかで、もう時間が僅かしか残っていないと分かっていたのだと思う。
でも諦めたくない、最後の最後まで諦めずに足掻き続けたい。完全に人間の姿でなくても、獣人の段階くらいにまで戻せたら……。
まずはゲームの舞台であるアカデミーに戻ってみよう。今のこの状況がゲームとはかけ離れていても、ここが『ホリスタ』の世界であることは揺るぎない事実なんだから。
久しぶりに入った教室は、何かいつもより寂しい感じがした。それは当然なのかもしれない。だってここにはジェリコもクレアもクリストファーもいない、そしてアロイスも。
クリストファーは大公家の事でどうしても一時帰国しなくてはいけなくなって昨日、旅立った。最後までアロイスと私を心配していたが、仕方のない事だと思う。
「ジーナ! 出てこられるようになったんだね、具合はどう?」
真っ先に声を掛けて来たのはブルックスだった。
「ええ、足はもう大丈夫。折れていなかったから大したことはなかったの」
ブルックスの方がまだギプスが取れておらず、不自由そうだ。
「あら、クリコット令嬢だわ。ねぇ、あなたもジェリコ殿下の舞踏会にいらしたわよね。何か知ってらっしゃる?」
あの舞踏会からもう二週間以上経っているから、少しは沈静化していると思ったのは甘かった。
「ジェリコ殿下もクレア様も舞踏会の途中でいなくなってしまうし、何か騒動があったんでしょう? あなたは見なかった?」
「さぁ……銀の間は広いから気づかなかったわ。クレア様はお加減がよろしくないって聞いたけど」
ここは知らぬ存ぜぬが吉よね。
「そうらしいわ。ジェリコ殿下はクレア様に付きっきりだとか。フェダック様はシュタイアータに帰ってしまわれるし、あの陰気君のスターク君もお休みしてるし。教室ががらがらよ」
「陰気君って言うけどさ、スターク君って結構イケメンだよ。バザーの時に顔がはっきり見えたんだ」
うんうん、ブルックスは観察眼が鋭いわ。
「へぇ~、知らなかったわ。なら顔を隠すこと無いでしょうにね。勿体ないわ」
「彼は……誰かに似てるんだよなぁ。ここまで出かかってるんだけどな」
そう言ってブルックスは喉の辺りを触る。
舞踏会で起きた事は秘匿されている。それでもジェリコに挨拶に来た夜のお仕事の女性達を見た生徒もかなりいるし、噂が飛び交っている。真実を知らないほとんどの人が好き勝手に色々な妄想を作りあげていた。私もびっくりの妄想具合よ。中にはあの女性たちの中にクレアの姉妹がいて、ジェリコを取り合ってるとかもう、意味不明の話もあったりした。
私がアカデミーに出てきて喜んでくれたのはブルックスだけじゃなかった。ブリジットも食堂で私を見かけて、すぐ同じテーブルにやってきた。
「ジーナさん! もうよろしいんですの? その、色々と……」
「ええ、もう普通に歩けるし。それにアロイスからあなたの本を預かってるの。放課後に返しに行くわね」
預かって来たのは例の本だ。実際はクリストファーから託されたのだけれど。舞踏会でのゴタゴタでブリジットに返却そびれていたらしい。
ブリジットは放課後、図書室で勉強をするらしいので、私は図書室に本を持参した。
「そうでした、これスターク先輩にお貸ししていたのですわ」
ブリジットも私もここのところ色々な事が有り過ぎて、些細なことはすっかり頭から抜け落ちていた。
「クレア様、早く良くなるといいですわね。結婚式はきっと先延ばしになるんでしょうね。本来なら来年の春とおっしゃっていたのに」
私がジェリコに婚約破棄されたのが去年の冬、コリウス教の降臨祭の時だ。もうすぐ一年になるんだわ。
「あら、これは何かしら?」




