30 レニーの不安とサイドルさんの励まし
先にジーナを屋敷まで送り届けたあと、真っすぐ帰宅した俺は、早速玄関先でブリジットに出くわしてしまった。
「あら、今アカデミーから? 鼻歌なんか歌ってご機嫌ね、お兄様」
別に隠す必要はないのだが、どうもこういう時は無意識に体が動いてしまうものなんだ。俺はプレゼントの本の包みをサッと後ろ手に隠してしまった。
「なに、それ?」
「えっ、何のことだ?」
「今何か隠したでしょう、怪しいわね。私に見られたら困る物なの? ねぇ、何なの? まさかまた新しい剣でも買ってきたんじゃ・・・」
こんな風にブリジットに捕まってしまってはもう誤魔化しきれない。ブリジットは子供の頃から妙に勘が鋭く、頭の回転も速い子だった。
「そんなんじゃないよ・・・仕方ない、少し早いけど誕生日おめでとう、ブリジット」
「あっ、そういう事だったの。ありがとう、お兄様。じゃあ遅くなったのもこれを買ってきてくれたからなのかしら?」
「そうだね、色々見て回ったから」
そう言いながらも、実のところはプレゼント選びと言う口実でジーナを誘い出した身としては、少しだけ後ろめたさを感じてしまう。
「ジーナさんが選んでくれたのね。誕生日前だけど中身を見てもいいわよね?」
「あ、ああ。気に入るといいけど」
やっぱりブリジットにはお見通しだったか。俺なんかよりずっとしっかり者の妹だが、わくわくしながら包みを開ける姿にはどこか子供の頃の面影が残っていて可愛らしい。
「まあ、本ね! 立派な装丁だわ」
「シュタイアータでは絶版になっていて、もう手に入らない貴重な本なんだぜ」
「ありがとう! 大切にするわ。お兄様もジーナさんを大切になさってね」
ブリジットは本を胸に抱えながら意味深な上目遣いを投げて来た。
「ああ、それはもちろんだけど、何でそんな事を・・・」
「ジーナさんはお兄様にぞっこんだと思うけれど、そこにあぐらを掻いちゃだめよ! ジーナさんの魅力に気付いているのはお兄様だけじゃないんですからね」
俺だけじゃない? じゃあジーナに好意を持っている人が他にもいるっていうのか?
確かにジーナは一見すると一般的などこにでもいる令嬢に見えるが、話してみるととても快活で、笑うとえくぼが出来てキュートだし魅力ある人だ。そう、魅力のある人だ。誰かも同じことを言っていた、だからレニーはジーナを好きなんでしょう? とも言われたような気がする。そうだ、俺は確かにジーナを好きなはずだ。
にしても、ジェリコ殿下は自ら婚約を解消されたから、彼じゃないはず・・・。それは一体誰なんだ、と聞こうとした時には既にブリジットはもう自分の部屋のドアに手を掛けていた。
翌日アカデミーに行ってからも、昨日のブリジットの言葉が頭から離れず、全く授業に集中出来なかった。ジーナが少しでも他の男子生徒に声を掛けられると『今の奴がそうなのか?』と勘ぐってしまう。今まで感じた事のないようなどす黒い感情が頭を支配しているみたいだ。
眼鏡のあいつは今週、ジーナと当番になっているブルックスか、真面目を絵にかいたような生徒だ。二人が会話している様子からは特別な感情は読み取れないが、分からないぞ。眼鏡っていうのは厄介だな、表情を隠してしまう。まあ当番は1週間だ、今週と当番が終わった後の様子を観察させてもらうぞ…。
「先週出した古語の課題は、当番が集めて私の部屋へ持って来て下さい」
ラスブルグ古語の教師はとにかく課題を出す頻度が高い。当然、生徒の受けも芳しくなかった。さてブルックスとジーナだ。二人は手分けしてノートを回収して回っている。教師に届けに行くときに、そっと付けてみるか。
二人は仲よさそうに会話しながら廊下を進んで行く。やはりあいつだったのか! ジーナは声を上げて楽しそうに笑っている。あんなくそ真面目な顔をしているくせに、何を話してジーナを喜ばせているんだ。
「あら、レニー。とっても怖い顔をしてらっしゃるわ、どうかしたの?」
クレア様だ。俺は階段を下りて行く二人に気を取られて、前方からクレア様が歩いて来るのに気づかなかった。
「あ、いや。なんでもないんだ」
クレア様は俺が見ていた階段下を覗き込んだ。
「ああ、ジーナね」
「いやぁ、まあ…」
俺はちょっと気まずい思いで視線を外した。無意識に手が後頭部に行く。クレア様はその俺の腕に軽く触れた。
「分かるわ、心配なんでしょう? ジーナはとても素敵な女性ですもの。悪い虫が付かない様に、あなたはしっかりジーナを繋ぎとめておかなくてはいけないわ、しっかりとね」
囁きかけるようなクレア様の言葉は、まるで呪文のように俺の心に刻まれていく。
「しっかり繋ぎとめて・・・悪い虫が付かない様に・・・」
「そう、ジーナはあなたのものになったのでしょう? だったらレニー、あなたが管理してあげないとね。ジーナはあなただけのものなんだから」
そうだ、ジーナと付き合っているのは俺なんだ。誰にも、何者にも邪魔はさせないぞ・・・。
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レニーとジーナが食堂を出て行く姿を、俺はわざと見ない様に窓の外を凝視していた。
ジーナがレニーとつきあう事になるのは時間の問題だっただろう。いつも近くで二人の様子を見ていたのだから、心のどこかでは気付いていたはずだ。レニーも明らかにジーナに好意があると。
それなのに、いざ目の前でレニーの手がジーナの手に重ねられた時、俺は後頭部を後ろから思いっきり殴られたような衝撃を受けた。
レニーに視線を移すと、照れ臭さと情熱が同居した笑顔をジーナに向けていた。ジーナは恥ずかしがっているが、嫌な訳がない。この二人を前にして咄嗟には言葉が出てこなかった。だがジーナは俺を気遣いながらレニーとの交際報告をする。俺は今どんな顔をしているんだ? どんなに繕っても、心からの祝福を込めた顔など出来ない。
俺は下を向いていつもの様に分厚い前髪で顔を隠した。その上で平静を装ってジーナにおめでとうと言う。ちゃんと普通に言えただろうか? 動揺が声に出ていなかっただろうか?
いや、もしジーナに俺の動揺が気付かれたとしても、それはクレアの婚約発表後の、このタイミングだからだと思うだろう。
あの時「俺は別にクレアに恋愛感情は持っていない」と言うつもりだった。だが言えなくて良かったのかもしれない。
気づくと手に持ったままのカップの中で、コーヒーはすっかり冷め切っていた。食堂の係員も俺がここに居たのでは帰るに帰れないだろう。サイドルさんと言ったか、彼女に一言礼を言わなければ。
「食堂を貸していただいてありがとうございました、用は済みましたから帰ります」
コーヒーのカップをカウンターの奥へ置いた時、サイドルさんらしき恰幅のいい女性が顔を出した。
「どういたしまして」そして頼もしい笑顔で言った。
「きっと明日は晴れですよ、ずっと降り続く雨なんてないですからね!」
ジーナはこのささやかなお茶会の目的をサイドルさんに話していたようだな。しかも俺はクレアとジーナ、二人共にフラれた事になるのか。自嘲気味に笑みを浮かべながら、俺は食堂を出た。
彼女の励ましは嬉しいが、それは更に自分の胸の痛みを再認識させただけだった。
「あーあ、結構痛いもんだな」
「えっ、どこかお怪我でもされたんですか、殿下!」
振り返るとヴィンセントが小走りでこちらに近付いて来る。
「お怪我はどこです? 見せて下さい!」
「怪我なんてしていない。それよりまた『殿下』などと呼んで、ここはアカデミーだぞ、誰かに聞かれたらどうするんだ」
俺の目の前まで近寄ったヴィンセントは小さな苦笑いを見せたが、俺の背後の何かを見て青ざめた。
「いやあ、すみません。その誰かになってしまいました」




