バイオマトン
「申し訳ございません。存じ上げません」
僕の問いに人形はそう答えた。
「馬鹿が。フランケンシュタインというのは古典小説に登場する科学者の名前だ。そしてそのイカレた学者が屍体から生み出した怪物の俗称でもある。つまり」
お前の事だ、生体人形。
人形は僕が大袈裟に腕を振るい、指を突き付け、声を荒げようと、微動だにしない。ただじっと僕を見返してくる。……気味が悪い。
紺色の着物にエプロンなどを着けた物体。艶めいた黒髪を肩まで垂らした物質。可憐な少女を模ったモノ。それは今、壁際に佇み待機状態にある。
「怪物を指してフランケンシュタイン、あるいはフランケンと呼ぶ事が多いが、これは間違いか便宜上のものだ。作中において名付けられる事はない。だからこの僕がお前という怪物に名を与えてやろう。『メアリ・シェリー』。小説の著者の名前だ。光栄に思え、メアリ・シェリー」
「ありがとうございます、克久様」
怪物は間髪を入れずに言い、腰を折った。言葉に抑揚は無い。
「本当にありがたく思っているのか、木偶人形」
「申し訳ございません。判りかねます」
つい失笑させられた。剰りに条件反射的だった。そういうところがやっぱり人形なんだ。
バイオマトン。
およそ99%の有機物と僅かな無機物、つまり人間と同じ構成によって、人間と同じ構造に組成された人形。培養液の中で作られたパーツを継ぎ接ぎしたヒトもどき。人の股ぐらではなく工場から生産されるヒューマノイド。
昔の人間は、人間を機械で再現する事を随分と夢想し、研究したらしいが、それが無駄だと気付くのにどれだけの時間を要しただろうか。
人間らしき形をした機械を作る事は可能だった。しかしそれには何の価値も無かった。わざわざ人間を模して作ったロボットは、作業の効率、精巧さにおいて人間に遠く及ばない。かと言って人間以上の働きをするものを作ろうとすると、人型である意味が無い。
人間の思考を真似したコンピュータは、頭蓋どころかビルのワンフロアに収まるか否かというサイズになり、エネルギー変換機構を再現しようとすると大型工場が必要になる。
マシンによるアプローチは義肢などに技術転用されたが、それさえ再生医療に取って代わられた。結局、手は手、脳は脳、心臓は心臓、それらにそれら以上の代替品は無かった。
機械は機械にしかなり得ないという現実とようやく向き合い、人間たり得るのは人間しかあり得ないという単純な解に行き着いた末に作り出されたモノ。それがバイオマトンだ。
倫理がどうだ人道がどうだ神がどうだ……人工生命についてはクローンなんていうとっくにカビの生えた技術の頃から物議されてきたが、その辺りをどうクリアしたかは知らない。生命とは人間とは何ぞや、となるとそれは哲学の分野だ。まあ、ついに科学は神様を殴り倒せるところまで来た、と言ったところだろうか。
そんな結論の無い論争に終止符を打ってしまうほどバイオマトンが有用だったという話でもある。
最たるは移植用組織の保管器として。臓器や身体部分が損傷した場合のバックアップだ。再生医学の黎明期は臓器を人間と組織構造の近い豚の体内で作っていたが、これは一頭に対して作れる部位が限られ緊急時の対応力が低い。一方バイオマトンならば一体につき全パーツを揃えておける。
無論と言うべきか、医療用以外の用途もある。
「お前は何のために居る、メアリ・シェリー?」
「はい。わたくしは克久様に仕える家政婦でございます」
「つまりお前は家事全般の膨大な知識をその新鮮な脳に仕込まれて出荷されてきた訳だ。そうだろう、メアリ・シェリー?」
「その通りでございます」
「では何故お前はここに居る、メアリ・シェリー?」
「克久様が雅胤様のご子息だからでございます」
峰谷雅胤という男が居る。峰谷グループと言えば、分かる人間には分かるだろう。保険やら製薬やら、動産も不動産もなんでもござれと手広く扱う企業グループ、その現オーナーが峰谷雅胤だ。
そして僕はその男の息子……いや、隠し子だ。
父・雅胤は前オーナーの娘に取り入り、逆玉の輿として要職に就いた癖、当時秘書を務めていた僕の母に手を付けた。そして孕ませると簡単に切って捨てた。
母は毎月生活費と見舞金という名目の口止め料を受け取って生活していた。しかし子供の父親について他言できず、親族とは縁を切る事になり、独りで僕を産んだ。その頃からだろう。心身を病んだのは。
そして僕が十七歳の誕生日を迎えた二ヶ月後、母は亡くなった。
役所の手配で葬儀を済ませ、孤児になった僕は親父に連絡を取る事にした。悔しいが他に頼るあては無かった。グループの共通窓口に電話を架け、工藤克久の名を告げると、あっさりと取り次がれた。
――お母さんの事は知っている。
――とても残念だ。
生まれて初めて聞いた父親の声は、低く明瞭で、淡々としていて、虫唾が走った。
それから三日してスーツを着た男が訪ねてきた。胸に天秤のバッヂを着けていた。男が差し出したのは知らない名前が二つ入った書類だった。戸籍上その二人の養子になる事、生活費と大学までの学費の全額が負担される事を告げられた。僕にとっては想像通りの展開だった。
ただ一点を除いて。
「『何故』と訊いたのは、お前が送られてきた理由だ、メアリ・シェリー」
「申し訳ございません。判りかねます」
「僕は一人でも十分生きていける。身の回りの世話なんていらない。今までもそうしてきた。なのにどうしてお前みたいなモノがここに居る?」
「判りかねます」
またも失笑。
僕はペン立てから鋏を引き抜いた。
「……なあ、メアリ・シェリー。これからお前をズタズタに切り裂いていいか」
逆手に握った鋏。その先端の鋭利さを指先で確かめた。ほんの少し力を込めるだけで皮膚を突き破りそうだ。
「克久様がご要望ならば」
バイオマトンは表情一つ変えずに言った。
そうかよ。
壁に手を突いて、鋏を振り上げた。腕の影がメアリ・シェリーの顔に落ちた。
心臓が鼓動を速めた。ずん、ずんと、頭の方へ血液が送られてくる。
どうして。と僕は言った。
「どうして僕がこんなに怒っているか、解るか」
「申し訳ございません。解りかねます」
「お前がある人に似ているからだ」
息が詰まる。
「その人は独りきりで生きて、独りきりで死んだ。ずっと陰の中に居た。僕はずっとその横顔を見ていた。決して日の当たらないところで、僕たちは過ごしてきたんだ。それが……その慰めが、これかよ!」
僕は鋏を振り下ろす。
鋏は壁に突き刺さった。
当然だ。僕には、彼女の顔を壊す事なんてできない。
ふざけるなと呟いたとき、目頭から液体がこぼれ落ちるのを感じた。
体中から力が抜けて、膝が折れた。
「どうしてこんな仕打ちが……こんな残酷な事ができるんだ」
「申し訳ございません。判りかねます」
「そうだろう。そうだろうともさ……」
ですけれど。
と、メアリ・シェリーは言った。
「わたくしにも判る事がございます」
「……教えてくれ」
「わたくしは、克久様のお側に居るように作られました。ずっと」
ずっと。
僕は、母の腰にしがみついていた。
母の手が僕の頭を撫でた。指が髪を梳いた。
「ずっとお側に居ります」
そんな事を言われたら、メアリ……母さん。僕は。
狂ってしまう。
10年以上前に途中まで書いたものの供養です。
原本はバイオマトンの説明部分で止まってました。たぶんオチが考え付かなかったのでしょう。今も考え付いていません。