ブライスの災難
シンシアはきつく抱きしめられて、一瞬意識が遠のいた。いつものようにブライスと出かける約束をしていたのだが、彼の都合でシンシアの屋敷でのお茶会へと変更になった。
先日のお茶会で仕入れた情報もあって、確認をしたいと思っていたから丁度いいと思い了承したのだが。
やってきたブライスはシンシアを見るなり、ぎゅうぎゅうに抱きしめた。
「ブ、ブライス様……苦しい」
胸が圧迫されて息が苦しくなり、慌てて彼の背中をパタパタと叩いた。ブライスは自分がどれだけきつく抱きしめているのかにようやく気が付いて、腕の力を抜く。
「うわ、ごめん!」
「ああ、もうどうなさったの?」
乱れる呼吸を整えながら、ブライスを睨みつけた。ブライスは申し訳なさそうにしながらも、両腕はシンシアの腰を抱いたままだ。こんなにも近い距離は初めてであったが、息の苦しさと突然の抱擁に驚いてしまって、気にするどころではなくなっていた。
「どこに行っても、付きまとわれて」
「付きまとわれて……ガーション子爵令嬢に?」
「そうなんだ。どこから聞きつけるのか知らないが、行く先々にいて、気持ちが悪い」
顔色を悪くしながら、ブライスは体を震わせた。
「最近、わたしの方に突っかかってこないと思ったら、ブライス様の方に行ったのね」
「どういうことだ?」
シンシアは納得したように頷いたが、ブライスは全く意味が分からない。
「女の戦いだと思っていたから、ブライス様には話さなかったのだけど」
「普通はそうだろうね」
シンシアはとりあえずゆっくり話せるようにと、ブライスをサロンへと案内した。すでにお茶の準備がされており、二人が向かい合わせで腰を下ろすと、侍女がお茶を用意する。
「真実の愛で結ばれているから、邪魔するなと言われて」
「し、真実の愛……!」
ブライスが撃沈した。いつもそつのない様子の彼がこんなにも感情を見せるのが珍しくて、シンシアは笑みを浮かべた。
「それから」
「まだ何か?!」
「真実の愛、運命の恋人の演劇のテーマがお二人だったとも聞きました」
ブライスの息が止まった。
「やっぱりわざと黙っていましたのね」
「……真実の愛とか運命の恋人とか、何と説明すればよかったんだ」
力なくソファに沈み込み、やや投げやりに答える。丁寧な口調の彼もよかったが、こうして心を許したような話し方をされて、シンシアは嬉しさがこみあげてきた。
「そうね、説明しにくいわよね」
「六年前の僕を否定するつもりはないけれども、やっぱりあの騒がれ方は今思うと恥ずかしいし、君に知られるのもツライ」
「演劇のモデルになるなんて、滅多にないことよ」
「誇れるところがない……」
これ以上虐めてしまうのもかわいそうなので、黙っていたことに関してはこのぐらいで許そうとシンシアは話題を変えた。
「ところで、これからガーション子爵令嬢の事、どうなさるの?」
「排除したいと思っている。最近の行き過ぎた行動は目に余る」
排除と聞いて、シンシアは目を丸くした。人のよさそうなブライスが排除を選ぶとは思っていなかった。ブライスは姿勢を正すと、小さく息をついた。
「君の兄上たちにも目を付けられているし、王太子殿下がな」
「王太子殿下、って。まさかガーション子爵令嬢、殿下にも何かしでかしたの?」
「どうやら何かの研究グループで一緒だった時期があるらしく、そのつながりで接触したようだ」
研究グループと聞いて、エリンがそれだけの知識を有していることに驚いた。シンシアの考えたことが分かったのか、ブライスは小さく笑う。
「あの見当違いな自己主張さえなければ、それなりに優秀だったんだ。本人が自信を持つだけの頭の良さはあった」
今まで彼女の優秀さをかき消す言動しかなかった。だから気にしたことはなかったが、ブライスが彼女を認めたことでシンシアの胸は妙なざわめきを感じた。ブライスは遠い目をした。
「あのままちゃんと学業に励めばよかったのに。我が国でも注目されていた研究テーマだったんだ。もう少し貴族社会を理解していれば、また違っていたはずだ」
「そう」
もっと気の利いたことを言いたかったが、言葉が何も出てこなかった。
シンシアはエリンのことをきちんと知っているわけではない。ただエリンの同世代だった姉たちの話を聞いただけだ。男性も女性も、口をそろえて言うのは「貴族社会にはなじめない人」。子爵家に生まれ育ちながら、その考え方は理解しがたいものなのだそう。
シンシアは伯爵家に生まれて、自分の持つ身分とその血筋についてよく理解していた。伯爵家に対して、領民に対して、そして国に対して自分はどうあるべきか、ということがすべてに置いての行動基準だ。もちろんその中で許されている自由もあるし、我儘も言える。
「シンシア?」
「ブライス様があまりにも彼女を褒めるから。前衛的な女性の方がやはり好きなのかと思いまして」
「違う! 確かに能力があることは認めている。だからこそ、六年前は応援したんだ。それに彼女も僕のことなど少しも愛してはいないよ」
慌てふためきながら、そんなことを言い始める。シンシアはよく分からなくて、首を傾げた。
「ブライス様が彼女を愛していないというのは分かりますが、彼女は真実の愛があるのだからと、お茶会などの集まりで訴えておりますけど」
「はは。本当に迷惑だな。そんなわけあるはずがない」
確信を持って言うので、先を促す。ブライスはため息をついた。
「彼女はね、こちらに戻ってくるまでの間、留学先で作った恋人とずっと一緒に暮らしていたんだ」
「え?」
「今回、戻ってきたのは、その恋人が婚約者と結婚することになって別れたから。突然僕を思い出したのは、寄生先が欲しかったんだろう。養ってくれそうな相手なら誰だっていいんだ」
その話を聞いて、シンシアは考えを改めることにした。エリンは放置してはいけない。
「人を愛する気持ちは自分でもどうにもならないものです。なので迷惑ですがある程度は彼女が落ち着くまで仕方がないかと思っていたのですが、そういうことなら警戒しなくてはいけませんね」
「警戒?」
「ええ。だって彼女、ブライス様しか頼る人はいないわけでしょう?」
「恐らく」
よく分かっていないような顔をしてブライスは頷いた。
「ならば、わたしの有責で婚約破棄を狙ってくるはずです」
「まさか」
「ありえますのよ。賛否が分かれるそうですけど、今、注目を集めている舞台がそういう話ですの」
これはつい最近、シンシアも知ったばかりだ。舞台の鑑賞はとても好きでよく足を運ぶが、愛憎渦巻くストーリーはあまり好みではないため避けていた。好き嫌いの分かれる内容であったが、それでもそこそこ人が入るぐらいには人気がある。
「ちなみにシンシアを有責にする手段はどんなものだ?」
「ありきたりなものだと暴漢に襲わせる、もしくは高いところから突き飛ばすといったものですね」
「それをシンシアがやったと証明するのが大変な気がしなくもないが」
「普通はそうですわね。わたしの側には常に侍女と護衛が控えておりますし、そもそも予定外の行動はしませんもの」
あの舞台の出来の悪いところが、現実の貴族では罪を相手に着せるのは難しいだろうという点だ。高位貴族に下位貴族が訴えたところで、認めるわけがない。もちろん、王族や高位貴族たちが結託して冤罪にかけようとしているのなら、あり得るかもしれない。ただそれはあまりにも極端な例だ。
「そんな愚かな行動を取らないと信じたいところだが……注意しすぎることはない」
そうブライスは自信なさげに言う。シンシアはにこりとほほ笑んだ。
「ええ、杞憂だとは思いますが、注意はしておきますわ」
ブライスは頷いた。