婚約することになりました
「婚約、ですか?」
「そうだ。相手はオドネル伯爵家の嫡男のブライス殿だ」
オドネル伯爵家嫡男と聞いて、シンシアは暴れてしまいたくなった。流石にそれはないでしょう、と言いたい。ブライスは社交界ではちょっとした有名人である。主に悪い意味で。シンシアとは年も六歳も離れているが、それでも有名なのである。
貴族の結婚なんて、家の事情ありき。
シンシアは自分の結婚に対して、夢を持っていなかった。歴史が古く力のある伯爵家の三女で、母親は侯爵家の出身、さらには母方の伯母は王妃。必然的に沢山いる従兄弟たちは上位貴族で、国の中枢に近い人ばかりだ。何かのお祝い事の宴に参加すれば、いつだって夢のような華やかさ。
贅沢が許された華やかさには、義務が伴う。特に上位貴族の娘に求められるものは、家のための政略結婚だ。政治、経済、利益を見込んだ縁を結ぶ。二人の姉は国内外の有力貴族に嫁いでおり、当主である一番上の兄はすでに結婚、二番目の兄も来年には結婚する。そこには個人の感情はなかったし、完全に政略上のものだ。
だから別に断るつもりはない。上の兄姉たちに比べ、いささか手を抜いた教育をされていたのだからと、好きにさせろと我儘を言うつもりはない。
だけど、ほんの少しだけ。隠居した両親と出産を控えた義姉と一緒に領地に引きこもっていれば回避できたかもしれない、と考えてしまった。
「シンシア、何か言いたいことがありそうだな」
シンシアの貴族の娘らしい覚悟を一番上の兄のジョセフが甘い言葉で揺さぶった。
「……いいえ。この婚約、謹んでお受けします」
「うわ、本気で嫌がっている」
次男のヒュースがシンシアの頭をぽんぽんと叩きながら、おかしそうに茶化した。シンシアはその手を振り払いながら、ヒュースを睨みつける。
「おかしな言いがかりは止めてほしいです。わたし、ちゃんと受けると言いました!」
「はは、その言い方! 不満だらけですと言っているようなものだ。せめて嬉しそうに微笑んで見せたらどうだ」
「むきー! 他人事だと思って!」
シンシアは取り外し可能な淑女の顔を脱ぎ捨てると、ヒュースに拳を振り上げた。その小さな手を難なく抑えながら、にやにやと笑っている。
「シンシアを揶揄うな。嫌だと思う気持ちは分からなくもない」
二人のやり取りを見ていたジョセフが苦笑した。ムカつく気持ちを抑えながら、ジョセフに聞いてみる。
「断ったらダメなんでしょう?」
「そうだな。でも文句を禁じられているわけではない」
諭すような言葉に、シンシアが目を見開いた。
「言ってもいいのですか?」
「言うだけなら。毒は吐き出しておいた方がこれからの時間、過ごしやすいはずだ」
「本当に? 世紀の大恋愛だと言われていたにもかかわらず婚約保留状態で留学に行った相手の令嬢が約束の期間を過ぎても帰ってこなくて、留学先まで迎えにいっても連れ帰ることもできなくて、最終的には婚約できずに恋愛成就できなかった優柔不断のドリーマーであるオドネル伯爵令息と結婚するなんてどんな罰ゲームなのという絶望をしている妹には毒を吐く権利だけはあると」
淡々と言い切った妹にヒュースが腹を抱えて笑い出した。
「うくくく! 澄ました顔をしていたのに、それだけ腹に溜めていたのか。ドリーマーって、なんだよ!」
「ドリーマーはドリーマーでしかありませんわ。笑い事ではなくてよ、ヒュース兄さま」
不愉快そうに眉を寄せれば、悪い悪いとヒュースは謝る。でも笑いを治めるのは難しいらしく、声を押し殺し体を細かに震わせ続けた。
「一つも間違えてはいないが、まあ、なんだ。この婚姻はうちの事業の一環でもあるんだ。不満はあるだろうが、とりあえず彼と交流してみてくれ」
事業の一環と言われてしまえばそれ以上の文句も言えない。婚約相手のオドネル伯爵領には港があり、そこからの交易路を作る予定でいるのだ。交易をする先は他国でそちらも同じように環境を整えることになっている。
これは国をまたいだ大規模な事業であり、この婚姻を断ることはできない。
「わかっています」
「ちゃんと淑女のお面をつけておけよ。ツンと澄ましていれば、妖精姫なんだからさ」
「……殴っていいですか」
ヒュースの心無い言葉に、拳を震わせた。
「ヒュース、そのあたりにしておけ。シンシア、お前は私たちの可愛い妹だ。嫌なことがあればすぐに相談するように」
「では、さっそく」
「却下だ」
妹の性格を見越したジョセフは聞く前に否定した。シンシアはぶすっとした顔で口を閉じた。