第1話 崩壊の兆し
その日――世界は唐突に、崩壊を始めた。
「なんなんだよ……。」
目に映るのは無限に広がる灰色の空、舞う嵐に吸い込まれる物体、そして、崩れ行く建物に押しつぶされていく大勢の人々。
俺の目に映るすべては、俺の脳内に「絶望」という単語をこれでもかと焼き付けた。
2016年 8月
冷房が効きすぎている部屋で、俺と彼は向き合い、視線を交わらせていた。2人以外に誰もいない、静かな空間で、ただ無為な時間のみが過ぎていった。
そんな張り詰めた空気が切れたのは唐突だった。
「刑事さん。」
「なんだ。」
彼は何の兆候もなく、俺を「刑事さん」と呼びかけた。一拍おいて俺が返事すると、彼は長く深呼吸をしてから自らの両手拳を握った。そして視線を下へ向け、再び俺の目を見つめる。
「僕はね……筋が通っていないことがたまらなく嫌いなんですよ。だからね、こんなくだらないこと自分自身が関わっていることに嫌気がさすんですよ。」
「くだらないって……人が死んでるんだぞ。」
「だからこそですよ。あんな奴らが死んだって、刑事さんたちはまだしも僕にとっては蚊に刺されるくらいにどうでもいいことなんです。」
「どうでもいいって……お前……。」
「話は終わりです。話すことはもうないです。」
そう言い残し、彼――田村は部屋を出て行った。残された俺は一人、机に肘をついて黙り込んでいた。
2時間後
「ちわーっす。」
田村の取り調べから2時間後の14時。俺は警視庁の端の端、「警視庁生活安全部第4生活安全相談課」へと来ていた。「生活安全相談課」通称「生相課」は別名「清掃課」とも呼ばれ、ゴミくらいの祥もない事案が回されてくる、警視庁の墓場である。
「よお、等々力。久しぶりじゃねえか。」
俺は、そんな端の端である「生相課」の、そのまた端に座る男――等々力駆という名の警察官に声をかけた。
「ああ、本田か。久しぶりだな。」
「ああ、それでよ。頼みごとがあるんだ。」
俺は等々力の向かいの席に座り、持っていた缶のトマトジュースを等々力の前に置く。そして、背負っていたリュックから一冊のファイルを取り出し、それも等々力の前に置いた。
「これは?」
「今、俺が受け持っている事件だ。」
等々力は「町田市会社員連続殺人事件」というシールが背に張られたファイルを開き、徐に読み始めた。
「これは……凄惨な事件だな。この……田村という男とは話したのか?」
「ああ、さっき話した。だけど碌な話が聞けなかった。ただ……被害者のことを「あんな奴ら」って言ってたことが気になるんだよな。」
「そもそも、田村と被害者の関係が曖昧じゃないか。「知人」っていくらでもいるだろ。死刑囚と知り合いだなんて、一般人じゃないだろ。」
等々力は書類に印刷された田村の顔を見ながら眉をしかめる。彼はファイルを閉じ、目の前にあるトマトジュースを開け、飲み始めた。
「まあ、力になれるかわからんが、こっちでもぼちぼち調べておくよ。」
「ほんとか。頼む。ありがとう。」
「ああ。」
等々力は表情を崩すことなく、トマトジュースを一気にあおる。そして閉じたファイルを俺に渡してきた。
「じゃあ、また。」
「本田。」
部屋から出ようとした俺を、等々力はいきなり呼び止めた。振り向くと、彼は椅子から立ち机に手をつき、俺をじっと見つめていた。そして等々力は口を開ける。
「お前、大丈夫か。」
「大丈夫って?」
「この事件、なんか嫌な予感がする。」
「やめろよ。お前のそういう勘、よく当たるんだからよ。
「……気を付けろよ。ミイラ取りがミイラになる、じゃないけど、お前まで死んでくれるなよ。」
「……ああ、気を付けるよ。なんかあったらまた知らせる。」
そうして俺は部屋から出ていった。等々力との最後の会話はどこか不気味で、これから起こる何物かがまるで、とてつもなく大きく、恐ろしいものだと説明しているようだった。
2016年 8月
「おっほぉ……。水島の足見ろよ。白くて細くて……。」
「香川の生足も白いぞ。ほら、あっちだ。」
「おお、すげえ……。」
青い空に白い雲が点在する夏のある日、隅田高校の夏休みが始まった。それと同時に俺たちは、たまり場である学校の屋上へと向かい、いつも通りの日常を送っていた。
俺は壊れた椅子に座り読書を、幼馴染の六知幸人と吉祥寺真之は女子高生観察、同じく幼馴染の真面目な大島御蔵は、壊れかけのベンチで横たわり、昼寝をしていた。
「お前らよぉ、下らねえことしてないで、勉強したらどうだよ。ヤバイんじゃないの?」
「くだらねえことって……お前、これがどれだけ神聖な行為か知らねえのか!?」
「そうだぞ近長!お前も見てみろよ!」
「はあ……。」
呆れ、ため息をつく俺に、六知は怪しげな視線を向けてきた。
「そうだよな。お前はもう、心に決めた人がいるもんな。」
「はっ!?何言ってんだ――」
「あー!!いた!」
俺が慌てて訂正しようとした瞬間、それは突然来た。
「お、噂をすればなんとやら、だな。近長のお迎えじゃないのか?」
六知に次いで吉祥寺もからかってくる。俺が2人の首根っこをつかもうとするが、それは叶わず、代わりに彼女――川合結奈が2人の腹を殴りこんだ。
「うっ。」
「うがっ。」
「あんたらね、いっつもいっつも屋上から足見たり二の腕見たり胸見たり!全部気付いてんだからね!」
「……はい……すみません。」
「近長!大島!あんたらもだからね!」
「はっ、なんで俺も!?」
「……おれっ、おれも?」
彼女の怒りの矛先は、六知と吉祥寺から俺と大蔵にまで葉を向けた。俺と大蔵は驚き、一歩二歩と後ずさりする。
「とにかく!迷惑してんだから!ほんとキモイ!」
それだけ言い残し、河合は勢いよくドアを開け、そして閉め、大きく足音を鳴らし去っていった。
「……っはぁ、河合怖えー……。」
「あんなのと12年間一緒って信じらんねえわ。ま、近長がどうか知らんけどな。」
「ったくお前らよお。」
そんな平凡な日常が、夏の青い空の下、いつも通り行われていた。この平凡で退屈な日常が、ずっと続くと思っていた。受験が終わり、大学入学し、卒業し、就職し……それでもまたみんなと一緒に遊んだりして、そうして年老いてゆくものかと思っていた。
そんな煌びやかな希望は、この世界とともに、無残にも崩壊してしまうとも知らずに。