1.追放された王女
魔物や魔獣が跋扈する昼なお暗い魔の森の奥深くに、不気味な城が見える。
極端に窓の少ない壁面を、捕らえるように這う蔦。
堅牢な城を形作る煉瓦は、年月を経て黒ずみ、城の前の深い堀には錆びた鋼鉄の跳ね上げ橋が人を拒絶するように上がったままになっている。
かなり遠くからも見えるが、何人たりともたどり着くことが出来ないその城には、すべての魔を統べる最恐の魔王が住んでいる―――。
‥‥誰もたどり着けないのにどうやって伝わったのか、は永遠の謎である。
「‥‥おかしいわ‥‥たどり着いた、わね。」
ぼろ布のようになった服をまとった黒髪の女――フィオナは呆然と呟いた。
目の前に不気味な城が建っている。
上がったままの跳ね上げ橋まであやしい言い伝えそのままだ。
―――何人にもたどり着けない城ではなかったのか?
ここまで何度も何度も死んでもおかしくない場面があったのに、なぜかまだ生きていて、しかもまさか‥‥たどり着くなんて。
「魔王の知り合いは、いないはずなのだけれど‥‥」
―――呪い姫と呼ばれる、自分であっても。
ぼんやりと跳ね橋の前に立ち尽くしてしまった。
何か用があって城を目指していたわけではない。
人里のある方へ戻ることはできないから、なんとなくこちらへ向かっていた。
もう何日もまともにご飯を食べていないし、魔獣のいる森ではぐっすりと眠ることもできない。
次はどこを目指したらいいのかと考えるのも、どうやったら城に入れるのかと考えるのも億劫だ。
へたりと地面に膝をついた。
―――もう、いいか。
そのまま体を横たえると、もう起き上がる気力は欠片もなかった。
****
目を覚ますと寝台の上で寝ていた。
寝台で眠るなんて、どれくらいぶりだろう。
辺りを見回すと、寝台の他になにもない石造りの暗い部屋の中にいることがわかった。
日の落ちた後らしい様子で、小さな窓からは弱々しい月の光が差し込んでいる。
「‥‥牢?」
ゆっくりと体を起こして自分の体を見ると、見覚えのない清潔な白いガウンを着ていた。
袖をまくって見てみると、土がつき汗にベタつき汚れきっていたはずの体はさらりと乾いて、あちこちにあったはずの傷やアザもきれいに消えている。
「死んだ、のかしら?‥‥ここが天国だとしたらイメージと違いすぎるのだけど‥‥」
むしろあの不気味な城の中にいるみたいだ。
立ち上がって部屋の中の唯一の扉を押してみると、重い扉は耳障りな音を立てながらもゆっくりと動いた。
鍵はかかっていない。
閉じ込められているわけではないことがわかってホッとする。
扉の向こうの廊下は真っ暗だったが、奥の部屋の扉から小さく光が漏れているのがわかった。
「ここがあの城の中なら‥‥誰か、住んでいるのかしら。」
体を清潔にして寝台まで運んでくれた誰かがいるはずだ。それが人間かどうかはわからないけれど。
ごくりと唾を飲み込んで、ゆっくりと光が漏れる扉へ向かう。
勇気を出して扉をノックしてみたが、何の返事も返ってこない。
そっと扉を引いて中を覗く。
蝋燭の灯ったその部屋は思ったより狭くて、天井まで続く壁いっぱいの棚に古そうな本やら何に使うかわからない道具がぎっしりとつまっている。
ちなみにホコリを被っている所も多くてお世辞にも清潔とか整頓されているとは言えない。あまり考えたくはないが何か沸いていそう‥‥おえ。
――――けれどこれは朗報だわ、少なくとも本を読める人がいるのね。
部屋の奥の方で蝋燭の明かりの中に影が踊っているのが見える。
誰かいるのだ。
「ちょっと‥‥すいません‥‥」
ボソボソと声をかけながらごちゃごちゃとモノが積み上がった机の向こうをそっと覗くと、床に座り込んだ人影があった。
真っ黒の長い髪を首もとで括って濃い色のローブをまとった誰かは床に顔を近付けて一心に作業しているようで、小さな声は全く届いていない。
「‥‥あのっ!」
決死の覚悟で声を張り上げる。
「‥‥ちょっと待って。」
男の人の低い声が響いた。
近くで見てみると、床に何かを描いている。
細かく直線と曲線が交差する美しい紋様を何の手本も見ずに迷いのない筆で書き進めてゆく。
――――なにやってるのかわからないけど、すごい。
その筆の動きに圧倒されて見入ってしまう。
そのまま時間を忘れてどれくらいたったのか。
床に大きな円形の紋様が書き上がって筆を置いたところで、ようやくその人物はぐいっと顔を上げてこちらを向いた。
真っ白の綺麗な顔には、真っ赤な虹彩が鋭く射るように輝いている。
――――あ、見た目は人間ぽい。
魔王だとしたら角の一本二本、目が3個4個は覚悟していたので少し拍子抜けする。
「‥‥人の家の前で死なれたら迷惑だ。寝覚めが悪いだろ?」
――――そういう問題かなあ?
憮然とした顔の青年に、フィオナが心の中で突っ込む。
「‥‥助けて、頂いて‥‥ありがとう、ございます。」
フィオナが深く頭を下げながらいった。
青年は立ち上がって、服についたホコリを手で払っている。
「面倒だから助けただけだ。もうどこも痛くないだろう?」
「‥‥はい。ありがとうございました。」
「落ち着いたなら帰ればいい。‥‥帰るところはあるか?」
立ち上がった青年はフィオナより頭ひとつ大きい。一回りは年上にみえた。
――――帰るところなんてない。
ぎゅっと眉を寄せて下を向く。
「ある訳ないか、こんなところに用もなく来るくらいだもんな。」
フィオナが下を向いたまま小さくうなずいた。
「お前魔法使いだろ?雑用するなら置いてやってもいいぞ。」
意外な言葉を聞いたフィオナが目を瞬く。
「‥‥魔法使い‥‥?私がですか?」
魔法使いというのは隣国リングルド王国にいるとされる不思議な力を持った人達のことだろうか?
火を、風を、水を自由に操ると聞いたことがあるが、フィオナは一度も見たことがない。
「ああ、お前リングルド王国の生まれじゃないのか。」
青年が少し困ったように言った。
「でも魔法使いでなきゃこの城にはたどり着けない。多分お前にはリングルドの王族の血が流れているんだろう。」
予想外の言葉にフィオナが目を見開いた。
「‥‥確かに、私の母親はリングルドの王女でした。」
躊躇いながらつぶやくと、ほらな、と言って青年はニヤリと笑った。
「俺はゼロス。こき使うからよろしく。」
「フィオナ、です。よろしくお願いします。」