その部屋からもう、ピアノの音はしない。
初めて野球の試合を生で見て、野球選手になる夢を抱いた。
それがいつだったか、今となっては思い出せない。
だからきっと、物心がついた頃から俺は野球が好きだったんだろう。
でもあの試合だけは覚えている。
照りつける日差し。灼熱と化した球場。
声を枯らす応援団。止まない声援の嵐。
最終回、ツーアウト満塁。
張り詰めた空気に生唾を飲み、瞬きも忘れて恍惚とした。
時が止まったような一瞬から、渾身の一投が繰り出され、直後、夏の青空に甲高い音が届いた。
家に帰ると俺は、母親に頼んでスポーツ少年団に入れてもらった。
しかし俺は身体が弱く、練習にはついていけなかった。
投げれない、打てない、捕れない、走れない。
努力すればするほど、監督は無理するなと言うし、母さんはやめてもいいと言ってくる。
いや、遠回しにやめろと言っていたのかもしれない。
でも楽しかった。
投げれなくても、打てなくても、捕れなくても、走れなくても。
野球が好きだった。だから続けられた。
そんなある日、母さんがピアノを買ってきた。
我が家はそこそこ裕福で、家もかなり広かった。
気分転換に、とでも思って買ってきたのだろう。
俺はアニメの曲や流行のj-popなど弾いた。
楽譜もなしに。所謂、耳コピで。
俺には絶対音感と、卓越した音楽的センスが備わっていた。
――その日から、母さんは変わってしまった。
頼んでもないのにピアノの講師が来た。
家ではクラシックが垂れ流されるようになった。
母さんが音楽の勉強をするようになった。
スポーツ少年団を、勝手にやめされていた。
才能がない。身体が弱く、体力もない。
何より、指を怪我するとピアノを弾けなくなる。
あなたは音楽の道を極めなさい。
『――これは、貴方のためなのよ』
汚れたグローブもボールもバットも、勝手に捨てられていた。
ほぼ毎日ピアノの練習をさせられるようになった。
アニソンやj-popは聴くな、と言われるようになった。
野球中継を見てると、テレビを消されるようになった。
『これは貴方のためなのよ。もっとピアノが上手くなりたいでしょ?』
父さんを早くに亡くし、母さんは女手一つで俺を育て上げた。
だからこそ、人一倍に厳しく教育に力を入れ、逞しく育てなければならないという義務感に囚われていた。
だからピアノという才能を見つけた時、期待してしまったのだろう。
小学生最後のコンクールでは、俺はそこそこ名の知れた天才少年になっていた。
譜面通りに完璧に弾き上げるコンクール向きの演奏で、あらゆる賞を総なめした。
周りから天才だと称されて、母さんは褒めてくれた。
嬉しさの中に、恐怖を感じた。
その目は狂気に染まっていたからだ。
中学に入っても、部活動には入らずピアノを練習した。
身体が弱いことを理由に体育の授業は欠席した。
友達とカラオケに行ったり帰り道マックに寄ったり、そんな当たり前の青春すらさせてもらえなかった。
結局、進路も勝手に決められ、俺は音楽の専門学校に進学した。
しかし俺は行き詰まってしまった。
音楽を聴くのが苦でしかなくなったからだ。
楽譜を見ては目眩と吐き気を催し、クラシックを聴けば酷い頭痛が襲った。
やがてピアノもロクに弾けなくなった。
落ちた天才。
そう揶揄される度、母さんは憤った。
ノイローゼになったように、ヒステリックに怒り狂った。
『これは貴方のためなのよ!? どうして分からないの!』
睡眠時間を削り、休憩時間を削り、ピアノの練習をした。
ミスをすれば叩かれた。
飯抜きは当たり前で、出来るまでやらされた。
毎晩毎晩眼球を真っ赤にして、狂ったように弾き続けた。
『これは貴方のためなのよ! コンクールが近いんだから!』
気づけば、友達なんていなかった。
ゾンビのように学校に登校し、死人のように無言で黙々と奏でた。
もう心なんてなかった。
痛みも苦しみも悲しみも、何もかも感じなくなって、考えることを諦め、物言わぬ機械へと成り果てた。
暫く記憶はない。
多分、1ヶ月は夢遊病のように虚無に生きていた。
でも、ある日、俺が川沿いを歩いていると、ふと視界の端で少年たちが楽しそうに野球をしているのが見えた。
部活動やスポーツ少年団には見えなかったが、キャップを被ったおじさんが楽しそうに野球を教えていた。
俺はその光景を見て、長暫くその閉ざしていた心が、僅かに開いた。
フェンス越しにその光景に恍惚とした。
「そっか……俺、野球やりたかったんだ」
数年ぶりに、自分の本当にやりたいことを思い出した。
モノクロだった世界が鮮やかに色づいた気がして、訳もわからずに涙を流した。
俺のどす黒い心の底に、一筋の希望の光が差し込んだ。
「ねえ。母さん。コンクールで賞をとったらさ、一つだけ我儘を聞いてくれない?」
家に帰ると、自分の意思をはっきりと伝えた。
それまでは怖くて出来なかったことだ。
走って息切れがしたのも久しぶりだった。
「え、ええ……いいわよ。一日だけ何でも許してあげる」
母さんはまさに鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
そりゃそうだ。ずっとまともに会話なんてしていなかったし、笑顔で笑ったこともなかった。
でも何か思うところがあったのだろう。寛大な心で許してくれた。
その日からは毎日が本当に楽しかった!
ピアノの練習も頑張れた、少しだけど友達も出来た。
飯がおいしく感じた。
いっぱいいっぱい笑えたんだ。
たった一つのやりたいことが見つかったから――。
そして俺は、宣言通りコンクールで賞をとった。
譜面の奴隷じゃなく、自分らしく弾いた。
審査員が『いつもより音色が豊かだったな』『天才が復活したか』と口々に呟いている。
母さんが褒めてくれたのも、心の底から嬉しかった。
「ねえ、母さん!」
「ええ、分かってるわ。一日だけ貴方の好きにしていいわよ」
俺はついに自由を手に入れたのだ。
たった一日でも、願いは叶えられる。
次の日、俺は朝早くに身支度を済ませて家を飛び出した。
息苦しくなりながら、時間を惜しんで走った。
あの人の元へ。
誰よりも楽しそうに子供たちに野球を教えていたあの人。
「す、すいません!」
その人はいつも同じ時間にグラウンドで野球を教えていた。
今日は子供が三人。使い古されたグローブを持っている。
「どうしたんだい? 僕に、何かようかな?」
「俺も混ぜてください! 一日でいいんです! 野球を教えてください!」
あまりにも必死に訴えるもので、その人は困惑した。
高校ともなれば、野球を教わる歳でもないだろう。
「……ダメ、ですか?」
「別に構わないよ。今日はもう一人来るはずだったんだけどね、風邪ひいちゃったみたいで。――サイズ小さいかもしれないけど、グローブが一つ余ってるんだ」
「――ッ! ありがとうございます!」
そのおじさんは、嫌な顔ひとつせず笑った。
俺は受け取ったグローブを身につけて、指を怪我するからと禁止にされていた野球に触れた。
俺の野球のレベルを察すると、すぐに初歩の練習が始まった。
近い距離から取りやすいボールをふわっと浮かしてもらって、俺がとって返す。
最初は子供たちはつまらなそうにしていたが、俺が教えて欲しいと言うと、喜んで丁寧に教えてくれた。
きっと普段から教わる立場だったから、教える立場になれて嬉しかったのだろう。
体力のない俺は、すぐにバテて休憩してしまったが、誰もそのことを責めたり急かしたりしなかった。
自分のペースで、やりたいようにやっていいと言ってくれた。
そのおかげで、キャッチボールくらいなら普通に混ざれるようになって、バットで打つ練習もさせてもらった。
ホームランは流石に打てなかったが、夕焼けの空に向かってボールが高く打ち上がった。
先輩である子供たちが飛び跳ねて喜んでくれている。
バットの芯に当たった感触を噛み締め、心の奥底に溜まっていた老廃物が一気に洗い流された気がした。
「おお! なかなか君は筋がいいな」
「ありがとうございます!」
「もしかしたらプロにもなれたかもしれないね」
褒めて伸ばすタイプなんだろう、ことある事に大袈裟に褒めてくれた。
俺は叱られて伸ばすことしかされなかったから、こういう気分になるのは初めてだ。
おじさんは家庭のことには触れてこなかった。
それがとても心地よくて、何も考えずにプレイできた。
でも子供たちには関係の無い事だった。
「お兄ちゃんはなんで野球部に入らなかったの?」
「……お母さんが、ダメって言ったからかな?」
「ええ! そんなの変だよ! やりたいことがあるんだからしなきゃ!」
「……そっか。変なんだ、俺」
そんなことすら知らなかった。
俺にとって、家族が、そして母さんが全てだったから、『正しい』ことも『世間的な常識』も家庭で備わった。
子供は親の理想を叶える義務がある。
俺はずっと、そうだと信じていた。
でも本当はそうじゃなかったんだ。
――やっぱり、育った家庭が変だったんだ。
それがわかった途端、喜びが込み上げてきた。
多分、これは希望というべき感情なのだろう。
「今日はありがとうございました! みんなも、ありがとう」
「いいよ、お兄ちゃん。また教えてやっから!」
「そうだよ。また来なさい。一緒にやろう」
「……ありがとう、ございます。絶対、また来ます」
そう言って、俺は薄らと見える星空の下、帰路についた。
おじさんたちは手を振って見送ってくれた。
手はマメだらけで、ヒリヒリと倦怠感がまとわりついている。
こういう世界もありえたのか。
俺がもっと頑丈な身体に産まれていれば。ピアノの才能なんてなければ。別の家庭で育っていれば。
うん。きっとそうだ。全部、産まれた環境が悪い。
「ただいま」
「あら、おかえりなさい。すぐにピアノの練――ううん。何でもないわ。今日はゆっくりお風呂に入って寝なさい」
「うん。ありがとう、母さん」
俺は風呂から上がった後、すぐに部屋に篭ってピアノを弾き始めた。
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ピアノを弾き始めた息子に、母親は「本当にピアノが好きなのね」と微笑ましく思った。
得意としていたクラシック音楽のメドレーが終わると、どこか聞き覚えのある明るい曲調が奏でられた。
その曲が、息子が昔好きだったアニメの曲だとまでは分からなかったようだが。
それから数時間もピアノの音は絶え間なく鳴り続いた。
ずっと苦しそうな音を奏でていた彼だったが、その日だけは弾むように弾いているのが分かった。
するとある時を境に、ピアノの音は途絶えた。
糸が切れたように、突然の静寂が臨んだ。
部屋から出てくる様子のない息子に、母親は心配になって毛布を持って行った。
コンコン、とノックをして「開けていい?」と声をかけるが、中から返事はない。
寝落ちしたのだろうと仕方なく扉を開けると、直後、凄まじい刺激臭が鼻を突いた。
「うっ……何この臭い……」
窓から淡い月光が降り注いでいる。
あたりには楽譜が散乱していて、ピアノには誰もいない。
生暖かい部屋に冷たい空気が流れ込み、影がゆらゆらと振り子時計のように揺れた。
「あ、あぁ……あぁ!!」
そこには、変わり果てた息子の姿があった。
母親は糸の切れたマリオネットのように地面にへたり込み、大粒の涙を床に落とした。
「ごめんなさい……ごめんなさい!」
嗚咽しながら謝罪を口にする。
だがどれだけ咽び泣こうとも、懺悔を述べようとも、失った時間は元には戻らない。
壊れた心は、誰にも直せない。
母親は遅すぎたのだ。
たった一度でも心の声に耳を傾けるべきだった。
せめて、あの日、あの溌剌な笑顔を見て気づくべきだった。
もうとっくに、心が壊れていたことに。
生に執着せず、死という救済を望んでしまったことに。
――生まれ変わったら、今度はやりたいことはやろう。
遺書なんてなかった。
それは彼の人生がモノクロだったということ。
才能に恵まれ。家柄に恵まれ。
何だってやれたはずなのに。何だってなれたはずなのに。
彼が最後に望んだのは、たった一日の自由と、人生のリセット。
月明かりが忍び、影が揺れる。
散乱した楽譜。殺風景な一室。
その部屋からもう、ピアノの音はしない。
普段は、希望も救いもあるハッピーエンドを目指して書いていますが、この作品は『親ガチャ。-権利なき運命-』に登場するキャラの前世を描いた作品なので、このような報われないラストになっています。