第88話 お迎えです
あの誘拐事件で亡くなったのはアレンだけじゃない。
短い間とは言え、ピエロのお世話をしてくれた侍女もそうだし、長いことアナイダ港の倉庫管理を担ってくれた人もそうだ。
私の命を直接的に狙ったゴロツキの男の人たちと同様に、彼らも金銭に釣られたのかと思った。でも、そうじゃないのかもしれない。
お金よりももっと大切なもののために、動かざるを得なかったのなら。
「バルナバ、私は」
主犯と思しきボナート公爵を許せない、そんな言葉が零れ落ちる前に。部屋の扉がノックされた。
「リア、いるかい」
レイモンドの声だ。
ちらりと時計に目をやると、午後3時を過ぎたくらいだった。いつもより少し早いけど、散歩のお誘いだろう。
ハンカチで簡単に目元を拭ってから返事をする。
「そろそろ散歩に……」
扉を開けて入ってきたレイモンドと目が合うやいなや、レイは瞬時に間合いを詰めてバルナバの胸倉を掴んだ。
「えっ」
「なにをした?」
あっという間のことで、私もバルナバも何が起きたのか把握できない。
声音は静かでなめらか、声量も小さい。けれど、レイモンドが怒っているのはよくわかった。
「なんもしてねぇよ」
「ちょ、レイ」
両手でレイを押しやって首元の自由を取り戻すと、バルナバは小さく息を吐きながら衣類の乱れを治す。
「じゃあなんで泣いてる?」
「違うの、レイ。私は──」
つまり私が涙目になっているのを見て、バルナバが何か意地悪でもしたのだと勘違いしたということかしら。
「とりあえず落ち着けよ。俺がなんかして泣くような奴じゃねぇだろ」
「……」
私個人としてはいまいち納得感のない言葉だったけれど、レイモンドはバルナバの言葉に一定の理解を示したらしい。
ひとつ大きく深呼吸をしてから、すまない、と呟いた。
「詳しいことは本人から聞け。俺はお前にまで情報を開示する権限を持ってねぇからな」
「歩きながらでも話すわ」
立ち上がると、また扉のノック音とドリスの声。
ドリスを招じ入れて、外套の準備をお願いすると、ドリスはテーブルの上の紅茶に視線を投げて目を丸くしてから、隣の衣裳部屋へと消えた。
「つーか、あれ早すぎだろ。俺だって一人前っちゃ言えねぇけどさ、全く反応できなかったんだが」
ホールへと続く階段を降りながら、バルナバがぼやいたけれど、誰も返事をしない。
私も驚いたけれど、あれだけのことができるのは、精霊の力をかなりの精度で使いこなしているということだと思う。
扉からあの位置まで、男の人が大股で歩くなり走るなりしても、最低3、4歩分は距離があった。
けれどレイモンドはあのとき、部屋の入り口で床を蹴ってからバルナバの元に至るまでに、足をつけていない。
精霊が存在し、レイモンドはその精霊を動かすことができるのだ、というのが一応の世間への説明だ。
レイモンド自身が精霊魔法を使えることを知られるのはまずい。
こればかりは、誰にも、家族にだって言っていない事実だ。レイモンドを脅威とみなされたら、彼は……。
玄関扉の前で立ち止まると、ドリスが私に膝下まであるロングケープを羽織らせてくれる。
「バルナバは、しばらく島に滞在するんだったわよね? ドリスに部屋を案内してもらって」
「はいよ」
侍従が開けてくれた扉の向こう側から、冷たい風が入ってきた。冬も厳しくなれば、日々のお散歩が億劫になってしまいそうだ。
私は、フードを深く被りなおしたレイモンドと共に外へと踏み出した。
◇ ◇ ◇
「手ぇ合わせてる……」
バルナバは数十メートル先を歩く若い男女の傍で、祈るように手を合わせる年配の女に目を留めた。
ドリスに一時滞在用の部屋をあてがわれたものの、休憩が必要なほどの疲労を感じていないばかりか、逆に体を動かし足りないように思い早々に屋敷を出たのが15分前のこと。
目的地へ向かう道すがら、前方を歩く島の女領主と、不可思議な力で精霊を従える男の姿を認めたのだ。
「島で暮らす連中はねぇ、精霊ってのを信じてるんだ。そうでなくても、みんなあの子たちが好きなのさ」
背後からの声に、バルナバは驚くでもなく「そうか」と呟いた。
島に来ると、バルナバは必ずステンドグラス職人のイネスの元を訪れて薄い茶を1杯もらうのが慣例になっていた。
平民出身であるバルナバにとって、影といえど貴族社会での生活はどうしても肩がこる。
かと言って、基本的に屋敷の人間以外には、誰にも自らの姿を記憶させないよう行動することが求められる影は、気を休められる場所が多くない。
イネスは唯一、バルナバがバウド家の使用人であることを知っている住人だった。
特に世間話が盛り上がるわけでもない。ほとんどの場合、挨拶を交わして1杯の茶を飲み干すまでの時間、ただそこにいるだけの関係。
「レイモンド君って言ったっけ。あの子はいつもああやってフードを被ってるだろ? 誰も顔を知らないのに、みぃんなあの子が大好きなんだねぇ」
バルナバが振り返ると、イネスは目を細めてふたりを見つめていた。
「アンタも信頼してんのか」
「あっはっは! おかしなことを言うじゃないか。あーしは初めて会ったトキからお嬢サマを信じてるからね」
「男の話だ」
「わからないかい? お嬢サマが微塵も疑わないヤツを、あーしが微塵でも疑うかって」
快活に笑いながら、イネスが踵を返して工房のほうへと歩き出す。
バルナバもその背を追って足を踏み出した。
「この島が国になるってさ、噂には聞いてるけど、あのお嬢サマが女王サマやるんだろ」
「……」
「島の連中は、女王サマの結婚相手があのフードの子だったらいいって言ってんのさ」
イネスの言葉を聞きながら、バルナバは先刻「お嫁にはいかない」と言った女領主の表情を思い出した。
「お嬢は……自分が守るべき民と結婚はしねぇ」
「貴族ってのはそういうモンさ。でもレイモンド君はあの子が守るべき民なのかねぇ?」
「知るかよ」
黙ってイネスの後ろを歩いて工房へ入り、イネスの淹れた薄い茶を飲んで、いつものようにフラリと外へ出る。
バルナバが茶を飲み終えた頃には、イネスはもう作業に取り掛かっていた。
作業中の彼女には、何を言っても返事など期待できないことを知っているので、何も言わずに出た。
(本人だって、奴が守るべき民か否か迷ってたじゃねぇかよ。くそっ)
生まれついての貴族、生まれついての女王気質のアナトーリアにとって、ほとんどの人間が庇護対象だ。
アナトーリアの護衛である自分や、トリスタンでさえも、アナトーリアは守るべき民だって即答したというのに。
バルナバは無心を求めて走り出した。
バルナバ君は自分の気持ちの整理がつくまでにまだまだ時間がかかりそうです。