第84話 お兄様の悩みです
バウド家では平和な日々が続いているようです。
屋敷のどこからか酷く大きな扉を閉める音がして、小休憩のためにドリスに淹れてもらった紅茶のカップが、振動でカチャリと音をたてた。
続けて、お兄様の叫び声。
お兄様があんなに声を荒げるなんてすごく珍しい。きっとあとで雨が降るわね。
「ドリス、ちょっとお兄様のところへ行ってみるわ。お茶、残してしまってごめんなさい」
「では気持ちが落ち着くようなお菓子をお持ちしますね」
お兄様の返事を待って扉を押し開くと、お兄様はすでに落着きを取り戻したのか、ソファに横にかけて長い足をひじ掛けから放り出していた。
……落ち着いてはいても、機嫌は良くなさそう。
「お茶……はドリスに淹れてもらいたいな。ドリス来るんだろう?」
「ええ、甘いお菓子を持って来てくれるはずです」
お兄様の対面に腰掛けると、テーブルの上にスイと紙の束が置かれた。
何らかの報告書のような体裁であることを認め、お兄様の表情を伺う。
「少し前に、ジャンバティスタから影を幾らか譲り受けた話はしたな?」
「はい。3名、ジャンからも聞いています。そろそろひと月になりますね」
「さっき報告があった。先日、陛下と左右の丞相、それに魔導部隊の面々とが、エミリアーノ殿下の立太子記念式典に関する警備について話をしてたんだ」
元々陛下は出席の予定ではなかったんだが、と言いかけたところでノックの音。
お兄様が室内の侍女アンに目配せをして扉を開けさせると、ドリスが甘い香りと共に入室した。
どうやら、お兄様の好きな紅茶のシフォンケーキらしい。確かに、好物を食べれば多少はご機嫌も回復するかもしれない。
「ドリス、お兄様は貴女の淹れたお茶をご所望よ」
「まぁ。ではすぐに」
イタズラっぽく笑うと、ドリスもいつもより大袈裟に驚いた振りをしてお茶の準備に取り掛かった。
「……で、だ。その話し合いがランチミーティングだったから、陛下も気まぐれで参加したらしい。それはピッポ伯も仰っていたから間違いない」
──と、突然陛下も来るんだもん、び、びっくりしちゃうよ。
ピッポ伯が泣きそうな顔でお兄様に愚痴るのが容易に想像できてしまうわね。
「そこに、乱入者だそうだ」
「乱入者?」
「クララ・フィンツィ男爵令嬢……と、フィルディナンド殿下」
「あら」
お兄様が溜め息をひとつ吐いてフォークを手に取ると、大き目に切ったシフォンケーキを口に運んだ。
ケーキはお兄様の口内の水分を奪い取ったらしく、苦しそうな表情をしたところにドリスが水を差し出す。
ほんとによくできた侍女だと思う。
「ありがとう、ドリス。それで、報告書によるとクララはまたしてもアニーを魔女だと言い募った上で、早く精霊を落ち着かせないと、島の山が噴火すると言ったらしい」
「噴火……」
まぁ、間違っていないわね、と思う。
私が魔女でないことと、精霊は十分落ち着いていることを除けば。
「またいつもの戯言かと陛下がふたりを追い出そうとしたとき、その情報は正しいと補足した人物がいた。誰だと思う?」
「ボナート公爵様ですか?」
「いや。……キアッフレードだ」
予想だにしなかった名前がお兄様の口からこぼれ落ち、室内にはドリスが紅茶を淹れる音が響いた。
「魔導部では、エスピリディオン島の山から不安定なデータを観測しているそうだ。但し随分前から、それこそ観測を始めた初期から同じ状態なため、気にしてこなかった」
「まぁ……」
「他の山の状態と比べ、またここ数十年の間に集めたいろいろなデータと比較し、それが噴火前の状態によく似ていると最近結論付けた」
魔導部からの情報は魔科学的な根拠に基づく推論であり、クララの魔女発言より余程信憑性があるわね。
それに、最近結論付けて、かつその発表が今までなされていないことから、クララの発言の信憑性まで担保されてしまった。
キアッフレードの言葉はなかなかのパンチ力だわ……。
「クララという邪魔が入ったことで、立太子記念式典についての話し合いは一旦中断して解散になった。
フィルディナンド殿下は、国王陛下に立太子について再度考え直すようにと話をし始め、その間に部屋を出たキアッフレードをクララが廊下の隅へ引っ張り込んで内緒話、と」
「内緒話の内容は」
「キアッフレードに気取られて、手近な空き部屋に逃げられたために聞けなかったそうだ」
お兄様がテーブルの上の報告書を指でコツコツと叩く。
これは由々しき事態……かしらね。けれど、こちらから対処できるようなものでもないし、注視しておくしかないかしら。
「それで、なぜお兄様はご機嫌ナナメでしたの?」
「なんでって……」
一瞬言いよどんだお兄様は、私の表情を探るように眺めてからまた溜め息を吐いた。
そんなに溜め息ばかり吐いていると幸せが本当に逃げてしまいそうだ。いや、逃げているからこの人は結婚できないのかもしれない。
「キアッフレードはクララの言葉を補強したばかりか、クララと密かに繋がりがある可能性が出た。その危険性くらいはわかるだろう。それに、だ」
「この報告書をよこした影をどこまで信じていいかわからない?」
「……わかってるじゃないか。影もキアッフレードも、今の我々にとってはもしもがあってはいけない存在だ」
お兄様はまた一口、シフォンケーキを口に運ぶ。今度は先ほどより少し小さめのサイズに切り分けられていた。
私もケーキをいただくことにする。添えられたクリームからも紅茶の香りがした。
「美味しい! とってもきめの細かい生地ね。しっとりしていて柔らかくて……」
「アニー」
「お兄様らしくないですわ。いつもならすかさずオクタヴィアンとトリスタンに双方を調べさせるでしょうに」
「彼らを俺はもう使わないし、ジャンから譲り受けた影は優秀だ」
影としては優秀だから。
もしオクタヴィアンやトリスタンに探らせて、かち合ったら失うものも大きいか。
キアッフレードも同じだ。
優秀な影の動きすら気づくのだから、オクタヴィアンやトリスタンが気づかれない保証もない。バウドが彼を探らせたと知られれば、それも面倒だ。
「では信頼するしかないのでは? 信頼を得るには信頼するしかありません」
「だから腹を立てている。ぶつける先のないもどかしさという奴だ」
「……最近、お兄様はソラナス卿のお世話に熱心だとか。そちらに時間を割きたいのであれば、もう全面的に信頼するほうが早──」
言い終わる前に、お兄様がカップをひっくり返してしまう。
これは大当たりかもしれない。
楽しくなってまいりました。
慌ててテーブルの上を片付けるアンと、新しい紅茶を準備するドリス。
彼女たちは気づいているかしら? お兄様の溜め息が最近なんだか熱っぽいことに。
「ソラナス卿の名前がどうしてここで出てくるんだ。と、とにかく……」
「とにかく、疑っていることが気づかれれば、今まで築いたものや手に入れたものを失うのですから、当面は様子を見るしかありませんわ」
「ああ」
「焦っても仕方ないという意味では、たぶん……恋も同じでしてよ」
お兄様の声にならない叫び声を背中に受けながら、私は自室に戻ることにした。
おや? ラニエロ君の様子が……




