第82話 課題解決=商機
──彼はここ最近ずっと、修行に連れ出されているけど、今日は多分……
ジャンバティスタは公爵家の広い庭を散策しながら、十数分前のアナトーリアとの会話を思い出した。
気の強そうな顔でありながらどこかボンヤリしている公爵令嬢の後ろで、いつも獰猛な獣のような目で周囲を伺っている男が、なぜか今日は見当たらなかったのだ。
所在を問うと、同じチームの年長者から半人前の扱いを受け、実戦と鍛錬を重ねているのだと聞かされた。
当初、久しぶりにリオネッリ邸に帰ろうかと考えていたジャンバティスタは、バウド公爵家の隠密チームのこれからに不安を感じ、彼らと話をするために今夜はバウド邸で過ごすことに決めた。
(数が足りなすぎる……)
バウド家は元々、隠密の役目を負う人間を多く持っていない。
分家するだけでなく国を跨ぐことになるならば、その隠密チームを共有することは難しい話となるだろう。
(障害があるほうが燃えるのは、そこに多くの利があるからだ)
歩を進めるごとに、誰かの荒い息遣いが聞こえてくる。
アナトーリアから事前に知らされていた通り、最年少の影は庭の片隅の草木に埋もれるような死角の中で、ひとり鍛錬に励んでいるようだ。
それが突然、無音になる。息遣いも気配もない。
ジャンバティスタが歩むべき方向を失って立ち尽くすと……。
「何してる」
それは背後にいた。
「思ったより早いね。でも君の師匠ならもっと早く気づいてるんじゃないかな」
「チッ。わーってるよそんなことは。何してると聞いてるんだが」
ジャンバティスタの背後をとっていた男は、ゆっくりと前に回って元いた場所の方へと歩いていく。通り過ぎざまにちらりと見えた深い海の色をした瞳は、焦りを滲ませながら鋭く光っていた。
「君は島に行くんでしょ」
単刀直入な質問に、バルナバはすぐには答えない。
歩きながら頭の後ろをポリポリと掻き、大きくため息を吐いて一言、「いや」と呟く。
「え」
ジャンバティスタが真意を問おうとその背中を追いかけ、目の前の大きな木の裏側に回るとそこは開けた小さな空地になっていた。
バルナバは自らが今までにすっかり踏み固めてしまい、雑草の一つも生えなくなった土の上にどかりと座る。
「俺は残る。弟がいるしな。それに──」
聞いてしまったのだと続けた。
バウドの闇を支える二本の柱の会話を。
『お前は行くんだろう』
『もちろん。俺の剣はお嬢様のためにしか振るわない』
『ついにコンビ解消か』
『兄さん、覚えてるかな。彼女は女王になるんだ、王妃じゃない』
『わかってる。だがな……』
『いつからそんな献身的になったんだか。騎士でもないのに』
『うるせぇ』
「会話の意味はわかんねぇよ。でもさ、オクタヴィアンも行きたいんだろ、ほんとは」
胡坐をかいた膝の上に肘を、その手の上に顎を乗せて、バルナバは吐き捨てるように言った。
「アニー様ってさー、ほんとヒトタラシだよねー。みんなあの子のそばにいたがる」
「……」
ジャンバティスタもまた、踏み固められた土の上にバルナバから50センチほど離れて座る。
片足を投げ出して、もう片足を胸にかき抱くように。
「それ以上にさ、みーんなあの子の願いを叶えてあげようとするよね。例えば、自分を押し殺してバウドに残りたがったり」
見上げた空はもうすっかり薄暗く、最上位貴族の屋敷では惜しげもなく部屋中に明かりが灯っている。
「押し殺してはないだろ。そうしたいんだから」
「だけど、自由にできる俺のこと、ほんとは羨ましいんじゃないのー?」
「んー。……もし、この家に数え切れないくらいの影がいたとしても、俺は残ったんじゃねぇかな」
近くの小石を摘まんでは投げ、摘まんでは投げるバルナバは、言葉を区切って手の中の石を転がした。
言葉を選ぶように、セリフをこねくり回すように。
「この国の王様は、いざとなりゃ島と戦争するんだろ? そんないざは来てもらっちゃ困るけどな。
もしそうなったら、俺とピエロが敵対する。俺は、お嬢を守るために命を捨てることはできるが、お嬢を守るためでもピエロにだけは刃を向けられねぇ」
服が汚れるのも厭わずゴロンと仰向けになったジャンバティスタは、夕空の中に鮮やかに光る大きな星を見つけ、見つめた。
夜と呼ぶにはまだ明るい空で光り輝くそれは、どんなに恋焦がれてもこの手に掴めない。
「いつかピエロはすげー強くなって、バウドのために剣を振るう。間違いなく俺より強くなる。ピエロに俺を殺させたくねぇんだよ」
「こっちに残れば、アニー様と敵対するけど?」
「そのときには、相手の命を奪わない自由がある」
冬の冷たい風が吹き抜ける。
不器用な男の選択を聞いて、ジャンバティスタは相手の顔を探るように覗き込んだ。
「そもそも戦にしないのが隠密の仕事じゃない?」
「俺だけで全部防げるわけじゃないし……それだってこっち側のほうがやりやすいだろ。お嬢から戦をしかけることはねぇんだから」
「そりゃそーだ」
小さく門が開く音が風に運ばれ、ほどなくして馬車の音が響いた。
家人──チリッロか、ラニエロか、または両方か、が帰宅したのだろう。
それらの音を合図にしたように、二人の男が立ち上がる。
「戦にならない可能性のほうが高いのに。君、バカだよ」
「いつか考え直すこともあるかもな。なんにしたって、弟が独り立ちするまでは生活費稼がねぇと」
話は終わりだとばかりに、また鍛錬を開始したバルナバに背を向け、ジャンバティスタは来た道を戻る。
やっぱりバカだよ、と呟きながら。
(さぁ、状況はわかったことだし、資金集めにいきますか)
「なんの用だ」
鋭利な剣と呼ばれる、右丞相の補佐たる書記官ラニエロは、その冷たい瞳に苛立ちを隠さず乗せて言う。
なんのアポイントもとらずに部屋を訪ねたジャンバティスタにとって、その程度の冷遇は予想の範囲内であり、意に介さずニコリと笑った。
「バウド家のお困りごとを解決しようかと」
「困りごと……?」
ただでさえ苛立ちで眉の寄った表情が、瞳が細められたことでより冷たい印象になる。
「影。融通しますよ」
「は?」
「ワタシはアナトーリア嬢の立国に際し、島へ移る予定です。いくらか身辺整理もするので……ワタシの手駒をバウドに譲るという話です」
ラニエロの表情は変わらない。
ジャンバティスタは、いつも通り隙の無い商人の笑みを湛えていた。下心を隠さない計算高いその表情を、ラニエロが気に入っていることも、知っている。
「影は家の命そのものだ」
「わかっています。だがワタシはもう、バウドと、アナトーリア嬢に自らの人生を預けているも同然。ヘタな人材を寄こしはしませんよ」
ややあって、ラニエロは扉の前に立ったままのジャンバティスタを、ソファにかけるよう促した。
ラニエロもまた、棚から琥珀色のボトルとグラスをふたつ取って対面に座る。
「先に、どんな見返りを期待しているのか提示しろ」
「ふふ、卿は話が早くて好きですよ。ワタシが期待しているのは、単純にカネです」
「……珍しいな」
背の低い円柱型のグラスは、良く磨かれて曇りひとつない。
注がれた液体からは芳醇な香りが立ち昇って、ジャンバティスタの鼻腔をくすぐった。
なんかよくわかんないけど、バルナバって勝手にイイ男風になるんだけどなんで?
あとジャン君とラニエロ君の会話ほんと高度な情報戦すぎて書いてて楽(駄目作者