第80話 変化の訪れです
「領内をこうやってのんびりお散歩するのは久しぶりだわ」
例の事件のあった港よりも北にあって、屋敷からもそう離れていない浜辺は小さい頃からのお気に入りの遊び場だ。
サラサラとした砂が私の足をとるけれど、以前よりもずっと、浜辺を歩くのも上手くなったと思う。
「ここしばらくずっと島にいたからね。……ああ、その前だっていろいろ狙われていたんだったね」
横を歩くのは、深くフードを被ったレイモンド。
島で作業をしている人々と違って彼を初めて見る民ばかりだから、その風体にみんな驚いているようで、通り過ぎてからも振り返ってこちらを見る人も多い。
「んー、そう。ずっとね。随分小さなうちにフィルディナンド殿下との婚約が成ったでしょう。誘拐もそうだし、命も狙われるし。ゆっくりしたのは、オクタヴィアンとトリスタンと遊んだのが最後よ」
「そうか……」
我が家の闇を支える兄弟は、昔おじい様が他国から連れて来た。
こちらに来たばかりの頃のふたりはとてもピリピリしていたし、それにご家族を亡くしたらしいとも聞いた。
浜辺で遊ぶのはもう禁止されていたけど、無理を言って2人を連れて来させてもらったんだわ。
「トリスタンが私の剣になってくれたのはその時。だからかしら、ここは特に大好きな場所なの」
遠くに見えるエスピリディオン島。今の時間なら太陽は島の上にあるはずだけれど、今日は生憎の曇り空だ。
並んで歩いていたはずのレイモンドがふいに立ち止まり、私は振り返って様子を伺った。
「この眺めはずっと変わらないな」
「え……」
「子供の頃、僕もここから島を眺めたよ。これから自分の一生のほとんどを過ごす場所だと思ってね。一生以上の時間を過ごしてるけど」
ふふ、と笑ったレイモンドは、いつか島の岬から本土を眺めたときと同じ、震える小さな子のように見えた。
「眠りにつく前は覚悟していたつもりだった。次に起きるときには、世界はまるで違っているって。なんなら、少し楽しみな一面すらあった」
「……」
「びっくりしたよ。本当に、違う世界だった。二度も違う世界で目覚めるなんて思わなかった。また僕は家族を失って、故郷を失って、しかも今回は僕の存在自体失ってた」
いいえ、これは小さな子ではない。
その声は決して後悔を含んではいなくて、もっと希望に満ちているような気がする。
レイモンドはフードを浅く被りなおして、真っ直ぐに島を見た。彼の澄んだ黒い瞳が見えるのは、空を飛ぶ白い鳥だけだ。
「……君は、僕という存在を歴史上に取り戻そうとしてくれたね。国籍を、と言ってくれたときすごく嬉しかった」
「嘘。困った顔してたのに」
私が苦笑すると、レイモンドはパッと顔を綻ばせてこちらを見る。
……だめ。
「いや、あの時は君の負担が心配だったからね。だけど嬉しかったんだ、それは本当」
息をするのも忘れて彼の表情に見入ってしまう。
だめ、よくない。
「国王へ会いに行くのは君と島のためだと思ってたから。まさか僕のためも含まれるとは思ってなかった。でも君は、僕の居場所も精霊たちの居場所も勝ち取ってくれた。……故郷ができた。ありがとう」
半年前に作った心の壁が崩れていくような気がして、私は慌てて目を反らす。
壁の向こう側で育ちたがっている小さな感情を、私は多分知っている。知ってるから、もう一度しっかりと壁で囲むのだ。日を当てないように。
これから立国するなら尚更、政治に不要な感情を持つべきじゃない。長く細く息を吐ききってから笑顔を作る。昔たくさん練習した、王妃の笑顔を。
「障害はまだまだたくさんあるわ。気合を入れ直さないとね。それに、私だって感謝してるの。こうやってのんびり歩けるのも、レイや精霊たちのおかげでしょう」
ちらりと周囲を見渡す。
冬の浜辺には私たちしかいないように見えて、実は遠くに何人かの護衛がついて来てくれている。
それでも。こうやってプライバシーが確保できるのは、神の加護とレイモンドの存在があればこそだもの。
「そろそろ戻ったほうがいいかしら。雨が降りそ──わっ」
来た道を戻ろうと振り返ったとき、手首をつかまれ引っ張られるような感覚に、慌ててレイモンドを仰ぎ見る。
「何か無理しているね?」
「いいえ。……いいえ」
時が止まったみたいに、見つめ合った。
レイモンドの瞳は何か探るみたいに揺れ、私は見透かされまいとより一層強い眼差しで見返す。
視界の奥にある厚い雲が形を変えながら流れていく。空の上は風が強いのかもしれない。
息が詰まる。
耐えきれないと思ったとき、ついに手首の戒めから解放され、レイモンドがつと目を反らした。
「ならいいんだ」
屋敷に戻ると、どうにも難しい顔をしたお父様が待ち構えていた。
気を遣って客室に戻ろうとしたレイモンドをお父様が呼び止めて、3人でお茶を囲むことに。ローザの作ってくれたマカロンが、ちゃんと美味しくいただけるような内容だといいのだけど。
「まぁ、たいした話ではないんだ。レイモンドが望むなら、家庭教師をつけてもいいと思っていてね」
「家庭教師ですか」
「現代のマナーだとか、エーテル学の基礎、それに……」
「お願いします」
お父様の言葉に被せるように、レイモンドが頭を下げた。
私もお父様も、驚いて一瞬声をなくす。
「む、無理はしなくていいのだが」
「いや、是非お願いしたいです。僕はこの時代を生きる術を何も持たない。島は僕にとっても大切な場所です。島が国になるなら、僕もまたそれにふさわしくないといけない」
私は口を開きかけて、やめた。
政は私の仕事。レイモンドはあくまで正当な巫覡として、今までと同じように生きてくれればいい。そう思っていたけれど、それを決めるのは私ではないと思ったから。
──殿方がそうと決めたことに口を出してはいけません。
いつかのお母様の言葉を思い出す。
殿方だからとは思わないまでも、島を大切に想うひとりの人としてそう決めたなら、私に何か言う権利はないのだ。
それに、「今」を学ぶことで彼の居場所が広がるのなら、素晴らしいことだもの。
「では、手配しよう。……先日、王城で陛下から賜った提案については、早速動きだしているよ。今後、アニーが議会に呼ばれることも増えるだろう。
それにレイモンドも、家庭教師の件もそうだが、陛下は君とまた話がしたいと度々仰っていてね。また声がかかることもあろう。しばらくはこの屋敷を拠点にしてもらえるとありがたい。
もちろん、二人とも島に戻ってはならないということではないよ。ただ居場所はできるだけ明かしておいてほしい」
私とレイモンドに関して言えば、精霊の協力ありきとはいえそんなに時間をかけずに島との往復が可能だ。
精霊の協力がなくたって、そんなに遠い距離でもないし。
だからお父様の言葉に私たちは素直に頷く。神殿の建設も、たまに様子を見に行けば恐らく大丈夫だろう……。
「話はまだまだあってね。バルテロトからソラナス卿が亡命するのも近々となったのだが、全て上手くいったら、アニーにも手伝ってもらうかもしれない」
「ええと……バルテロトの姫君の亡命ですわね。私が何を……」
「当面の生活の世話を外政部のルケッティ伯に任せるつもりだが、姫君の話し相手がメアリだけでは負担も大きかろうと思ってな」
お友達のメアリは、お父上が外政部の大臣だ。キャロモンテにやって来るバルテロトのお姫様のお話し相手をメアリが担うとなれば、確かに負担は相当なものだろう。
「そういうことでしたら、ええ」
「あと、どこから話を嗅ぎつけたのか知らんが、釣書が2通。きっとこれからも増えるだろう。どうするね?」
「えぇ……」
お父様の後ろに控えていたエルモが、テーブルの上に2つの釣書を並べた。
もしかしたらとは思ったけれど、早すぎる。
私が立国することで、是非王配に、ということだ。
テーブルに並べられたそれは、一方は割と大きな力を持った侯爵家。一方は貴族名鑑の隅に申し訳程度に載っている男爵家のものだ。
「随分と家格が……」
「ダメ元もあるだろうが、賢いやり方とも言えるよ。新たな国を立ち上げるのだから、元々強すぎる貴族は選ばないかもしれないからね」
上位の貴族と結びついて一層強い権力を持てば、周囲の圧力や反感も強くなる。
ただの婚姻であれば、強者同士が結びついてそれぞれに牽制し合うのだろうけれど、国を持つとなれば話が変わる。
「このタイミングでお話をくださった方々は、一旦全員お断りします。お願いできますか?」
「ああ、もちろんだよ」
超機密事項がバレてますね、全く。
いま釣書をよこした人たちは有能スパイがいるか噂を真に受けるおバカさんなのです、たぶん。