第72話 雨宿りです
レイモンドは洞穴の入り口にゆらりと立ったまま、フードの先や袖先、ローブの裾からぽたぽたと水滴を落としている。
「すごい濡れてる! 大丈夫? どうしてこんなに……。もしかして、探してくれたの?」
「ああ。イフライネから、君が僕を探してたと聞いてね」
「どうしよう、イフライネを呼んでるのに来なくて、だから火を起こせないの。彼に何かあったのかしら?」
ほとんどびしょ濡れと言えるレイモンドを前にして、私は彼の衣類や肌を拭うものを何も持っていないために、手持ち無沙汰だ。
おろおろと手を上げたり下げたりするしかできない。
レイモンドがこんな状態であることはもちろん、イフライネの身に何かあったのなら、それも心配だ。ロッジに戻ってエストに確認するのが早いだろうか。
「……いや、イフライネは大丈夫。僕がいるから問題ないと判断したんだろう」
「……?」
私が首を傾げたとき、レイモンドは右手に持った杖をカツンと地に打ち鳴らし、その音が響くとともに薄暗かった洞穴に灯りが点った。
ふわりと体が温かくなって、振り向けば足元で小さな焚き火が起こっているし、レイモンドも私ももう衣類がすっかり乾いている。
「すご……」
「雨の中、濡れたまま洞穴で過ごそうとするなんて、相変わらずお転婆だ」
「イフが来てくれると思ったから……」
私の言葉にレイモンドは返事をせず、フードをおろしてからどしりと焚き火の前に腰を下ろした。
「ほら、リアもこっちへ」
差し出された大きな手に自分の手を乗せると、ゆっくりとレイモンドの隣へ座るよう導かれる。
手を重ねていることも、隣に座ることも、なんだか照れくさい。
薄暗い洞穴で、ゆらゆら揺れる炎に照らされながら、ふたりだけの空間で。それらがいつもと違う雰囲気を創り上げているのだと思う。
さらにいつもと違うレイモンドの空気に、私は押し黙っていた。
怒っている感じではない、だけどもちろん楽しそうでもないし、まるでこちらを見ようとしない彼によそよそしさを感じる。
この洞穴に残っていた少しの枯れ枝は、決して燃料になり得るような量ではないのに、学校で習ったエーテル法則を無視して煌々と燃え上がっていた。
「リアは……」
しばらく続いた静かな時間を終わらせたのはレイモンドだった。
「これからのことをどう考えている? どうしたい?」
「え……」
思いもよらない質問だと思った。
炎を見つめ続けるレイモンドの瞳には、明るすぎる炎が映り込んで彼の感情を隠してしまう。
「それは、どれくらいのスケールの話……?」
「君が思い浮かべた、全てのこれからを」
ことりと首を傾けるようにしてこちらを見たレイモンドの、その瞳にはもう炎はないのに、やっぱり感情を見つけられなくて居心地が悪くなる。
最近、私はいろんな人の考えていることがわからなくなっている気がする。あらゆる情報を基に相手の考えを読むのは、王妃教育においても重要な位置づけだったのに。
「これから……できればドリスが怒る前に帰りたいし、ロッジに寄ってドリスを安心させたあとでお祈りに行きたいわ。
神殿を完成させたらみんなでそれを眺めて喜びたいし、ああ、その前に、今度レイと陛下への謁見が叶ったら、ぜひとも貴方の国籍発行をお願いしたいとも思ってる」
「それは……」
レイモンドは眉を下げて困ったような顔をした。困った表情の奥の本心は、やっぱりわからないままで。
「全部誰かのためのものだ。君は、君自身のためにしたいことはないのかい」
「──!」
何か言おうとして、だけど言葉は何も見つけられず、肺の中の空気だけが出て行ってしまったような気がした。
私のために私がやりたいこと。
「えっと……身に覚えのない罪を着せられて死を覚悟したとき、すごく個人的なやり残しを思い出して残念に思ったことはあるわ」
「へぇ……、それはどんなこと?」
レイモンドが意外だとでも言うように目を丸くした。
「内緒。それでね、私は死を前にして願った事柄を今も覚えているのに、それでも誰かのために、民のためにやれることがあるなら、そちらを優先したいと思うのよ」
ケーキが食べたい。市井に遊びに行きたい。……恋がしたい。
これを、私はなぜだかレイモンドに伝えるのが憚られた。些細で普通の願いだと思うのに。
「君は責任感が強くて、常に誰かの幸せを願って生きているが……自分を犠牲にするのだけはやめてほしい、そう思ってる」
自分を犠牲にするな。そんなレイモンドの言葉を反芻する。
自己犠牲なんて、ほとんどの場合において忌むべきものだと思ってる。思ってるけど、それは貴族には適用されない、とも思ってる。
民のため、国のため、家のために生まれて死んでいくのが貴族だから。
「貴方がそう願うなら善処するけど、でもそれがアイデンティティになっていると思うから、難しいわね」
「ああいや、リアらしさを失ってほしいわけじゃないんだ。ただ……ぼ、いや、そうだな、君を必要としている奴がいるのを忘れないでほしい」
「……くっ、ふ、なにそれ。ふぁ、……あははは! 矛盾してない? 可笑しなこと言ってどうしたの、レイモンド?」
人のためじゃなくて自分のためにって言いながら、私を必要とする人を忘れるな、なんて。ものすごい矛盾!
お腹を抱えて笑う私に、レイモンドは唇を尖らせながらそっぽを向いてしまった。
「笑いすぎだ……」
「だって! ふふ、でもありがとう。私はね、貴族じゃない自分を想像できないから。だから、民を幸せにできたら私も嬉しい、そう思うの」
王妃なら、できることも多かったかもしれない。
その道が閉ざされた今、女であるというだけで民のためにできることが、とても少なくなる。
だけど。
「エストの加護も、私の身にあるという魔力も、この島の領主であることも、私は嬉しい。できることが、民を笑顔にする手数が増えるのが、すごく」
語りながら、たまたま近くにあった枯れ葉をポイと炎にくべる。枯れ葉は、この雨で少し湿ってしまったのかすぐには燃えず炎の中にその形をとどめていた。
投げ込んだ葉が少しずつ形を変えていくのを見つめていると、左側から衣擦れの音。
顔を上げると、レイモンドが体ごとこちらを向いて私を見つめていた。
「レイ……?」
苦し気に寄せられた眉、細められた瞳。
ゆっくりと近づくレイモンドの手。組み紐のない右腕。それは私の左肩に触れたかと思うと、一瞬だけ躊躇して──。
「無理はしないでくれよ」
ぽん、と私の頭に乗せられた大きな手と、優しい笑顔。
レイモンドが何か言葉を飲み込んだような気がして、私は戸惑いながら曖昧な笑みを浮かべる。
「もちろん」
「さぁ、どうやら霧雨になったようだから、戻ろうか」
手に取った杖を支えに立ち上がると、またいつものように、なんでもないことのように、私に手を差し出してくれた。
レイモンドに内緒にした「やり残し」のうちのひとつは、ジャンがもう叶えてあげてるんだよなぁって知ったらレイはどんな顔をするんだろう。楽しくなっちゃいますね。