第70話 人探しです
玄関扉の開閉音に、一瞬エストと目を合わせたものの、どちらもそれを特段気にすることはなかった。ドリスが外に出たのかもしれない。
お互い、なんとなく心に浮かんだ些末なことに思いを巡らせ、無意識に連鎖していく思考を楽しんでいると、静かにドリスがダイニングへやって来た。
「あら……どこかへ出かけたのかと」
「いいえ、わたくしはどこにも」
「さっきのはレイモンドじゃよ」
さもなんでもないことのように呟いた島神を振り返る。
小さな島神は琥珀色の液体が揺れるグラスで口元を隠しているけど、ニヤついているのがわかる。
「知ってたの?」
「すぐ近くまで来たのに引き返して出て行ったから、なんぞ用事でもあったんじゃろう」
「……そう」
すぐ側まで来て何も言わずに出て行くのだから、よほど重要なことでも思い出したんだろうか。
ただ、エストがこの表情をしているときは何かある、と考えたほうが良さそうだと最近学んだのだ。大体嫌な予感しかしない。
「そろそろ出かけようかしら。ドリスはまだリストアップも途中でしょう? 無理について来なくても大丈夫よ」
「……では、そうさせていただきます」
ドリスは瞬間的に逡巡しつつも、素直に引いた。
改めて島に来てからの3日間、朝と夕のお祈りはレイモンドと一緒に湖のある草原でやるようにしていて、その前後で彼と散歩して運動不足の解消をしている。
島を取得して以降、書類仕事も激増して部屋に引き籠ることが増えたので、歩き回れるときには是非そうするべきだ。
ロッジを出ると、建設作業に精を出す人々がそれぞれに働いたり休憩したりと動き回っていた。
ベースキャンプ内をぐるりと歩いてみたけれど、レイモンドの姿はない。いつもなら、ゲノーマスと一緒に建設作業のお手伝いをしているはずなのに、今日はゲノだけだ。
「お嬢様! レイモンドさんをお探しかい? さっきアッチのほうにとぼとぼ歩いてくのを見たよ」
「ありがとう!」
大きな声で手を振っているのは、食堂のおばさん。
ジャンからの最初の船に乗っていた彼女は、出店を希望していた定食屋の女将さんなのだけど、今回は一先ず出店ではなくジャンとの直接契約でキャンプの食堂運営をお願いしている。
彼女が指した方向は海だ。港かしら、何か資材を取りに行ってるとか?
それなら道中で会えるかもしれないし、港に向かってみよう。
港には、資材の整理をする作業者が数人と、イフライネがいるだけだった。
「おっ。俺に会いに来たのか?」
「いいえ、レイモンドを知らない?」
「さぁ? てかこれ見てくれよ、灯台! めっちゃかっこよくね?」
イフライネが指し示した先には、大きな円筒形の建物があった。すごく高いわけではないけれど、それでも十数メートルはありそう。
曇った日や日没後に航行するときの目印になるものが欲しい、と言われていたのを思い出す。
「作ってくれたの? ありがとう。でもこれ、どこから入るの?」
「石を積み上げただけだからな、入るもなにも、そもそも中がない」
「ええ?」
どおりで、入り口も何もないわけだ……。
「俺が勝手に火をつけるだけだから」
「あ……まぁね。でもいつか多分、人も登れるようにどうにかしてって言うと思うわ」
私の反応がイマイチ薄いのが気に食わないのか、何度も首を傾げながら灯台らしき円筒形の石を眺めるイフライネを置いて、私は先へ進むことにした。
ここまで1本道ですれ違っていないのだから、レイモンドは途中で森に入ったか、このまま真っ直ぐ行った浜辺まで足を延ばしているかもしれない。
もう少し探してみよう、そう思って浜辺へ向かうも人影はなく、見上げた空は厚い雲に覆われていた。
いつの間にこんなに天気が悪くなったのかしら。
レイモンドはきっと森に入ったんだろう。私もそろそろ湖の草原に向かわなくては。浜辺からなら、真っ直ぐに森を通り抜けたほうが早い。
浜辺から草原までの道のりを歩くと、どうしても初めて島に来た日のことを思い出してしまう。
あまりにもいろいろなことがありすぎて、随分昔のことのような気がするけど、まだ2か月も経たないのじゃないかしら。
夜じゃないとはいえ、厚い雲のせいでほとんど光がない上に、木々がその微かな光さえも遮って、森の中はとても薄暗い。
以前レイモンドからもらったネックレスのおかげで、野生動物から狙われることはないはずなのだけど、慎重に歩かないとすぐに道を間違えてしまいそうだ。
「あ……雨」
ぽつり、と私の頬に冷たいものが当たる。
木々は光だけじゃなくて雨粒も多少は遮ってくれるはずだけど、それでもぽつりぽつりと水滴が落ちて来て、どんどんとそれは勢いを強めていった。
枯れ葉、草、枝、いろいろなものが横たわる山の地面は、濡れればそれだけ滑りやすくなる。無理に草原を目指せば、転倒したり斜面を転がったりする可能性も高くなるだろう。
やみそうにない雨雲を仰ぎ見ようとして、私は頭上の林檎の木に気づいた。
さすがにもう実を付けてはいないけど、ゲノーマスが私を元気づけようとして育ててくれた林檎だ。忘れるわけもないし、それにあの木があるならばこの近くに洞穴があるはず。
私は林檎の真下の岸壁になっている部分に手をつきながら歩いた。洞穴は確か入り口が蔦に覆われてわかりづらくなっていたから、見落とさないようにしなければ。
洞穴はなんの問題もなく見つけることができた。
ただ、ここに到着するまでの間に随分と雨に濡れてしまって寒い。それにここには何もない。林檎も、火をつける枯れ枝も。
精霊を呼ぶべきだとわかっていながら、つい、もうちょっと、と何かを待ってしまう。いや、特段何を待ってるわけでもない、ただの先延ばしだ。
だってゲノーマスは建設作業を手伝っていたし、イフライネは灯台をいじるのが楽しそうだった。ウティーネやシルファムではこの状況を打開できそうにないし。
そもそも厚い雲を見てこうなることは予測できたかもしれないのに、私がまたしても迂闊だったから忙しい精霊を呼ぶのが申し訳ないのだ。精霊を忙しくさせてるのも私だし……。
困った。困ったけど、濡れたドレスは容赦なく私の体温を奪っていく。
風邪を引いたらもっと怒られるだろうし、諦めて呼ぶしかない。諦めるもなにも、何と戦っているのか自分でもわからないのだけど。
「イフライネ……助けて……」
ここでイフライネを呼べるようになったのは進歩だと思う。呼ばないと後が怖いのだとちゃんと学習できている。
本当はゲノーマスを呼んですぐに連れて帰ってもらう方がいいのだと思うけど……、いいえ、ドレスや髪を乾かしてもらって、焚き火で温まってからのほうがいい。
濡れた状態でゲノーマスに疾走されたら寒すぎる。
「……」
イフライネが来ない。
どういうことでしょう。いつもピンチになったら呼べと口うるさく言うくせに。えっ、見捨てられた……?
……寒い。指先が白くなっている。少し身じろぐ度に、肌に張り付いている水を含んだドレスが空気に触れて、私の体温を奪っていく。
仕方ない、いつまでもこうしているわけにいかないし、ゲノーマスに連れて帰ってもらおう。
と、その時、入り口のほうでガサリと音がした。
「イフラ……」
「……イフライネじゃなくてすまない」
そこにいたのは、レイモンドだった。
やっと呼んでもらえたのにイフライネ君が来ない……だと?