第64話 衝撃の事実です
『──ッ』
「あ、ごめ……えっと」
一瞬表情を硬くしたイフライネが、ふっと微笑んでから両手を肩の高さに上げてひらひらと振った。
『お前の許可なくどうこうしねぇよ』
「ん……ごめ、ありがとう」
『もちろん、俺に理性がある前提でな』
どう返事をしていいのかわからない私に、さらにイタズラっ子のような笑みを深めて、イフライネは手近な椅子に腰掛ける。
精霊と人間の恋の先がどうなるのか、何があるのか、私は知らない。
昨日はなんとなくスルーしてしまったけれど、イフライネは精霊界という表現をしてたはずだ。
精霊界とは何なのか、人間が精霊界へ行くとどうなるのか、気になるけど……聞く相手は、イフライネじゃないほうがいい気がした。だってただの好奇心だから。
「ね、それよりさっきの話」
『なんだよ、ロマンチックな雰囲気作ろうとしてんのに……。なんだっけ、あー、ヤナタか』
「そう、それ。前にね、エストもその土地それぞれに神がいるって言ってたのだけど、それがヤナタだなんて」
私が初めて島に行って、エストからいろいろな説明を受けたときだ。土地のエネルギーを平らかにするのが神の仕事だって。
エスピリディオン島で最も大きなエネルギーが蓄積されているのが、あの活火山。
本来なら、その溜まったエネルギーを別の土地へ循環させなくちゃいけないのだけど、信仰がない今は無理矢理に抑え込むのがやっとだとか。
『アッチは規模が小せぇからなぁ。その割に信仰自体はこそこそずっと続けてっから、土地そのものは島よりまだ肥沃よ』
「ヤナタはキャロモンテ建国と同時に属国になってるけど……ブールはカルディアを落とすよりも先になぜヤナタに向かわなかったのかしら?
ヤナタのほうが余程小さな国なのに」
『ヤナタはブールから分裂してできた国だろうが。歴史のお勉強が足りな過ぎる。ま、昨日の隣人を敵にしたくなかったんじゃねぇか』
「う。ごめんなさい」
イフライネが呆れたように溜息を吐いて胸の前で腕を組んで、私は返す言葉もなくうなだれる。
ブールは信仰がなく魔科学の発展した国。ヤナタはキャロモンテの属国となって以来、表向きは信仰を捨てているけれど、密かに信仰を持ち続け、今また盛り上がりを見せている……。
それが元々ひとつの国だったなら、当時はそれなりの大きさの国家だったはずだけど……。
「ヤナタの土地神は、分裂前はブールまで加護を?」
『神や精霊に国って概念はねぇけど、人は国単位で祈る対象を変えるからな。まぁ概ねそういう考えでも間違いじゃねぇよ。
祈らないから加護を与えないってことじゃなくて、祈りの無い土地まで加護を広げる元気がなくなるらしくてな。分裂してからは徐々に加護も無くなったってわけだ』
赤い羽根のピスキーも言ってたっけ。最近は精霊を信じる人が増えたから、加護を広げてもらえるかもしれない、って。
島と比べれば滞ることなく信仰が受け継がれていると言っても、信じる人の数は決して多くないはずよね。キャロモンテはヤナタにも信仰を禁止させたのだもの。
祈りが小さくなる過程で、ヤナタにもレイモンドみたいに状況の改善を試みた巫覡がいたかもしれない。それに、途切れることも眠りにつくこともなく連綿と続いてきた巫覡の文化にも興味がある。
「ヤナタの巫覡はどんな方なのかしら」
『……いねぇよ』
「え?」
『分裂前にブールと内乱、巫覡はそんとき死んで、以来生まれてない』
窓からふわりと冷たい風が入ってきて、私の髪を揺らす。と同時に、窓がひとりでに閉まった。恐らく、イフライネが閉めたんだろう。
イフライネは長く深いため息を吐いた。そして、もう黙っているのは耐えきれない、とでもいったように早口で言葉を吐き出した。
『お前が歴史の勉強が足りないのは、俺たちのせいだ。学ばせないようにした』
「なんで……」
『ヤナタの精霊も、お前の存在には気づいてた。でも言ったろ? 場所じゃないんだ。そいつが何を信じてるか、が問題なんだ』
正しい祈り、つまり信頼がなければ精霊を見ることは叶わない。それは、なるほど、私は最近までヤナタに信仰が残っていることも知らなかったわ。
私の祈りはいつだって島に向いてた。
「島の巫女にするために、ヤナタの存在を隠してたの?」
声が震えるのが自分でもわかった。
島にはレイモンドがいる。私がいなくても、何かやりようがあったかもしれない。
100年ずっと巫覡が生まれないヤナタから、巫覡になり得る存在を奪ったというの……?
『だが、ヤナタは……! いや、まぁ言ってしまえばそういうことだ。……ところで、お前はさっき俺をここに置いておくつもりはないって言ったな?』
「……」
『じゃ、帰るわ』
制止する間もなく、イフライネは姿を消した。まるでこれ以上話したくないみたいに。
おかげさまで今夜はうまく眠れそうにないかもしれない。
これからの行動指針を考えたり、問題点を洗い直したりしましょう。朝まで時間はたっぷりあるんだから。
小鳥の囀りで、朝の訪れに気づく。
昨夜はイフライネとのやり取りで気が高ぶって眠れないかも、と思ったけれど、やはり疲れていたのか早々に眠ってしまったらしい。
今日はほとんど1日中、ジャンを交えて神殿建設の打ち合わせの予定だ。
早々に身支度をして、島の最新の状況についてまとめておかないと……。
「よぉ、小娘。元気にしてたか? 随分いろいろ問題起こしてまわったそうじゃねぇか」
簡単に身の回りを整えてから、朝食のために部屋を出たところで渋い声が聞こえてくる。
私を小娘呼ばわりする人物なんてひとりしかいない。顔を見ずとも誰だかわかるというものだわ。
「オクタヴィアン! おかえりなさい!」
声の主の近くへ駆け寄って、長身の男の瞳を見上げる。
「おう。ただいま。これから飯か?」
「ええ。オクタヴィアンも一緒にどう?」
「従者と一緒に飯を食う奴があるか」
オクタヴィアンは苦笑いしてアッシュグレーの髪をわしゃわしゃと乱したけど、次の瞬間には「まいっか」とダイニングへ足を向けた。
バウド家に仕える者はみんな礼儀正しく、主人と席を同じくする者はいない。唯一、オクタヴィアンを除いて。
オクタヴィアンは絵に描いたような騎士であるトリスタンの兄でありながら、性格はまるで違う。トリスタンが狼ならオクタヴィアンはゴールデンレトリーバーだ。
瞬時に相手の心を掴んで、寄り添うように笑う彼を、誰も憎めない。
「お兄様、今日は少しゆっくりですのね」
「ああ、オクタヴィアンの話を聞いてから出ようかと思ってね」
ダイニングにはお兄様が既に席についていて、お兄様の指示であろう、私とオクタヴィアンの食事の準備もできていた。
お兄様の前にオクタヴィアンが、横に私が座ると、早速お兄様がオクタヴィアンに目で促した。
「んじゃ、手短に。大方、先に飛ばした報せの通りだ。信仰のある奴らが勢力を盛り返してる」
「なぜ急に?」
「巫女が現れたからだな。精霊たちと通じることができりゃ、勝てると思ってるらしい」
オクタヴィアンは右手にフォークを握り込んでサラダを食べながら、左手に持ったパンに齧りついた。
マナーなど知ったこっちゃないと言った風な食べ方だけど、本当は誰よりも美しく食べることのできる人だ。
貴族の出身で、幼い頃からマナーは教え込まれているのだから。私自身、幼い頃にオクタヴィアンにマナーのいくつかを教えてもらったことがあるほど。
けれど影となった彼がそれらを人前で披露することはない。架空の貴族に成り済ます仕事以外では。
わざと粗野な振りをしているようにすら……。
「で、奴らを扇動してるのは……キアッフレードだ」
「なっ──」
私とお兄様は、同時に銀器を皿に置いた。
イフがまた何かすることを期待してくださった方、すまんな。
あの日のことは本人もちょっと反省してるっぽいです。
あと、「あーもー眠れんわー、問題山積みだわー」って言いながら秒で寝たアナトーリアかわいい