第61話 素顔です
「お、起きてたのか」
「……レイもね」
ぎこちない会話のはじまり。
すでにいつものようにフードを深く被っていて、視線を反らす必要などどこにもないのに、頬が熱を持っているような気がして彼の方を向けない。
それにレイモンドのベッドに横になっていることも、彼の顔を見ようとしてしまった罪悪感も、それが視界に入ってしまった戸惑いも、全てが私から言葉という言葉を奪ってしまう。
「あ、えと、ごめんなさい。私がいたら寝られないわね」
「いや、いいんだ。こちらこそすまない。眠りを邪魔するつもりはなかったのだが」
私がベッドを出ようと上体を起こしかけたのを、レイモンドが手を挙げて制す。椅子から立ち上がって大きく伸びをすると、部屋の扉へと視線を投げたのがわかった。
このまま部屋を出て、またエストとお喋りに興じるか、またはダイニングの椅子や床で寝るのかもしれない。
それは申し訳ない、そう思った私はつい声を掛けていた。
「あの、レイ」
「ん」
「えっと……さっきエストが言ってた、『覡としての言葉ではない』って、どういう意味?」
声を掛けたはいいけど、だからといって一緒に寝ましょうというわけにもいかないし、私が部屋を出て行こうとしてもきっとレイはそれを許さない。
結局なんと言っていいかわからないまま、半分苦し紛れのように口からこぼれ落ちたのは、先ほど気になったエストの言葉だった。
「ああ。実はね、僕にはずっと昔に弟がいたんだ。君が小さな子を腕の中に抱く姿はまるで……」
私の質問を受けてもう一度椅子に座り直したレイモンドは、遠くを見るような瞳で何かを語り始めたのだけど、その言葉に若干の引っかかりを覚える。
ずっと昔という表現が不思議だ。彼が100年眠っていることは知っているけれど、彼にとって100年前は「ずっと昔」ではない。今までだって、当時のカルディアのことを言うのにそんな表現をしたことがあったかしら。
「まるで……?」
「ああ、いや。……それでエストは僕の個人的な感傷じゃないかと言いたかったんじゃないだろうか」
口元が優しく弧を描く。その端々にはなんだか寂しさみたいなものを感じて、私は返事ができなかった。
それにだ。そう……レイモンドは語らず胡麻化してしまったけれど、私がピエロを抱く姿に何を見たのかしら? ピエロに弟の姿を重ねるのは理解できるのだけど、在りし日の母親でも見た?
首を傾げた私に、レイモンドは落ち着きをなくしたようにフードの端を持って深く被りなおした。
その挙げた腕に絡む組紐に、目がとまる。
ミサンガ、弟、さっき感じた懐かしさ。ずっと昔……。
嘘でしょう?
いいえ、むしろ今までどうして気が付かなかったのかしら。同時に死んだのに生まれた時代が違ったから?
「リア、どうかしたのかい?」
ついレイモンドを見つめたままボーっとする私を、彼は心配そうな声で覗き込む。覗き込まれてもなお、彼の顔はわからない。
どうしてレイモンドは私にだけ顔を隠すのだった?
──君にがっかりされたくないのかもしれないね。
いつかの彼の声が脳裏をよぎる。
今の時代の美醜を知らないから、と彼は言うけれど、本当にそれだけだったのか。
「レイ……。フードをとって見せてもらえないかしら」
私の言葉に、レイモンドは弾かれたように左腕の組紐をもう一方の手で包み込んだ。
ほんの少し俯いて逡巡している様子の彼を、私は真剣な表情で見つめる。あの日、お花畑でお城を眺めながら、私は彼の顔を見たらどう思うのかわからなかった。
表情ひとつで彼を傷つけてしまうかもしれないと思って、少し不安にもなった。
どんな容姿だってレイモンドはレイモンドなのだとわかっているのだけど、私がいくらそう思おうとも、私の表情に彼がどう感じるかは別問題だ。
だからフードを取ってほしいとは言えなかったし、きっと本人が私を信頼してフードを自ら取るのを待つしかないのだと思ってた。
でも、私は知りたいと思ってしまった。
レイモンドの素顔に会いたいのか、それとも──
「あの、ごめんなさい。無理にと言うわけではないの」
「いや、こちらこそすまない。ずっと顔を明かさないなんて失礼にも程があると、わかってはいたんだ。言いづらいことを言わせて申し訳ない」
レイモンドは俯いたまま、ベッドの上に置いた手を握っている。
覚悟が決まらないというように。
ひとつ大きく深呼吸して、その両手をゆっくりゆっくりと挙げていく。
その挙動を眺めながら、私は本当にこれで良かったのかと不安になって、呼吸が浅くなる。喉が渇く。
いまその手を制止すればまだ間に合うとの思いがよぎるけれど、カラカラになった口腔はその言葉を吐き出そうとしない。
気が付けば私も拳を握り込んでいて、その手の平には汗が滲んでいる。
緊張しているんだ……。
レイモンドの手の動きに合わせて、目の前でゆっくりとフードが暴かれていく。はらりと落ちる黒髪はもう三つ編みにはしていなくて、彼が目覚めたあの日からバッサリと切って短くなっていることが伺えた。
すっかりフードをとってしまったレイモンドはまだ俯いていて、私たちの間には静かで張り詰めた空気だけがある。
ほんのちょっとでも動いたり、咳払いでもしようものなら、またフードを被ってしまいそうなほどに繊細な時間の中で、私も、たぶんレイモンドも、呼吸を忘れていた。
窓から、明るい月明かりがさした。
今まで月は雲に隠れていたのかもしれない。窓からの明かりが少しずつ広がって、私たちを照らす。
それに気を取られたように、レイモンドがゆっくりと顔を上げて……。
「あ……」
「……っ」
目が合うと、私は言葉を失い、彼はそんな私を見て息を呑んだ。
不安げに揺れる瞳は、まさに、あの人だ。
その見目は決して同一人物ではないけれど、目元に、口元に、あの人の幻が見えた。
「なんで、泣いてるの」
「……わかんない。たくさんの感情がいっぺんに溢れて、言い表せないの」
「……?」
嬉しいのかもしれないし、寂しいのかもしれない。悲しい気持ちも、温かい気持ちもあるし、ほっとしてる自分を嫌だと思う気持ちもある。
この入り組んだ感情が私にはわからない。彼の瞳をみた瞬間から溢れ続ける涙を止められない。
「でもね、フードをとってくれてありがとう、流くん」
「えっ。なが……、リア、君は」
覚えてるの……?
掠れた声で小さく呟いたレイモンドに、泣き笑いのぐちゃぐちゃの顔で頷くと、彼は「そっか」と言ったまま押し黙った。
またゆっくりと雲が月を隠していく。
彼の心を覆うみたいに。
「覚えておいて、アナトーリア。それでも僕はレイモンドなんだと」
「……? ええ、もちろん」
レイモンドの言葉に首を傾げつつ頷くと、レイモンドは控え目に照れたように口元だけで笑って、私の頬に手を添えた。
高校生ではない、大人の、鍛えた男の人の大きな手で、そっと私の目元を拭ってくれる。その触り方も、瞳も、優しくて気持ちがいい。
『おいレイおっせー……ぞ……』
扉の開く音や廊下の明かりと同時に、するりと室内に入って来たのは朱い猫だ。
猫は、一瞬扉の前で立ち止まってから、次の瞬間にはレイモンドに向けて大きく跳躍していた。




