第60話 本当の気持ち
視点が変わります。
誰かの本当の気持ちです。
道中に拾った2、3本の枯れ枝を足元に転がすと、自然に発火する。自然にと言っても超常現象ではない。イフライネが燃やしたのだ。
精霊の使う魔法はこの世界においては超常現象ではない。そう、この世界においては。
イフライネの炎は例え枯れ枝1本であっても、その大きさは自在だ。
立派な焚き火になったその炎の横に、真っ白な髪の少年がどしりと座る。レイモンドもまた、その横に腰かけて炎の向こうに広がる海──闇を眺めた。
日付が変わってからどれくらいの時間が経っただろうか、と考えたところで、レイモンドはまた胃の当たりに差し込むような痛みを覚えて手を当てた。
赤いピスキーの報せを受けてから、気が動転しすぎて状況も時間経過ももうよくわからない。同じく混乱していたイフライネとの喧嘩が、辛うじて男たちに少しの冷静さを取り戻させたのだが。
今夜は少し風が強い。それは天がシルファムに味方したのか、それともシルファムの感情の昂りだろうか。
左腕に巻かれた組み紐を無意識に撫でるレイモンドを、隣に座る小さな神が横目で眺める。その瞳には何が見えているのか。
『来マシたね』
よく通るゲノーマスの低い声が、静かな空間に響いた。
レイモンドの肉眼ではまだ確認できないが、波音が先ほどよりも大きくさざめいているのがわかる。ウティーネが船を運んでいるのだ。
(早く……)
炎が照らすのは、浜辺に辿り着いた波の先端だけ。そこから先はほとんど闇だ。
ウティーネがアナトーリアの助けを呼ぶ声を感知して島を出て行ったのが、もう随分と前のことのように感じる。
レイモンドは無意識のうちに両の手を強く握り、息をするのも忘れて闇の中にローズゴールドのふわふわした髪を探した。
レイモンドは生まれながらの正しい巫覡でありながら、さらに神の加護を持っている。
魔力の強い巫覡に加護を与えると、精霊の力を同等とは言わないまでも準じるレベルに使えてしまう。故に本来であれば巫覡に加護が与えられることはあり得ないのだが。
長い眠りにつくにあたっては、それが必要であったのだ。
つまりレイモンドが冷静でありさえすれば、アナトーリアの無事は感知できるし、近づいていることもわかるはずである。
だが、今の彼にそのような余裕はない。
ざく、と砂を踏む音が複数。
闇の中から、足の先から順に姿を見せたのはシンプルだが美しいドレスに身を包んだアナトーリアだった。
背後にもう一人男がいるようだが、後ろに控えたまま闇から出てこようとしない。ただ、その男の必死な祈りだけは痛いほどに伝わって来た。
レイモンドの目はアナトーリアに釘付けになっていて剥がせない。
腕に抱く小さな男の子、必死な瞳、訴えかける声、何もかもがあの日の彼女そのものだったのだ。
「梅津先生! 助けて!」
桜がいくらか花びらを落として、儚げな桃色と鮮やかな緑とが見事なコントラストを作るような平和なある日の夕方、いや、もう夜と言った方がよかったか。
保育園から連れ帰った弟の直が突然熱を出した。真っ赤な顔は苦しそうで、呼吸も荒い。触れるだけで高熱だとわかった。
両親は仕事から戻っていない。
流の父は今夜も遅くまで残業、その再婚相手で流の義母にあたる人も、もうすぐ会社を出られそうだと連絡があったばかりだ。
どんなに急いだって帰宅までに90分以上はかかるし、そもそもまだ「会社を出た」とは言っていない。
両親がいない状態での発熱は、流が高校へ上がって、弟の送り迎えを任されるようになって初めてのことだ。
また、再婚を機に越してきたこの土地ではご近所付き合いもほとんどなく、頼れるのは弟の通う園の保育士だけだった。
「流くんこんばん……えっ、直くん!」
事務室にまだ残っていたその人物は、流のただならぬ空気と表情に困惑しながら顔を出したが、その腕に抱かれた小さな体に目を丸くした。
そこからの2時間が、心細かった流にとってどれだけの安心感をもたらしたか、梅津小雪はきっと知らないだろう、と彼は思う。
危なっかしく抱く流から直を受け取って園長に退勤を申し出るや、保護者への連絡、タクシーの手配、病院の付き添いと自宅療養の準備、そして保護者への引継ぎに至るまで全て対応してくれたのだ。
今思えば、保育士としてのわきまえるべき領域を侵していたかもしれない。もしかしたら、あの後彼女はどこからか咎められたかもしれない。
それでもやはり、あの日の流にとって彼女は唯一頼れる大人であったし、また、薬のおかげで穏やかに寝息をたてる弟を見つめる彼女の横顔は、さながら女神のようであった。
あの日から流が小雪さんと呼ぶようになったことに、彼女は気づいていただろうか。
家族の一員でいるための条件だと思っていた送り迎えが、日々の楽しみに変わったことには?
いつか、「直くんのお兄ちゃん」ではなく、「大須流」個人を見てほしいと願ったことは?
ダイニングで眠ってしまったアナトーリアを自らのベッドに運ぶと、レイモンドはその寝顔を見つめながら、また左腕の組み紐に触れる。
最後の送り迎えの日、小雪が結んでくれた組み紐にかけた願いも、改めて自らの手でこの腕に巻きつけた組み紐にかけた願いも、全く同じものだ。
人生を小雪と共に歩んでいけるようにと。
あの日そう願ったのは、流という人間がまだ幼かったから。
この世界にきてもそう願ったのは、幼いことに加えて、きっと叶うはずがないと思ったからだ。
(まさか、貴女もこっちに来るなんて)
長い眠りの中で精霊たちからもたらされる情報の中に、ある日、大きな喜びが混じった。正しい祈りと力を持った子どもが生まれたと。
それから彼女、アナトーリアの成長は逐一報告されるようになったが、その報告を受けるたび、レイモンドは彼女が小雪の生まれ変わりであると考えるようになった。
もちろん小雪と違う部分も多くある。レイモンドが流と同一人物ではないのと同じように。
彼女に会いたいという願いが、アナトーリアを小雪の生まれ変わりだと思いこませているだけだと、夢うつつの中で思ったりもしたが、それでも、いつの間にかレイモンドは眠りの中で精霊からもたらされるアナトーリアに恋をした。
溺れるアナトーリアを助けたとき、その瞳の中に小雪の面影を見た。
そして一緒に過ごせば過ごすほど、小雪によく似た部分と、アナトーリアらしい部分とを見つけ、より一層想いを強くする。
しかし彼女もまた前世の記憶を持っていたらどうだろう。
自分の姿にもし大須流という人間を重ねたら、彼女は自分を子ども扱いするのではないだろうか。
それが怖くて、いつまでもフードを取り払うことができない。
この世界におけるアナトーリアの幸せを願って、貴族たれ、と偉そうに言うくせに、彼女から恋愛対象外にされるのを怖がって素顔を晒せない情けなさに、思わず笑ってしまう。
「やっぱり僕は、貴女を失うのが怖いらしい」
深い寝息をたてるアナトーリアに聞こえるはずもない独り言を溢して、その寝息に耳を傾けるうち、レイモンドもまた心地いい眠りに誘われた。
作者は突然これが異世界恋愛だと思い出したようです。
またすぐ忘れると思います。




