第59話 巫覡の願いです
船が島にたどり着いたとき、真っ暗な中で森の入り口のほうに焚き火があるのに気づいた。
温かな、イフライネの火だ。
その優しい、見た人を包み込むような色に、思わず目頭が熱くなるのを感じて、私はふるふると頭を振った。
泣いてる場合じゃない。まだ安心できる段階じゃない。
シルファムの助けを借りながらピエロに負担がかからないように抱き上げて、船を降りる。
ドレスが海水を吸って重くなるけど、それもきっとすぐに誰かが乾かしてくれるだろう。
「……エスト、お願い」
「巫覡は一方の肩を持たぬよう、島で生活せねばならん。島を離れていた巫覡の願いは聞き入れがたい」
焚き火の傍には、胡坐をかいた小さな神が目を閉じ、腕を組んで私を待っていた。
その横にはレイモンド。深く被ったフードで表情は全く見えない。少し離れたところで狼と猫が神妙な顔をしてこちらを見ているのが見えた。うさぎとエナガも、ゆっくりとそちらへ向かう。
バルナバにはレイの姿と焚き火しか見えておらず、エストの声だって聞こえていないだろうけど、何か感じるものがあるのか、私の少し後ろに控えたまま黙している。
「この子がどこの誰だろうと、そして私がどこにいたって、同じお願いをするわ!」
「いいや、それは違う。リアよ、お主の目に見えぬ数え切れないほどの命がいまもどんどんどんどんと消えていく。その星の数ほどもある消え行く命のうち、目の前のひとつを選びとるのがどういうことか……」
世界のどこかで次々と消えていく命があるのはわかる。
私の与り知らぬところで消えていく命と、今失われようとしているピエロの命と、何が違うのか。
言葉を詰まらせたとき、エストの背後からひょこりとピスキーが顔をだした。赤い羽根の都会のピスキー。私の状況をエストに報せ、苦境を切り抜けるための布石を作ってくれた子だ。
ああ、そうね。
ピスキーが助けてくれたんだわ。私が巫覡だから。
「この子は、言うなれば私を助けてくれた。私の代わりにこの身に傷を受けたようなものだわ。巫女の命を守ったこの子を見捨てる神なんて、誰も求めないでしょう?」
目を閉じたままのエストは唇もしっかりと結んでいて、波の音と火の爆ぜる音とがとても大きく響く。
「……僕からも頼む、エスト」
レイモンドが小さく呟く。相変わらず表情はわからないけど、その声には何か気持ちを押し殺すような必死さが感じられる。
「おまえもか、レイモンド。それは覡としての言葉ではないな?」
「いや……これこそ覡らしい願いじゃないかと思うよ」
静かに目をあけたエストは、レイモンドへ非難するような表情を向けるが、レイモンドは一瞬考えてからエストの言葉を否定した。
しばらく続いたレイモンドとエストの睨み合いの果てに、降参したのはエストだった。
「はぁ……。お主らの考えることなぞお見通しじゃ。全く……もうやることはやっておる」
その言葉の意味をすぐには理解できず、エストが深い溜め息を吐いてから立ち上がって森の中へと入って行くのを呆けた表情で見送る。
レイモンドと目を合わせたとき、腕の中のピエロが身じろぎして、そしてやっとその言葉の意味を理解した。
「ピエロ?」
「アニおねえさ……。おに……ちゃ」
さっきよりも少し顔色が良くなったように見えるピエロは、目をうっすらと開けてバルナバを探す。
私が後ろを振り返るのと同時に、バルナバが勢いよくこちらへやって来た。
「ピエロ!」
「おにちゃ……」
ピエロの体をそっとバルナバに託す。
ああ、やっとこれで一心地つけそうね。
『いつまでもこんなとこいると、チビもお前も風邪ひくぞ。ウチに帰ろうぜ』
いつの間に近づいて来ていたのか、イフライネが私の足元で体を摺り寄せながら、こちらを見上げてニャァと鳴いた。
一体これは、どういう状況なんだろうか。
いつの間にか眠っていたらしい私が目を覚ますと、そこはレイモンドの私室で、私はレイモンドのベッドで寝ていたらしい。
ベッドの脇にはレイモンドが椅子に掛けたまま、上体をベッドに乗せて眠っている。
ええと、確か……。
ロッジに到着してから、ピエロを私のベッドに寝かせて、バルナバを部屋に残して出てきたのよね。
ダイニングではエストとレイモンドがお酒を飲み始めていて、私もそこに加わってエストにお礼を言って……。
そう、そこからの記憶がもうほとんど曖昧なのだわ。
今日は朝からとても忙しくて、しかもいろいろなことがあったからずっと気が張っていたし、安心したら急に眠くなったのだけ覚えている。
部屋の中を見渡したけれど、どうやら室内には精霊もいないみたい。
レイモンドから深い呼吸音が聞こえてきて、ぐっすり眠っているらしいことがわかった。
フードはもうほとんど脱げかけていて、もう少しだけ私が角度を変えて覗き込むか、フードをめくるかしたら彼の顔が見えてしまうと思う。
見たいという好奇心と、見てはいけないという良心とで指先がムズムズする。
少しだけ……見てもバレない、わよね?
いいえ、彼はそんなこと望んでないし……。
少しだけなら……。
好奇心に勝てずにゆっくりと手を伸ばしたとき、突然レイモンドが動いた。
「こ……さ……」
こ?
なにやら寝言をぼそぼそと呟いたレイモンドは、ほんの少し腕のポジションを変え、その拍子にフードが大きく脱げる。
「……ッ!」
み、見てはダメ、絶対ダメ。
さっきフードを脱がせてやろうと思っていたくせに、いざ脱げてみるとその顔を覗き込むのは絶対いけないことのような気がして、目を反らしてしまう。
けれども瞬間的に見えたその顔に、私はなんとなく懐かしいものを感じていた。
もちろん気のせいだとわかってる。正面から見たわけでもないし、彼は目を閉じている。彼の顔の造形をしっかり見たわけではないのだから、懐かしいもなにもないのだ。
懐かしい。
流くんを思い出してしまった。前世で懐いてくれた年下の男の子。
きっとどこかで元気にしているはずの。
レイモンドがいるのとは逆の方向に顔を向けると、そこには書き物机があって、何かつらつらと書き物をしていたらしいことに気づいた。
100年の眠りから覚めた彼は、現代文の読み書きを苦にしていた。
文字そのものは大きく変化したわけではないのだけど、それでも少しは違っているし、文法なんてまるで違う。
話し言葉なら精霊たちを通して眠っている間も常にアップデートできるから良いのだけど、書くとなると難しい、そう言っていたのを思い出す。
確かエストから文字や文章の書き方を習っていたと思うけど、もう随分と上達したのではないかしら。
それに、久しぶりに会ったレイモンドはまた一回り体格が良くなったように思う。ローブからはみ出したその腕は私の1.5倍はありそうに見えたのだけど、一体なにを目指しているのかしら。
そういえば、浜でエストと対峙したときのレイモンドの気迫も凄かった。
眠っているうちに体だけが大きくなって、体と心と知識がアンバランスだった彼も、ほんの少し会わないうちになんだかすごく成長して均整がとれてきたような気がする。
「ん……」
レイモンドの眠たそうな声が聞こえ、それとほぼ同時にバサバサと衣擦れの音がした。
目覚めたのだろうか。それとも寝返りだろうか。私はレイモンドへ視線を向けていいものか悩みつつも、ゆっくり頭を逆方向へ向ける。
「わ……っ」
ちょうどこちらを覗き込んでいたらしいレイモンドと目が合って、慌ててお互いにわたわたとそっぽを向く。
びっくりした。まさかこんな近くに彼の顔があるだなんて、予想もしなかった。大きく飛び跳ねた心臓が、バクバクと騒がしくしている。
ピエロたんは助かったようです。
島キャラを描きたいがためにピエロたんに怪我をさせた可能性がありますねコレ。
いやホラしばらく島キャラ登場してなかったからね仕方ないね