第49話 異端審問官です
「あら、今日は一層ご機嫌ナナメみたいですわ」
「んもう、失礼ですよ、メアリ」
メアリがどこか遠くを見ながら、イタズラっぽく笑う。フリーデもまた困ったように眉を下げて形式的に窘めた。
きっと私の後方にいるどなたかの話なんだろうけど、振り返って探すのは良識ある行動と言い難い。
一体誰の話なのか、と首を傾げると、メアリが何か思い出したように楽し気に目を丸くして、口を開いた。
「そういえば! あの方、ええと、ボナート公爵様ですわね。どうやら異端審問官になったとお聞きしましたわ」
「……異端審問官?」
「もう、メアリったら」
どうやら、ご機嫌ナナメだったのはボナート公爵のことらしい。ええ、それはそうでしょう。ここ最近で彼の機嫌が良くなるようなこと、何もないもの。
でも、異端審問官というのはずいぶん不思議な言葉だわ。この国にはどんな神様もいないし、異端なんて言葉は昔話と他国の民話にしか出てこないのだから。
「アニー様が戻っていらっしゃるよりほんの少しだけ前に、彼が『魔女だ……』って青い顔をして呟いたことがあるらしいんですの」
「以前、公爵様が『紛失』と届け出た船舶の国旗が、他の船の倉庫に綺麗に畳んでしまってあったらしいのです。
船で国旗の掲揚を忘れるのは重大な違反ですから、旗が見つかった以上、紛失は掲揚し忘れたのを胡麻化すための方便ではないかと思われたのですけれど」
「公爵様はどうやら、紛失が正しくて、国旗がしまってあったことについては、魔女の仕業だって言いたいようですわ」
「それで、どなたが言い出したのか『異端審問官』と」
フリーデももう窘めるのをやめて、メアリと一緒にクスクスと可愛らしい笑い声をあげながら説明を補足した。
彼が紛失した国旗と言えば、きっと島に投げつけたアレで……。アレは確かピスキーが持ち主に返すべく持って行ったはず……。
もしかして、旗が見つかったのは、あの日私に宣言書を持ってきた管理官の船かしら。だとすれば、公爵の仰ってることのほうが正しいは正しいけれど、誰も信じないでしょうねぇ。
「ね、その魔女ってどなたのことかしら?」
「えっ? どうでしょう。誰も魔女が誰を指しているかなんて気にしてませんわ。もはや失笑を誘うだけですもの、……想像上の存在では?」
フリーデは柔らかな笑みと真っ直ぐな瞳で、意図しないままに公爵を貶めた。想像上の存在だなんて、公爵がご病気と言っているようなものなのに。
思わず笑ってしまったけれど、まぁ、よく考えればエストとピスキーのやったイタズラだものね。ちょっと可哀想だったかしら。
それはそうと、魔女というワードで誰も私を関連付けないということは、クララが私を指して「魔女」と言ったことについては、ほとんど情報として開示されていないと考えて良さそう。
ただ、ボナート公爵の求心力が下がってるのはわかっていたけど、嘲笑の対象となるほどだと、由々しき問題ね。できれば彼をあまり刺激してほしくないのに。
「ボナート公爵様は随分とお疲れでいらっしゃるのね」
「あら、ラニエロ様から聞いていらっしゃらないのですね? アニー様の罪状についての異議申し立てがあって、再審となったときのお話……」
メアリがまたも目を丸くして言うので、ああ、そう言えば聞いていなかったと頷くと、これまで以上に小さな声で再審会議での出来事を話してくれた。
メアリの父親であるアメデオ・ルケッティ伯爵は、外政部──前世の日本で言えば恐らく外務省に類する部門の大臣だ。バウド派筆頭貴族であるのに加え、私の無実を訴えるメアリの言葉を信じ、最後まで擁護してくれたと聞いている。
貴族とその家族が犯した罪や罰の審議・決定は、平民とは違って政務を担う大臣たちの会議による。
これは例えば取り上げた領地の扱いなども検討する必要があるので、その結果によって貴族間の力関係が大きく変化するのだから仕方ない。
最初の審議に、宰相であるお父様は参加できなかった。娘の犯した罪に関する審議なのだから当たり前のことね。
犯罪者を身内から出したお父様へのお咎めも、もちろんないではなかったのだけど、もう終わったことなので置いておいて……。
再審会議では左右の丞相と全ての大臣に加えて、お父様とお兄様が再審請求者として参加。
お兄様が集めてきた証拠や、証言の不確実性でもって私の冤罪がほぼ決定となったとき、やはり大臣たちの視線は、最初の審議で無理に話を勧めたボナート派の面々に注がれた。
「ボナート公爵様は、ご自分のお立場が危うくなったときに、バウド公爵様の、他国との内通の疑いをチラつかせたのですわ。ご自分への追及を反らせようとして」
「まぁ!」
それはもしかしたら、クララのメモにもあった東のバルテロトとの件かもしれない。
ゲームの中の話であれば、ヒロインの選択したルートによって、お父様はバルテロトと内通しているのを暴かれて失脚することになるらしいのだけど……。
「バウド公爵様は、バルテロトの姫君と、それを擁する貴族の亡命の相談を受けていらっしゃったのです。けれどそれは最初の相談の時点でわたくしの父にも報告をくださっていたので、やましい点は何もありません」
「そうなの……。ごめんなさい、父のお仕事について、私は何も知らないものだから」
「いいえ、わたくしだって、父から話を聞いたのはこの件についてだけですわ。アニー様を信じたご褒美に聞かせてもらったのです。でも結局、人を信頼することとリスク分散の大切さ、なんてお説教になりましたけど」
なるほど……。ゲームストーリーと、この世界での現実はやはりまるで違っているのだわ。
クララのメモで気になっていた点の1つはこれでクリアできたと考えて良さそう。
「それで、なぜボナート公爵様が……?」
「ええ、父とバウド公爵様とでバルテロトとのやり取りを説明した後、ラニエロ様が……『そう言えば、亡命を希望する相手方の貴族も内通者の存在をほのめかしていたとか』と仰ったのです。それで、ボナート公爵様が……」
メアリが一層声を小さくして、私とフリーデが顔を寄せあったとき、私たち3人の視界がうっすら暗くなった。
「噂話はそこそこにしておかないと美しくないよ、お嬢様方」
「お兄様」
ラニエロお兄様がニッコリ笑って私の傍らに立つ。
私にとっては甘すぎるほどに優しいお兄様だけど、陰で彼は「鋭利な剣」と呼ばれているらしい。「切れ味のいい刃のような冷たい人物」と、「才知の鋭い右丞相の懐刀」というダブルミーニングだ。
つまり、彼をよく知らない人たちからは、結構恐れられているみたい。
「ラ、ラニエロ様」
「あ、あの、ごめんなさい」
それでこんな風に、私の友人たちですら震えて小さくなってしまうのだから、お兄様の結婚はいつになることやら。
「さあ、そろそろ帰ろうか、アニー」
優しい微笑みを絶やさないまま私の腰を持って扉へと促すお兄様に、メアリが驚いたようにも見惚れたようにもとれる表情で固まっているのが見えた。
結局、メアリの話の続きはお兄様から簡単に教えてもらえた。
内通者の存在をほのめかした結果、ボナート公爵は「ならば一刻も早くネズミを見つけ出さなければならない」と締めくくって、早々に会議を終わらせたらしい。
これ以上、探られたくなくて切り上げたのか、はたまた本当に左丞相として一刻も早くネズミの捜索を始めたかったのかは、誰にもわからないまま。
ボナート公爵さん限りなく黒っぽいグレーのまま尻尾隠すのお上手!
異端審問官様! ぷーくすくす




