第38話 男たちの想い
前回、「次回はイフちゃんのお話です」と言ったな、あれは嘘だ(??
朱い髪を揺らした長身の男は、音もなく扉を開けて中へ滑り込み、静かに閉める。
ベッドに腰かけたこの部屋の主は、窓から空を眺めているようだが……その目に映しているのは、恐らくあの輝く星々ではないだろう。
どれだけ気配を消そうとも、男が近づけばいつだってすぐに気付くはずなのに、今夜はさすがにそうもいかないらしい。
「いつまでとんがってるつもりだよ?」
侵入者がため息交じりに声を掛けると、黒髪の男はピクリと体を強張らせた。
まるで油を差し忘れた機械人形みたいに、ぎこちない仕草で振り向いたその表情は、ひどく情けなく見える。
「イフライネか。どうかしたのかい」
「どうしたもこうしたもねぇだろ。アイツ、明日帰るんだぞ」
「ああ」
イフライネは手近な椅子に腰かけて、また星空へ視線を向けた男を眺める。
その黒い瞳は何を見ているのだろうか、と思いながら、イフライネの意識もまた十数年昔へと引っ張られた。
あれは精霊たちにとって100年ぶりの感覚だった。
巫女に似た祈り。
レイモンドが深く長い眠りについてから、カルディアがブールに呑み込まれ、信仰は消えた。
信仰のない場所に巫覡は生まれない。
あの甘やかな祈りを、イフライネは忘れないだろう。長く渇望していたのだから。
幼くぎこちなかった祈りは、少しずつ強さと優しさを持つようになった。どこかからそんな祈りが届く度に、精霊たちは目の前が明るくなっていったのだ。
そしてそれを、眠るレイモンドにいつも聞かせていた。新たな祈りが生まれたと。自分たちは忘れられていなかったのだと。
巫女と呼ぶには少し儚いその祈りは、それでもいつだって清廉で慈愛に溢れていた。
それを伝えるたびに、レイモンドは眠りながら微笑んだのではなかったか。
今まで、どこかから聞こえてくるだけだったその祈りが、ある日、イフライネの目の前でもたらされた。
泥だらけで、髪に枯れ葉をつけたままの姿が、あまりにも美しく見えたことを、イフライネはレイモンドに伝えられずにいる。
何に代えても彼女の祈りを守りたいと願う自分の気持ちもまた。
「おい、レイモンド……」
「彼女は弓ひとつ引けないんだ」
「……」
「エストはいつまで彼女に加護を与える? この島で加護を失えば彼女はどうなる」
レイモンドはイフライネを見ないまま、自問するように言葉を紡ぐ。
何度もその問に向かい、満足のいく回答を導き出せなかった苦悩が、彼の表情に影を落とすのだ。
レイモンドが起きてきた今、アナトーリアに加護を与える必要は、本来的にはもうないのである。
もちろん、祈りは多いほどいい。だからこそ彼女の加護はいまだ取り上げられていないのだろう。
しかし……。
早く帰りたいと呟いた彼女を、レイモンドは見ていた。
迎えに来た家族に向けた安らかな瞳も、彼女の兄が抱いた焦燥も。
「加護がなくても、俺たちはアイツを守るだろ」
「ここにいなくても、祈ることはできるだろう。わざわざ豪華な食事に忠実な従者、愛する家族と離れる必要はないんだ」
「お前は、その手で守ってやりたくねぇのかよ」
イフライネの言葉に、レイモンドは目を閉じた。両の拳は固く握られ、星明りに白い。
瞼の裏に映るのは、砕けた黄水晶。耳の奥に響くのは、助けを求める彼女の声。この手に残る感触、握り合った手は……。
「これが僕の守り方なんだ」
「俺にはわかんねぇよ、そんなの」
イフライネが大きく溜息を吐いて、室内はまた静寂に包まれる。
溜息を吐きながら、わからないのではなくわかりたくないのだと思い直す。レイモンドの言う通り、彼女はここにいるべきではない。
狼の襲撃は、レイモンドが近くにいたから難を逃れただけの話だ。彼女は、炎を纏う精霊の名を口にしなかった。
呼び出してくれなければ、守りようがないのだから。
どれくらい経っただろうか、イフライネは「ふっ」と息を漏らしながら笑った。
彼女の気持ちを無視して、帰れとしか言わないレイモンドに腹を立てたイフライネであったが、もっと根本的なことに思い至ったのだ。
「なぁ、レイ。お前が何を言っても、アイツはきっと来るよ。いろんな職人や資材をでけぇ船に積んでさ」
彼女はそう簡単に意思を曲げないし、頑固だという点において、彼女を知る者なら同意するはずだ。
にも拘らず、星降る夜に男二人でやいのやいのと言っている状況が、イフライネには可笑しくて仕方がない。
「そう、だろうな」
レイモンドもまた口の端に微笑みを湛えながら頷く。
それは、隠し切れない喜びの表れだと、イフライネは気づいていた。本人が気づいていなくても。
「んじゃ、アイツの出発までにやることは決まったな?」
レイモンドがイフライネを振り返ったとき、そこにいたはずの精霊の姿は既になく、ただ机の上に金色の細い鎖が置かれていた。
翌朝早く、レイモンドは別の部屋で眠るアナトーリアを起こさないよう、静かにロッジを出る。
途中で横切ったダイニングでは、グラスを片手にテーブルに頬杖をつく少年がニヤリと笑うのが見えたが、目を合わせずに通り過ぎた。
朱い精霊が自分の心をコントロールできずにいる様を、さっきと同じ表情で眺めるのを見かける度、食えない男だと思っていた。
その目が自らに向けられたことで、レイモンドはほんの少し自覚する。
自分は自分の心に正直に、そして理性的に、正しく判断していたつもりだったが、もしかしたら違うのかもしれないと。
少なくとも、あの食えない男には、そうは映っていないようだと。
ただ、自分の選択の誤りがどこにあるのかは、わからない。
レイモンドが目指した場所は、神殿の建設候補地だった。
立地の都合の良さだけを、アナトーリアには説明していたが、ここは島のほぼ中心にあり、海、大気、地中を漂うエーテルの結束点になっている。
現代の魔科学ではエーテル学の理解が最も進んでいるらしい。
仮にエーテル学の権威がここを訪れ、学術的に調査しようとすれば、いくつもの新しい論文が学会を駆け巡ることだろう。
その前に聖域にしてしまえば、調査したがる人間も減るはずだ。
しばらく、きょろきょろと周りを見渡したレイモンドは、そこから西へ5、6メートル進み、杖の先で足元の地面に小さな丸い円を描く。
瞳を閉じて小さく何事か呟きながら、その杖の先でカツリと地を叩くと、描かれた円は20センチほどの深さの穴となり、その中心には美しく輝く透明の石があった。
結局レイモンドの話になってた!
ところでエスト君はいつ寝てるんですか?
A.寝たいときに。神様も精霊も睡眠は必要としてません。暇すぎたら寝るんじゃないかな。
作者、明日から数日雲隠れします。次回の更新は予約投稿の予定です。(※予約の設定に失敗したときのために念のためお知らせしております。




